自己肯定

人を尊重し受容する

インターナショナルで様々な人たちがいる会社。それはまた、言葉だけでなく、様々な違いが受容されているということでもあった。

新人の私を含めた数人に、チームの人がシステムの使いかたをレクチャーしてくれることになった。ところがその人が、何度も同じことを言ったり、今すぐには必要のないところまで説明したがったりするのを見て、私は嫌になってしまっていた。自分が普通にやっていることがいかに大変で難しいかというスタンスでとうとうと語るので、またこんな面倒な人に出会ってしまったと、内心落ち込んでいた。

だが、そのレクチャーの終わりに。私と同じ日に入社したマネージャーが、その人に向かって「あなたの説明はとても丁寧ですね」「これからもどんどん人に教えることにチャレンジしていってください」と言ったのだ。

びっくりした。思わずまってしまった。

確かに、その人の説明はしつこい。でもたとえばコンピューターがわからない人からしたら、丁寧ともとれる。

マネージャーは、この「コンピューターがわからない人」でもまったくない。そういう人なのに、こういうポジティブな受け止めかたをして、ポジティブなコメントを本人にフィードバックしている。本人もうれしそうだった。たぶんこれからも頑張っていくだろう。

自分はなんてネガティブな人間なのだろうと、私は思った。

「しつこい」けれど、「丁寧」。私は「しつこい」しか見えず、すぐそこをダメ出しする。ここでほめてしまったら、ますますしつこくなっていってしまうのではと危惧すらする。教わる人がなにを求めているかを察知して、それをさっと出せるようでなければだめだと思う。

でもそんなところは、本人が伸びていく上で学んでいけばいいことだ。最も大枠で見たときに必要なことは、本人が前向きに進んでいけること。

最初から正解を出す必要はない。誰にでも段階というものがある。学んでいく課程がある。だったらやる気を伸ばすために、ここはほめるだけにしておいてもいいのではないか。本人が幸せで、頑張ろうという気持ちが出るほうが、本人のためにも周りのためにもなる。これが口座番号を間違えて一億円の損失を出すとかなら別だけれど、今絶対に注意して気をつけていかなければならないことでもなんでもない。

この職場では、「Learning Curve(ラーニング・カーブ)」という単語をよく聞く。なにか新しいことを始めるとき、最初からすべて完璧ということはない。カーブの角度は様々であれど、徐々に徐々に完璧に近づいていくもの。カーブの角度を決める要因もたくさんあって、もちろん本人の特性もあるだろうけれど、仕事の内容や、環境もすべてが影響してくる。

最初は試行錯誤でゆっくりと上がっていって、だんだん完璧に近づいていく。その余裕がきちんと考慮されている。

イギリスへの不満ばかりだった私」でも書いた。無駄を受け入れ、現実に生きる。

”人生はギリギリでは生きられない。常に無駄が必要だ。「無駄」とはなるべく排除しなければならないと教わって生きてきた。でも現実では無駄がなければ生きていけない。世の中は有用なものだけで構成されていない。洋服も体にぴったりで無駄がないものは着られない。”

そして、そういう人が受け入れられるということは、私も受け入れられるとういことだった。

上記のようにすぐ「しつこい」をピックアップする私は、自分に対しても常にダメ出しをしている。メールを出してから少しして返信がないと、言いかたが悪かったのではないか、気分を害してしまったのではないかと考え始める。なにをやっても、もっとこうやったらよかったのではないか、こういう誤解をされたのではないか、そんなことばかり考えている。

なのに、みんな「Kelokoが来てすごく助かっている」と言ってくれる。いつも。「確実に失敗した!」「今度こそやばい!」「これは無理だろう!」と心底確信したときでさえ。

衝撃の世界へ来た。今まで自分がいた世界が、がらがらと音を立てて壊れていくのを感じた。

きっとこれが、大人の世界なのだ。大人が活動している、現実の世界。

他にもわかりやすい例でいえば、勤務時間。フレックスなので、①一日八時間働くこと、②コアタイムには勤務についていること、の二つが条件。この条件さえ満たされていれば、遅くこようが早くこようが、いつも早く来ているのにたまに遅くこようが、完全に自由。自分で勤務時間を管理して、それが完全に尊重されている。

なにかの理由でコアタイムの出勤に間に合わなくても、会議が入っているとかなにかなければ、いちいち「あいつはどこだ」ということにもならない。出勤してきたときに「なにかあったの?」と聞いてくる人もいない。話好きな人は「今日電車遅れてるの?」などと聞いてくることもあるけれど、完全なるただの興味本位。みんなスルーなので、ちょっと寂しいくらい。

人にどう見られているか気にする人もいないし、人をいちいち気にしている人もいない。仕事が回っていればいい。

時間だけでなく、すべてにおいてこうなっている。本当に大人の世界だった。

日本的な会社が苦手な理由」で書いたことと比べてみると、びっくりするだろう。今久しぶりにさらっと見てみたけれど、本当に子供の世界。こんな会社ばかりではないと思うけれど。日本の政府や役所などは、これ以上にひどいところがありそうな気もする。でももう関係ない。ということにする。

イギリスの他の会社や組織がどうなのかは、わからない。たまたまここが、こういうところなだけなのかもしれない。日系企業でないからか、インターナショナルだからなのか、余裕のある会社だからなのか、理由もよくわからない。ただ、今までイギリスで何十社と面接で行ったけれど、こういう雰囲気をかもし出している会社は他にはなかった。たった一時間の面接ではわからない、ということもあるかもしれないけれど。

でもここが、今までずっと私が求めてきた環境であり、行きたいと思ってきた世界であることは間違いない。

わずか半年前にはまったく考えていなかった仕事だけれど、こんな偶然に驚きの毎日を過ごさせてもらっている。感謝の気持ちとともに。

人は、「感謝しなさい」と言われようが「感謝しなければ」と思おうが、頭からでは感謝することはできない。気持ちというのは自然に出てくるもので、頭で意識してできるものではなかったりする。「不安のサイクルと破りかた」でも習った。だから、感謝の気持ちが出てきたときが、感謝のとき。

今までずっと自分は「感謝のない人間」だと思ってきた。あまり感謝の気持ちというものがわいてくることがなかったのだ。でもこの環境で過ごし始めてからというもの、小さなことでいちいち感謝の気持ちがわいてくる。

「返信くれてありがとう」
「小さなことを気にしないでいてくれてありがとう」
「今の、悪いようにとらないでくれてありがとう」
「私のLearning Curveを尊重してくれてありがとう」

自分が気にしている細かい「間違い」が指摘されずに、自分がそのままで受け入れられる。もしくは、人がそのままで受け入れられ肯定されているのを見る。すると、普段みんながどれだけ人を受容して(=スルーして)生きているかがわかる。そうなってくると、普段自分がどれだけ細かいことを気にして生きている小さい人間かもわかってくる。そうすると、周りの人に対しても「こんなこと気にしててもしかたないな」とでも思えてくる。

また、そういう「ふところの深い」人たちに囲まれていると、自分を受容されて安心し、認めてもらえたと感じることもあってうれしくなる。感謝の気持ちが出てくる。そうすると、人のことも受容できるようになってくる。これがすごい。

頭への作用と、気持ちへの作用。毎日この両方が積み重なっていって、だんだんポジティブな人間になってくる。

そうするとまた、「私がこんなに変われるなんて」「こんな環境をくれてありがとう」と周りに感謝の気持ちが出る。そして周りに感謝をあらわしていくから、またそれが私に対する周りの感謝も呼んで、どんどんポジティブな連鎖を生み出していく。そう、ポジティブの連鎖。すごい。

ようやく、こんな世界へたどり着けた。ここからはどんどん伸びていくだけ。ポジティブの連鎖を広げられるだけ広げていきたい。

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焦りの原因

十分味わう」で落ち着いたあと、なぜこんなにも落ちているのだろうと考えてみた。

それまで何度も焦ることはあっても、なぜだかよくわからなかった。でもこのとき初めてなんとなく理由がわかってきた。「子供を持つ」ことに対する焦りではと思ったのだ。

夫に「将来子供がほしいか」と聞いてみた。すると「50%50%」「どっちでもいい」という回答だった。そうではなくて、あなた自身はどうしたいのだと聞いてみた。すると「いらない」と答えたのだ。

それまでは、「できたらできたで」などと言っていた。自分が就職したときなどは、「これで家も買えるし、Kelokoは子育てすればいいよ」というようなことを言ったりしていたのに。あのときは正社員の仕事に就いて、なんとなく安心して大きくなってしまっただけなのだろう。夫は、本当はやはりほしくなかったのだ。私が思った通りだった。

夫は旅行が好きだし、きっと私さえうんと言えば、世界中を旅行して過ごすような人生を送りたいのだろうと思っていた。そういうことも言っていた。子供はお金もかかるし、自分たちのやりたいことだけやっていられなくなる。夫いわく、「人生は短いし、自分は自己中だから」と。

以前だったら「なんて子供みたいな男なんだ」と思っただろう。でもこのときは少し違った。確かに嫌な気持ちはあった。今は二人とも過去からの脱却中であって、きちんとした「大人」になっていないし、だから今はほしくないという気持ちはわかる。でも将来二人がきちんと「大人」になったときにどう思うだろうか、くらいのことは考えてほしいと思った。イラッとする気持ちはあった。

でも、と。だったら、別にそう「ほしくない」と言ってもいいのではと。

将来がどうと考えるのではなく、「今」自分たちはまだメンタルが子供の状態で、解毒して大人になっていく道を進んでいる途中。であれば、「」の気持ちをきちんと表現していいのではないだろうかと。

そう考えると、このころに落ちていた理由がなんとなくわかってきた。たぶん、めちゃくちゃ焦っていたのだろう。解毒を。4月になり、新年度にもなっていた。一年ももう1/4が終わっていた。早く治療をしなくてはと。早く大人にならなくては、そして家を買って子供を産まなくては、歳をとって不可能になる前に、と。自分がほしいかどうかもはっきりしていないのに。

だから、カウンセリングがもっと進んでいかないことにイライラしていた。自分が歳だと感じることにもイライラしていたし、子供を持つことを考えたら今のうちに行きたいところに旅行にも行っておかなければならないし、好きなものを食べたりお酒を飲んだりできなくなるから今のうちに日本にも行ってやっておきたい。早く家を見つけなければならないし、早く仕事にも就いておかないといけない。Etc、Etc…

そういう「制限」や「期限」があって、ものすごくすべてのことに焦っていたのだ。

でも、そうではない。もちろん、子供を産むには期限がある。でもはそういうことを考えている場合ではないのだと、改めて考えた。

なによりもまず、自分を確立することが課題だった。「自分がないということ」の花の図のように、自分がなく自分を支えるためにその他のものに頼っている状態というのは、とても不安定なのだ。自分を持って、ここをしっかり安定させることが先決だった。

そりゃあ子供を産めば、「子供がいないから親の気持ちがわからないのだ」と言ってくる親や妹に対して、言い返したりできるようになるだろう。愛情を注げる対象もできて、そこからいろいろな経験をもらうこともできる。

でもこのときの状態でそれをやってしまうと、「自分を支えるもの」を一つ増やすだけで、「自分を埋める」ことにならないかもしれない。きちんと自分を埋めてから、その先に、子供なり仕事なり友人なりと、「自分がやりたいこと」をしていくのが健全な人生を歩んでいく上で大事だと考えた。人生の手順を順に踏むのではなく、自分がやりたい人生を。

もちろん結婚して配偶者を得え子供を得て、その関わりの中で自分を回復していくということもできる。自分に「毒親育ちである」という自覚があれば。カウンセラーにもそう言われた。でもこのときの私にとっては、夫も私も回復途中という段階で子供を持ってしまったら、どんどん悪い方向へ向かってしまうだけなのではないかという恐怖が拭えなかった。そんな中で子供を持ったとしても、不安で自分がつぶれてしまうと思ったのだ。

そんなことでは心身ともに健康な人間を育てられるわけがない、と思った。自分一人だって安心して存在していられないのに、その上にもっと不安なものを担げるわけがない。これで夫が安定型ならまだいいけれど、夫などもっと不安定な存在だった。これでは無理だと感じるのは当然だった。

なにより、自分は子供がほしいわけではない。なぜそこを無視してしまうのか。馬鹿だ。

それならば、「今はいらない」でいいではないか。

ということで、もう子供とか考えないことにした。それまでも、考えなくていいと思っていた。でもやはり新しい年になり、新しい季節になって、焦りが出てきてしまったのだろう。なにかしなくては、次に進まなくては、と。

とにかく、自分を埋めること、自分の人生を回復することに集中しようと思い直した。回復した後に、子供がほしいと思ったらそれでいいし、年齢的に無理になっていたらもうしかたがない。無理になっていたとしても、回復さえしていれば、他に楽しい道を見つけられるだろう。だからけっきょく、焦る理由はなにもないのだ。

今を生きる」。それだけだった。

そう思ったら、なんだか少しずつラクになってきた。もちろん焦りはどこかしらにあった。試しに子供がいない人たちの話をネットで見てみると、理由はそれぞれだけれど思ったよりもたくさんいて、それも全然ありなんだなと思うようになってきた。イギリスでは特に、未婚だから子供がいないからでなにか言われることもない。今のメイ首相も、子供のいない既婚者だ。

子供を持っても、親の自分より早く亡くされた人もいた。夫だって、自分だって、同じだなと思った。結婚して一緒に暮らしているけれど、なにかあってお互いを亡くしてしまうことだってないとは限らない。なにかを支えにして生きることも幸せではあるだろうけれど、まずやはり自分を埋めてからの話だと思った。

子供より、夫より、仕事より、まず自分だ。自分がなにをしたいかだ。今はもうそれでいい。とにかく自分が回復しないと、なにも始まらない。年齢は失ったけれど、得られたものはたくさんある。それを大事にしていこうと思った。

人生はすべてオリジナル。私は私の人生を歩むしかできないのだ。そう思った。

十分味わう

このころずっと落ちていて、ランニングもヨガもメディテーションもできず、毎日家でどよーんとしながらダラダラしていた。本当に、もうなにもやる気が起きなかった

朝、夫を送り出すまではよかった。でもそこからぼーっとネットで動画を見たり、中国製の安いカップ麺を食べたり、またぼーっとしたり。こういう時期はそれまでにもたまにあったけれど、またかと思うと憂鬱になった。でも本当になにもできない。少しのポジティブな考えも生まれないし、外にも出れない。

しかたがないから、家でぼーっとする。ものすごくもったいなくて、ものすごく焦る。でもやはりなにもやる気にならない。その繰り返し。暗い穴の底でもがいていた。

でも、ふと思った。こんなことになっているというのは、たぶん、ネットに見なければならないものがあるのではないかと。

いつもの私なら、ランニングやヨガ、部屋のここをこうしてとか、この料理作ってみたいとか、お菓子焼こうとか、絶対なにかある。でもあんなに気持ちよくやっていたヨガもまったくやる気にならず、ジャンクフードを食べまくり、それでぼーっとネットを見まくる。ほぼ別人になっている。もしかしたら、それにはなにか理由があるのではと。

きっとここになにか見なければならないものがあるのだ。得なければならない情報なども。そう思ったら、なんとそれが治まってきた。いつもならもっと時間がかかるのだけれど、このときは三週間くらいで治まった。早かった。

となると、このときに得たものはなんだったのか。

このときに見ていたのは、イッテQ!や世界仰天ニュース、特命リサーチ、ニュース番組の特集などだったのだけれど、どれも一見関係なさそうに見えたけれど、それぞれに心に刺さるものがあったのだ。人生についてや、人間関係、社会の仕組みなど、そのときに考えていたことに関連するようなものばかりだった。ただただぼーっと見ていたのだけれど、たぶん頭で認識できないレベルでいろいろなものを得ていたのだろうと思う。

別のときなど、X FactorsやBritains Got Talentなどのオーディション番組を山のように見ていたこともあった。人が本当の自分を出して認められたところを見ながら、感動して泣いていた。毎日のように。夫が帰ってくる前に、泣いていた顔をどうにかしておかなければと思うほどだった。今思えば、これも、そのとき必要なことだったのだと思う。自分に重ねて感動を味わい、涙をたくさん流すことが。

そうやって、「こんなことをしていては駄目だ」と罪悪感を抱かず、自分のやっていることを「これでいいのだ」と受け入れることによって、その行為が治まってくる。駄目だ駄目だと思っているうちは、治まらない。それを十分味わっていないからだ。十分味わうことで、前に進んで行くことができるようになる。

これはのちに、心屋認定講師のでこさんの記事を読んでわかるようになった。

何もしたくない。ずっと寝ていたい 私はどうすればいいの?【心屋仁之助 塾】
https://woman.excite.co.jp/article/lifestyle/rid_E1461849166172/

15年うつで寝たきりだったでこさんが、起き上がれるようになった理由。それは、思いっきり寝込んだことだった。「これじゃダメだ、これじゃダメだ」と寝ていた15年間は、寝ていてもちっとも休まらなかった。「寝てばかりじゃダメ」を「寝てばかりでもいい」にすることで、起き上がれるようになったとのこと。

「寝たい」と思っていても「寝ていたら駄目だ」と思うから、「寝る」を十分味わえない。十分味わえないということは、「寝たい」と思っている自分を否定しているということ。「寝たい」でいいのだと思い、「寝たい」という自分を肯定する。するときちんと寝れる。「寝る」を十分味わえる。すると治まる。十分寝れたからだ。

これは「自分を受け入れる」ということだ。自分がなにをしたいと思っていても、受け入れる。どんな自分でも、受け入れる。

仕事のできる自分でなければならない、正しい親でなければならないと、「こうあるべき」を抱え込んでいてはこれができない。自分の気持ちを把握し、それを受け入れる。まずは今の「できていない自分」を受け入れること。そうすることでしか、その先には進めない。できるようにはなっていかない。

生産的なことができず、ぼーっとネットを見るだけの日々。それでいいのだ。そう受け入れられたことによって、その先に進んで行くことができるようになった。

このとき以来、またなにもしたくない時期がやってきたら、「なにもしたくない」をとことん味わうようになった。また、なにか進めていない気がするときは、自分の気持ちをよく見つめて見る。そこで味わえていないものがあるのか探してみて、それをとことん実行する。

自分を受け入れるには、まず自分の気持ちを把握することがもっとも重要だ。自分の気持ちがわからなかったら、受け入れるもなにもない。「寝たい」と思っている自分を把握しないと、「寝込む」を十分実行することはできない。

これはもちろんカウンセリングの中で自分の気持ちについてもやったけれど、「ヨガで夢について話す」で書いたように、ヨガのセッションの最初にいつも自分の気持ちについて話させられたことがいい訓練になった。今でも自分がよくわからなくなったときや、なんでもないときでも、感じていることをどんな小さいことでも次々と書き出してみる。書き出した項目を、似たようなものを線でつなげてみたりして、どうなっているのかを分析してみる。

もちろん、ネガティブな気持ちも無視しない。「こんなこと思っていてはいけない」と思わず、なんでも書き出す。差別的だなと思うことでも、社会的に駄目だろうと思うことでも。「こんなことを思っていたのか」とびっくりする。でも書き出したこと=存在を認めたことによってそれが治まっていったり、原因に気づくことによって治まっていったりする。

治まるということは、受け入れられたということだ。気持ちの存在が認められたということだ。「Authenticに生きた」でも書いた、「怒りは認識されると治まる」と同じだ。気持ちは、認識されないと「どんどん主張しなければ」となり大きくなっていく。認識されると治まる。

スピリチュアルカウンセリングの「自分の気持ちの把握」でも、書き出す手法を教わっていた。前世療法後のカウンセリングでも「判断してはいけない」、観察することと教わっていた。やっとそれらがつながってきたころだった。