「毒」とは

渡英後三年間での毒の噴出、そこから自分を振り返り始めること四年、苦しみながら本格的に自分と向き合い二年。これだけかかった解毒がようやく落ち着いてきた今、「毒親」の「」がなんであるかがわかってきた。

「毒」とは簡単に言うと、OSの脆弱性のようなものだと思う。

誰にでもOSの特性や脆弱性というのはあって、だから人はそれぞれ得意なアプリ、不得意なアプリが異なる。軽いアプリでも特定のところで動かなくなってしまう人もいれば、同じ人が重いアプリをサクサク動かしたりする。同じアプリでも人によって表示のされかたが微妙に違うように、感じかた見えかたも異なる。

人は育っていく過程で、少しずつOSをインストールして構築していく。だからまず、親との触れ合いの中で安心感や自己肯定感などの基盤をすべてインストールすることが重要。その前にアプリを入れて大人と同じように動かそうとしたりすると、うまくいかない。

インストール元、いわゆる親のOSに脆弱性が多いとそれをインストールしてしまうため、親と同じ問題を抱えることになる。どれだけ違うアプリを入れたりして「親とは違う」と思っても、親と同じ問題が起こってしまう。

持っていても特に問題とならない脆弱性や、問題となっても大したことがなかったり、簡単にカバーできるようなものもある。「毒」とは、この脆弱性が生きていく上で支障をきたすほど深刻なものだと私は考える。

例えばきっと多くの日本人が持っているであろう「時間は守らなければならない」という思い込み。日本に住んでいたころ、出勤で駅に向かう途中、閉まりかける線路を渡ろうと猛スピードで自転車が踏切に突っ込んできて、下がってきた遮断機にラリアットされて跳ね飛ばされるのを目の前で見た。

そんな命の危険を冒してまで守らなければならない出勤時間とは、いったいなんなのか。次の電車に乗ることで遅れる10分の間に、いったいどれだけ重要な仕事があるというのか。

「時間は守らなければならない」という思い込みがなければ、自分の命のほうが大事であることはすぐわかる。上司だって、朝10分遅れようと、その日のうちに終わらせなければならないことが終わればいいだろうと思える。例えその10分の間に大事な仕事があったとしても、命をかけるほどのことではないということは誰にでもわかる。

こんな簡単なことでも、この思い込みがあると把握できない。命の危険を冒しているという現実が、まったく見えなくなってしまう。

「時間は守らなければならない」
「人に迷惑をかけてはいけない」
「お金は節約しなければならない」

どれも常にそうでなければならないことではなく、状況によって変わるものだ。それでも思い込みがあると、状況を正確に把握できない。

現実を正確に把握できないとどうなるか。遮断機にラリアットされる。それはそうだ。車が走っているという現実を把握できずに道を渡れば、はねられる。つまり、程度によっては命の危険がある。

物理的なことだけでなく、メンタル上でも同じことだ。

「時間は守らなければならない」という思い込みがあると、万が一「時間を守れなかった」ということがあったときに、それを把握できない。つまり、受け入れられない。生きていれば、人間誰しも時間を守れないことなど掃いて捨てるほどある。でもその現実を受け入れられない。計算不可になる。

するとどうなるか。自己嫌悪で耐えられなくなる。ひどいと「私は遅れなかった」とする嘘をついて、現実を曲げようとする。リセットボタンを押すように、現実を消そうとする。もっとひどいと、時間を守れなかった自分を消さなければならないと思うようになる。つまり、自殺だ。

しっかりしている人ほど、うつになったり自殺を選んでしまうというのは、こういうことなのだろうと思う。しっかりしている自分しか受け入れられないから、しっかりできなかったときに自分を受け入れられず、現実との乖離に苦しむ。存在していられなくなる。

「あの人が私をしっかりできない状況に追い込んでいるのだ」と、周りを責めたりもする。周りのせいにするような自分を「人のせいにするなんて」「しっかりしていない」「こんな自分はだめだ」と受け入れられない場合も、自分のほうを消そうとしてしまうのだろう。

人間誰しも、しっかりできないことなどいくらでもある。体調が悪かったり、頭が回らなかったり、または外的な要因であったり。そんなとき「しっかりできなかった」という現実は変えられないのだから、それを受け入れられるようになるしかない。「しっかりしていなければならない」という脆弱性をアップデートで修正すればいい。

でも、それが簡単にできれば苦労はしない。なかなか修正できないから問題なのだ。

なかなか修正できないのは、アップデートをインストールせず避けているからだ。さっさとインストールしてしまえばいいのに、それができない。アップデートのお知らせが見えていても、無視してしまう。「自分には該当しない」と思いこんでいる人もいる。お知らせをオフにしている人もいる。

どうしてそんなに、脆弱性を抱えたままでいたいのか。

「いい子ね」「えらいわね」とほめられかわいがられ、しっかりしている自分しか親に受け入れてもらえなかったのか。もしくは、自分はあんなひどい親と違ってしっかりしているということを支えにして、生きてこざるを得なかったか。

どちらもその子供にとっては生命の危機につながる大変な経験から、「しっかりしている自分」を支えにして生きるようになってしまったのだ。自分を生かしてきたこの大きな大黒柱がなくなったら、自分ががらがらと崩れてなくなってしまう。だからしっかりしていなければならない。脆弱性が手放せない。

ということは、脆弱性を修正するには「しっかりしていなくても大丈夫なのだ」ということに気づく必要がある。

子供のころは親に受け入れられないと生きていけなかったから、しっかりしている必要があった。でも大人になり自分で自分を認めて生きられるようになったら、もう親の評価は必要ない。また駄目な親と比べてしっかりし続けなくてもいいし、自分のままでいい

そこに気づいていくことが、アップデートをインストールし、脆弱性を修正していく。

自分は大人でしっかりしているという人、どうしてしっかりしていなければならないのですか?自分はわかっているという人、どうしてなんでもわかっていなければいけないのですか?負けず嫌いな人、どうして負けてはいけないのですか?

それが自分の性格なのでしょうか。ポリシーなのでしょうか。しっかりしていて大人な自分が好きですか。ポリシーとして守り抜きたいのでしょうか。ではその性格やポリシーはどこから来たのでしょうか。そのポリシーによるメリットは?そのポリシーによってどれだけ幸せになりましたか?

それは育ちの中でインストールされた親のOSではありませんか?アップデートすることでラクになれるのではありませんか?もしくは違うOSをインストールしてみてもいいのではないでしょうか?初期設定にこだわるよりも、サクサク動いてラクに生きられるのが一番ではありませんか?

こうして脆弱性を修正して自分が生きやすくしていくことが、解毒なのだと思う。

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