自分を守る作業

満足できない

前世療法をやったときに、「自分で自分を判断するな」(「判断してはいけない」参照)と言われたことがあった。

カウンセラーに、自分の中にもう一人の自分がいて、その自分が常に自分に対してダメ出しをしている状態なのではないかと言われた。

言われたときは全然ピンとこなかったのだけれど、簡単に言うと、常に親からダメ出しをされて育ってきたので、その親を自分の中に取り込んでしまい、親から離れても自動的に自分でダメ出しを続けている、という現象だ。また、親から離れてからその「自分の中の親」を勝手に肥大させてしまうことによって、もっと有害なものになってしまう可能性もあると言う。

次のつまづき」のところでも書いた通り、私は「過剰な完璧主義」という問題を抱えている。これが、もっともわかりやすい例だと思う。

中学2年生のとき、私は美術の中間テストで学年1位の98点を取った。これは衝撃だった。得意だった英語や国語ならわかる。でも、私は絵を描いたりするような創造性の必要なことは非常に苦手だった。確かに、このときのテストの内容は、美術史に関する簡単な設問がいくつかと、自分の手の模写だったので、わりと点を取りやすかったのかもしれない。それでも衝撃だった。なんの力も入れていなかった教科で、田舎の1学年2クラスしかない学校とはいえ、学年1位を取った。びっくりした。

それで、普段はテストなんていちいち見せなかったけれど、それを持って帰って母親に見せた。

だが、母親が言ったのは、「でも美術でしょ?」。

受験に必要な英国数などの主要教科ではなく、単なる「お遊び」の美術。「そんな必要ない教科で学年1位を取って、見せびらかして喜んでるの?」ということだった。

私は、別に自慢をしたわけではない。人数少ないこの学校で学年1位なんて取ったことあるし、98点だって他の教科で何度も取ったことある。私はびっくりしたことを伝えたかっただけで、有頂天になってるわけでもなんでもなかった。

そこで私は、「この私が美術で学年1位だよ」と、びっくりしたよと言った。

すると母親は、「でも満点じゃないんでしょ?」。会話にならなかった。

生まれてから成長するまでの間にこういう人間に一番近くにいられると、人というのは「満足」ができなくなる。なにをどれだけやっても満足することができず、常にもっとなにかをしなくてはいけないと思っているようになる。過剰な完璧主義になり、人から褒められてもそれを受け入れられず、実在しない理想に向かって常に走り続けるだけの空っぽな人間になっていくのだ。

こういう人間が嫌だとは思っていた私でさえ、影響を受けてしまっていた。生まれてから人間が形成されるまでの子供の期間というのは、本当に恐ろしい。

上記の例では、もうひとつ自分の中に取り込んでしまっている問題もがある。それは、「自分の言いたいことを相手にわかってもらえない」ということだ。

私が言いたかったことは、「びっくりした」という新鮮な気持ちだ。それを勝手に「自慢したいのだ」と解釈される。それを訂正しようとしても、聞いてはもらえない。自分の言いたいことは相手にわかってもらえないので、最新の注意を払って言葉を選んで最小限の発言をしなければならないという、トラウマを植えこまれる。

このトラウマから、「人といるとどうして疲れてしまうのか」のところで書いた通り、安心して人とコミュニケーションを取ることができず、無意識に自分を守る作業をしているのだ。

これを変えるには、自分の中に取り込んでしまっているこの「」を追い出し、負の連鎖を断つことだ。

それにはまず、気づくこと。「美術で学年1位を取ってびっくりした」を、勝手に「美術なんかで98点取って喜んでいる」と受け取るのは、その人に問題があるわけで、私に問題があるわけではない。普通の人に話せばきちんとわかってもらえる内容であって、わからない人間のほうに問題があるのだ。

「主要教科じゃなかった」「満点ではなかった」と満足できない人は、その人に問題があるわけで、私に問題があるわけではない。仮に私が「学年1位を取ったぜ」と自慢していたとしても、そこになんの問題もない。世の中に「完璧」というものは存在しないので、完璧を求め続けて生きていても終わりがないからだ。人間は自分自身の中に満足を見い出すことによって、幸せになる。実態のないものを追いかけ続けていても、いつまでも幸せになることはできない。

これに気づいて意識することによって、日常生活のいろいろなところで「あれ、ちょっと待った」と変えていくことができるようになるのだと思う。地道な作業だけれど、やるしかない。

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人といるとなぜ疲れてしまうのか

絵画療法」のところでわかったことのひとつ、「人といると疲れてしまう」のは、気の休まる暇がないからだ。常に、相手がどう思っているかどうしたいかを考えて、「正解」を出し続けなければならない。「不正解」を出してしまうと、自己嫌悪でものすごく落ち込んでしまうからだ。

では、どういうときに不正解を出して「やってしまった」と凹むのか。

海外に引っ越してしまった友人Aちゃんが、数日イギリスに帰ってきたので、友人数人で集まった。Aちゃんは、前回来英時に会えなかったBちゃんにも会いたかったのだけれど、Bちゃんの電話番号がわからなくなってしまっていて電話ができず、とりあえずメールをしてみたものの連絡がつかなかったとのこと。私はBちゃんの番号がわかるから、ダメ元でこの場で連絡してみようかと申し出た。

Bちゃんに電話をかけて、「今集まっているんだけど、もし来れたらと思って」と伝えた。でもなにせ急だし、難しいだろうなと思っていた。Bちゃんに無理させないように、それを伝えたかった。そこで私が言ったのは、

  「いやー、Bちゃんも忙しいよね

だった。言った瞬間、「そうじゃない、私の心情を表すのはそれじゃない」と慌てたのだけれど、ではなんと言ったらいいのかがわからなかった。そしたらAちゃんが横から、

  「急だもんね

とナイストスをくれた。そう、それだった。それこそ、私が求めていた言葉だったのだ。すかさず「急だもんね」と、そのままBちゃんに伝えさえてもらった。Bちゃんはけっきょく来れなかったのだけれど、でも私がAちゃんに電話をパスして、そこで少し話ができてよかった。

私一人だった場合、「忙しいよね」と言ってしまって、でも違うとは思うものの、適切な言いかたわからずに挙動不審におちいり、違う言いかたを出してもそれがもっと不適切だったりして、どんどんどんどん落ちていってしまう。こういうことがたくさんあるので、人といると疲れてしまうのだ。

この「忙しいよね」と「急だもんね」には、いったいどういう違いがあるのか。その違いを、カウンセラーが教えてくれた。

  「忙しいよね」=相手のせい
  「急だもんね」=自分のせい

こう見ると、違いはかなり明確で簡単だった。だから「忙しいよね」と言ったとき、なんだか相手に失礼なような気がして、申し訳なかったのだ。

主語をつけてみると、よくわかる。

  「(Bちゃんも)忙しいよね」
  「(私の電話が)急だもんね」

日本語では主語を略すことが多いからよくわからないけど、英語で言えば明確だ。

  「(Bちゃんも)忙しいよね」= You might be busy though
  「(私の電話が)急だもんね」= I‘m sorry for the short notice

私の場合は、「I」で話しているのか「You」で話しているのかがわからなくなるので、混乱して挙動不審になってしまうのだということだった。こういう人は、人と自分の境界線が曖昧になっているらしい。のちのち重みを増してくる、大きな発見のひとつだった。

人との境界線が曖昧になってしまっている人は、人のことを自分のこととしてしまうため、人のことを自分のことのように考えてしまう。なので、それと同様に人が自分のことを思ってくれないと、深く傷ついてしまうのだ。これが、親との間に起こっていたことであり、それと同様に夫や他の人との間に起こっていて、夫や人の言動に傷つく原因のひとつとなっていたのだ。

これを治すには、英語で話すときのように境界線を意識することと、もうひとつはそもそもの原因である親との関係を掘り下げることが必要だった。これは、のちに「共依存」を学んだときに出てくる。

ではもうひとつ、なぜ私は勝手に相手のせいにしてしまっているのか。

カウンセラーいわく、無意識レベルで自分を守る作業をしているんだろうとのことだった。のちのちに、なんでそんなに自分を守らなければならなかったかが明らかになったけど、このときは、家族から守られるどころかスケープゴートにされてきたために、家という場所でさえ常に自分で自分をディフェンドして生きてこなければならなかったからだと思っていた。それもまた、ひとつの原因としては合っていたけれど。

  ①人の境界線が曖昧になってしまっている
  ②無意識に自分を守る作業をしている

この二つの発見は、かなりの衝撃だった。「コミュニケーション下手」という、普通に考えたら単なる性格としか片付けられないようなところに、きちんとしたメカニズムがあったからだった。そして、メカニズムがあるということは、治せるものであるということではないかという、希望にもつながった。