Authentic

Authenticに生きた

まさにその「Authenticに生きる」を実践したできごとが、すぐに起こった。

同居に向けて」で夫の実家へ行き、夫といることに慣れる練習をしてはいたものの、それからもずっと別居の避難生活を送っていた。カウンセラーに相談したところ、一緒に暮らさないと、一緒に暮らさないことにどんどん慣れていってしまうから、できるだけ早く同居を再開したほうがいいと言われた。

ただ、いきなり家で二人で生活を始めることはせず、少しずつ慣らしていくのがいいと言われた。そこで同居の練習を兼ねて、「大騒動の前夜」でクリスマスに夫の実家へ泊まりに行くことにした。ここで数日、周りに人がいるところで夫と過ごしてみて、様子を見る。大丈夫そうだったら、一緒に帰ってきて暮らし始める、という予定だった。

大騒動の襲来」はあったものの、カウンセラーのおかげで「大どんでん返し」となり、「大騒動から見えてきたもの」で書いた通り夫が帰宅して、二人で家で年越しをし、そこから一緒に暮らし始めることになった。奇妙だったし、なにか壊れやすいものを抱えているような感じはあったものの、なんとなくまた戻れたことが嬉しい気持ちもあった。

夫は行ったり来たりの生活から落ち着いて暮らせるようになって、ほっとしていた。前はそんなことはなかったのに、なぜか私が料理をするたびに「ありがとう」と言うようになった。これはのちに理由が判明する。

こうしてなんとか共同生活に戻った。

カウンセリングは、①私個人、②夫個人、③二人同時、の三体勢で受けていた。毎週三回というわけではなかったけれど、①と③はほぼ毎週で、②の夫も行けるだけ行くようにしていた。

だけど共同生活に戻ったからか、夫はだんだんとやる気を見せなくなっていった。②の夫のカウンセリングは予約がなくなり、私が予約を入れる①と③だけになっていった。

通常カウンセリングというのは「毎週金曜の5時」などとスロットを決めて行うものだけれど、ここのカウンセラーはそうではなかった。だいたい毎週この曜日のこの時間というものはあるけれど、毎回予定を見ながら予約を入れるシステムだった。だからいつもの日に行けないときでも、別の日が空いていたらそこに入れてもらえる。

だからこちらから言い出さないと、自動的には予約は入らない。なんだかんだと理由をつけて、夫は予約を入れなくなっていった。早く問題解決して無事に暮らせるようになりたかった私は、そんな夫に怒りがわいた。

仕事のスケジュールがまだわからないから予約を入れられないと言っておきながら、予定がわかった時点でもなにもせず、時間だけが過ぎていった。もうこれで終わりなのか、どうするつもりなのかと言えば、「忘れていた」「ごめん」などと言っていた。

でも口ばかりで、反省の色はまったく見えなかった。

口だけで「Sorry」を繰り返す夫に対し、私の怒りはまったくおさまらなかった。むしろどんどん加熱していった。それもそのはずだ、このとき夫は自分が悪いことをしたなどとまったく思っていなかった。そしてそれは、毒親にされたこととまったく同じことだったのだ。

「Sorry」と言われたら、許してやらなければならない。私はなにも悪いことをしていないのに、すべては夫が悪いのに、私の怒りはなにもケアされることがなく、私ばかりが怒りを引っ込めて我慢しなければならない。そしてなにも悪いと思っていない夫がまた同じことを繰り返して、「Sorry」と言われたらまた許してやらなければならない。

こんなことはどう考えてもおかしい。

ずっとうずくまって、体の中に荒れ狂う怒りをどうしたらいいのか考えていた。でもなにも思いつくはずもなかった。

そして「怒りは怒りの発端に返さなければならない」という、どこかの本に書いてあった文章を思い出した。毒親育ちは、毒親から受けた理不尽な扱いに対する怒りを毒親に返せずに、自分の中にしまいこんでしまうから、その行き場のない怒りがまったく関係のないところに出て問題を引き起こす。だから怒りはしまいこまず、発端に返さなければならない。

そこで夫に「本当に悪いと思っているのなら一発殴らせろ」と言った。そうしたらやつは、「そんなことで問題は解決しない」などとほざいてきた。

怒りでブチ切れ、泣き叫びながらいかに夫が自分勝手か罵倒した。すると夫はしばらく頭を抱えて獣のようにうーーーと唸り、突然起き上がってガーーーっとキレた。

「You made me angry!!!(俺を怒らせたな!!)」

夫はものすごく醜い歪んだ顔で、わけのわからないことを叫んだ。

なんでお前がキレるのだ。キレのはだ。自分が悪いことをして、そのせいで私が怒っているのに、それをどうしようもできなくて自分がキレる。もうわけがわからなかった。普通ではないと思っていたけれど、本当に頭がおかしいと思った。

そこから言いわけをバーっとし始めた。また実家に行く予定だから、そこでの話をカウンセリングでしたかったからそれまで待っているのだ、自分はKelokoと違って心配性じゃないから焦ったりしていないのだ、Keloko以外の人間は誰でも焦らず普通にやるはずだ、自分はこのペースなのだからこのペースでやらせろ、人を変えることはできない、このままの自分をKelokoは受け入れなければならない、自分は一人だって生きていけるのだ、自分がKelokoと一緒にいたいから努力してるだけであって、それがなかったら自分たちは一緒になんかいられないのだ、なにもかも自分のおかげなのだ。

本当に終わってると思った。カウンセリングでちょっとかじったことを最大限に悪用して、母国語の英語でぶわーっと言ってきた。このやり口に、のちのち私は死ぬほど苦しめられていくことになる。

私は単語のひとつひとつを全力で叫びながら、言い返してやった。

そんなお前の予定なんか知ったことではない、そんなのお前の頭の中にあるだけで、今始めて聞いた。そりゃあ私はお前より頭がいいけれど、超能力者ではない。お前が火曜にスケジュールがわかると言ったから待っただろうが。ちゃんとお前のペースに合わせてやっているだろうが。お前はいつも「大丈夫」「やる」と言うくせに、いざ仕事が始まったら「仕事の後にカウンセリングなんて疲れてできない」などと言い出すだろうが。今のうちに受けれるだけ受けようと思うのが普通だろうが。いつだってお前は私の行動を待ってるだけで自分からはなにもしないだろうが。なにが自分の努力でこの二人がもっているだ、真逆だろうが。

そうしたら夫はうーーーんと唸り、身動きできなくなってしまった。

そこで、「Authenticに生きる」を思い出した。それで時間を置いたあとに、夫に言ってやった。

いいか、私は今までお前が「Sorry」と言えば許してきた。でも、これからは違う。私の中に怒りがあるうちは、許したりはしない。怒っているのにお前を許すのは、私の「怒り」という感情を無視していることになる。今までそうして怒りを自分の中にためこんできたから、こんなに大変な問題になっているのだ。金輪際そんなことはしない。自分の感情を無視せず、尊重する。「Authenticに生きる」とカウンセリングで教わったのだ。

私の中に「怒り」はちゃんとある。誰がなんと言おうと、お前が謝ろうと謝るまいと、これが私の中にあるうちは許したりしない。私は金輪際、自分の気持ちを無視しない。私が無視したら、他に誰もそれを拾ってくれる人がいないのだ。私しか拾ってやれる人間はいないのだ。お前がなんと言おうとなにをしようと、誰がなんと言おうとなにをしようと、私は私の感情を無視しない。それが気に入らないやつのことなど知ったことではない。

全力で、単語のひとつひとつに力を込めて、言ってやった。

そうしたら夫がハッとなり、「殴ってくれ」と言ってきた。私の手首をつかんで、自分の胸に当て、殴ってくれと。

すると驚くことに、私の怒りはすーーーっと消えていった。

すごかった。「怒り」は、認識されたらなくなるのだ。「怒りを癒す」でやったことだった。夫が私の怒りを無視して口ばかりの「Sorry」を繰り返す間は怒りが認識されず、どんどん増していくばかりだった。それがひとたび夫にきちんと認識されたとたん、きれいに消えてなくなっていったのだ。

毒親から与えられた怒りがいつまでたっても消えずに積もり積もっていってしまうのは、その怒りが認識されないからだ。「そんなことで怒るお前が悪い」「なにをそんなに怒っているのだろうね」「私はもうなんとも思っていないのにね」と、一方的に理不尽を押しつけて人を怒らせておいて、それを認めないどころか無視して放置するからだ。

毒親が「確かに私があなたにしたことは悪かった、あなたの怒りはごもっともだ」と言い出すことはまずない。だからこその「毒親」なのだから。毒親育ちは他の方法で、怒りを認識してもらい、解毒していく方法を見つけなければならない。それがカウンセリングで行われる「共感」の手法なのだろう。

そして怒りを抑圧せずに、こうしてAuthenticに自分の気持ちを説明しぶつけたことが、自分にとっても自分の怒りを正当とし認めることになり、夫にも認めさせることになったのだ。それが怒りの解消になったのだ。

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Authenticな人生の始まり

でも考えてみたら、「Authenticに生きる」ということはすでに私の中で始まっていた。

「Authenticに生きた」結果、「大騒動の前夜」にSNSに自分の言いたいことを書き、「大騒動の襲来」があっても自分を通して謝ったりしなかった。ここにはっきり書いてある。「どれだけ悪く思われてもいい」と。筋の通ることだと思っていても、謝ることだけはできなかった。Authenticに通したのだ。

「従妹に「夫の悪口を書いて騒動になった」と言ったら、「行って謝って来い」と言われた。でも、どうあってもそれだけはできなかった。それが筋が通ることだとわかっていても、できなかった。夫と電話で話したときも、「Kelokoが来て謝るのが一番いい」と言われたけれど、それだけは嫌だった。どれだけ悪く思われてもいい。なぜかそれだけはしたくなかった。」

その結果、「大どんでん返し」で「大騒動から見えてきたこと」があり、夫の家族に「毒親の予感」が出てきて、夫の問題が表面化してきて紐解かれていくこととなった。

私が黙っていたら、お姉さんの言うがまま夫の実家に行って謝っていたら、なにもわからなかったことだ。

前の会社でも、日本人が残業をする中で「私は定時で帰りますよ」という態度を出してたら、「Kelokoさんはイギリス人と同じく定時で帰る人」という認識が定着して、必ず定時で帰れていた。「仕事に熱心じゃない」と思う人もいたかもしれないけど、いなかったかもしれない。いたとしても、別にどうでもいいことだ。定時で帰ってゆっくりできることが、私の人生にとっては重要だった。

考えてみると、他の様々なところでもすでにそれが始まっていたことに気づいた。

この一〜二年前くらいから、だめだと思う人、一緒にいて自分が傷つくと感じる人がどんどん出てきた。その人たちとは無理をして付き合うことができなくなり、相手にどう思われるか考える余裕もなく、連絡を断ったりフェードアウトしていくしかなかった。自分がみんなと仲良くできないダメ人間のような気がして、とても苦しかった。

でも、そんなことはなかったのだ。

自分が傷ついてまで一緒にいなければならない、仲良くしなければならない人など、いないのだ。そういう人とは離れていいし、「私はあなたによって傷ついてます」と言っていい。普通なら、理解して対応してくれるはず。万が一理解してもらえないことがあったら、それまでだ。

というのも、「それをすると痛いからやめてくれ」と言ったときに、それでもやめない人、「そんなことが痛いわけがないだろう」「それを痛いと思うことが間違っている」などと言ってくる人がいたら、その人は現実を把握できず妄想に生きているという相当致命的な問題を抱えている。が痛いかどうかは、世界中で私だけが知っていることだ。

相手にとっても妄想に乗ってあげない私と仲良くすることはつまらないだろうし、私にとっても害があるので、必要以上に接しなくていい。そもそも全人類と仲良くすることは不可能だ。

このころネットで、以下のような文を読んだ。

世界中の二割の人は、あなたがどんな行動をとってもあなたの事を嫌いになる。
六割の人は、あなたの行動によって好き嫌いが分かれる。
でも残りの2割の人は、あなたがどんなヘマをしてもあなたの事を好いてくれる。
世界はそういう比率でできてるらしい。

なるほど、と思った。どれだけ頑張っても私のことを嫌いな人もいるし、どんだけヘマしても好いてくれる人もいる。とすると、別に自分を押し殺してまで頑張る必要など、最初からどこにもない。「大騒動で学んだこと」のように、「落ち着かないから嫌だ」と言っていいのだ。

私の場合、まず「自分がどう感じてるかがわかっていない」という問題があったので、そこから取り組む必要があった。自分がどういう気持ちなのかを把握する、ということ。これができると判断しやすい。それには、

①なにか違和感があったら、それを無視せずにまずそこで立ち止まる
②なぜ違和感があるのかというところを、掘っていく。
③それで自分の気持がわかったら、それを出す。

この練習だった。カウンセラーいわく、最初は時間がかかるし、だめだと感じる人に対しては突然連絡を断ったりなどうまく対応できないけど、できるようになってくるとどんどん加速していくしうまく対処できるようになっていくから、大丈夫だとのことだった。そして、本当にその通りになっていった。

Authenticに生きる

このころ、どうしたらいいのかわからないことが多かった。

人と人との境界線」を持って生きればいいのだということはわかるけれど、「境界線を持つ」ということと「自己中心的」の境目がわからなかった。周りを気にせず自分の思う通りに生きるというのはわかるけれど、だからといって人の迷惑になることをしてもいいとは思わない。究極な話でいえば、ひどい目にあわされたからといって、怒りのままに人を殺していいとは思わない。

するとカウンセラーは、「Authenticでいる」ことだと教えてくれた。

オーセンティック」と読み、単語自体は私も知っていた。でも当時の私が知っていたのは、「Authentic Chinese Restaurant(本格的中華レストラン)」というように、レストランの看板でよく見る「本格的な」「本場の」というような意味だった。なので、なぜ突然そんな言葉がカウンセリングで出てくるのかまったくわからなかった。

たとえば以前の会社でつらい思いをしていたのも、「Authentic」でなかったのだろうと。自己肯定感があればなんの問題もなかった会社だけれど、当時の私にとっては「辞めて正解」だった。なぜ私は辞めなければならなかったのか。なぜあんなにも「わけもわからず傷つく毎日」だったのか。

カウンセラーに質問されながら、順を追って考えてみた。

1)仕事がなくなったら実家に戻らなければならないという、根源的な恐怖
     ↓
2)いざというときに実家に帰らなくてもいいように、自分にとって安心できる場所にしたい
     ↓
3)人に気に入られようとする
     ↓
4)本当の自分ではない自分を演出する
     ↓
5)居心地が悪くなり、つらくなる

びっくりした。

「自分にとって安心できる居心地のいい場所にしたい」という理由からやっていたことが、実は逆に居心地を悪くするという結果になっていたのだ。

ではこのプロセスを、それぞれの段階から破ってみようと言われた。

1)仕事がなくなったら、実家に戻らなければならないという根源的な恐怖

これは常に私を支配し続けている最大の恐怖だった。これがあったからこそ、夫ともうだめだと思っても、自分をねじ曲げてまで踏みとどまったのだ。「私の気づき」の原動力だ。それほどこの恐怖は大きかった。

けれど、そんな必要が本当にあっただろうかと。あなたのように、外国で仕事を見つけられるような才能のある人が、離婚したからといって親元に戻らなければならないなどと誰が思うだろうかと。こんな人ならどこでだって生きていけるだろうと、「子供の自分と大人の自分」で言ってくれたことをまたカウンセラーが言ってくれた。

このときは、確かにそうかと思えた。たとえば、日本人の同僚などを思い浮かべてみる。彼女たちが離婚したとする。日本に帰国することはあったとしても、親元に帰ることはないだろう。立派な大人が離婚したくらいで親元に帰るというところは、確かに想像できなかった。

ということは、この恐怖感はなにか。それはまさに、大人になっていることに気づいていない、自分の中の「子供の自分」だった。自分一人では生きていけないと思っているので、親元を離れて生きていくには、とにかく周りを固める必要があると思っている。自分一人でもきちんと成立していられるんだと思えるようにしていけば、そんな必要はなくなる。

2)いざというときに実家に帰らなくてもいいように、自分にとって安心できる場所にしたい

なぜ、いざというときのためを考えて生きているのか。これも毒親の洗脳だった。中学のころに夜中に家を抜けだしたのがバレてから、「人の信頼を失うのは一瞬、取り戻すのは一生」と言われ続けた。間違いというのは一度犯したら終わり、人生に失敗は許されないのだと思わされていた。

だからいざというときに助けてもらえるように、印象を悪くしないように、失敗しないように、みんなに好かれるように、常に気を張って生きてきた。でもそんなわけはない。人生はいつだってやり直せる。そして私が失敗したとしても、また信頼してくれる人はいくらでもいる。たまたま自分の親が、そういう普通の感性を持った人間でなかっただけだ。

付け加えると、子供というのは失敗を繰り返して成長する。その失敗を繰り返す時期に失敗させてもらえなければ、その後の人生を生きていけるだけの成長を遂げることができなくなる。毒親は、普段は「お前は子供なのだから」と好きにコントロールし、都合のいいときだけこうして大人と同じに扱って「間違いは許されない」とする。このダブルスタンダードが、子供をおかしくさせる。

3)人に気に入られようとする

毒親は意見がコロコロ変わるので、なにかどうしても頼まなければならないことがある場合、用心に用心を重ねて準備をする必要がある。だから自分がなにかお願いしたいときにそれをやってもらえるよう、普段から逆にそれを相手にやってあげておく必要などがある。それが癖づいてしまっていて、会社でも人から気に入られておこうとするようになっていた。

でも実際は、世の中の人全員が毒親と同じわけではない。大多数の人は、そんな普段からよくしてあげているかどうかなど関係なく、必要なときに手を貸してくれる。特に仕事だったら、業務やチームが回るためにやらなければならないことがあるのは普通だ。

4)本当の自分ではない自分を演出する

人に気に入られるために、自分を無視して、人の都合に合わせて動いていた。でも、果たしてそれが本当にその人の都合に合っていたのか。私はそれが相手のためであり、相手の求めていることだと思ってやっていたけれど、本当にそうだろうか。

カウンセラーが言うには、

①人がどう思っているかを100%知ることは、不可能だと。なので、
②自分が演出したものが、実は相手が求めているものとは違っている可能性がある。だから、
③演出しないで自分に正直でいるほうがいいのだ、と。

人はそれぞれ違う体を持ち、違う環境に生まれ育ち、日々毎秒違う経験をして生きている。誰ひとりとしてまったく同じ人間はいない。自分ではない人間がどう感じどう考えるかは、「予想」はできたとしても「知る」ことはできない。その人の頭にケーブルでもつないで脳みそをまるっとダウンロードでもしない限り、不可能だ。

相手の都合を考えて演出すると、相手にとって「この人はこう考えるのだ」と自分を誤解されたまま定着することになる。どんどん演出し続けなければならなくなり、もちろん居心地なんてどんどん悪くなる。しまいには、自分が本当はなんなのかがわからなくなる。

だから、本当の自分を常に出していることが一番だ。それが嫌だと逃げていくような人なら、付き合わないほうがお互いのためになる。だから素の自分でいること、それが一番いい。本当の自分でいるほうが、実は自分にとって居心地のいい場所になっていくのだ。

これが、「Authenticに生きる」ということだった。つまりは本物の自分、ありのままの、真の自分で生きる。そういうことだった。