現実に生きる

自分を知る

自分がないということ」で読んだ空っぽの核を埋めるために、自分の構成を書き出してみた。「好きなことをする」ようにアドバイスしてもらったことも思い出した。

この少し前に、新しい友人を見つけたくて、「Meetup(www.meetup.com)」というサイトにサインアップしてみていた。住んでいるエリア興味のあるものを登録しておくと、それに関する集まりがあると知らせてくれるもの。たとえば「ヨガ」で登録しておくと、ヨガをやっている団体やレッスン、瞑想やお茶会など、ヨガに関するグループとイベントをリストアップしてくれる。

登録したときに、自分が興味のあるもののボタンを次々押してみたのだけれど、どれもこれも一貫性がなく、なんなのだろうと思った。「文化」と「言語」ならまだいいけれど、「興味のあることをやってみる」で書いたようなズンバとヘブライ語や、ヨガとクラブのようになると、「この人いったいなんだろう?」と思う。「本当はなんなの?」と。

きれいに分けられなくて、気持ちが悪かった。昔は、その場その場で一貫性を持たせるようなことをわざわざしていたと思った。この場では「ヨガ好き」で通して、別の場では「クラブ好き」で通す、など。そういう感じで、自分を変えてやりくりしていたような気がした。

でも。一貫性のないいろいろなものに興味があるのが、「」なのだ。全部、私なのだ。クラブも好きだし、ヘブライ語も勉強している、ヨガで精神統一もやっているし、カラオケで大騒ぎするのも好き。別に、一貫性などなくともいいのだ。なんなら全部、「私」ということで一貫しているではないか。

気持ち悪いと思うのは、毒親育ちの特徴、「白黒つけたがる」「完璧を求める」「すぐカテゴライズする」「決めつける」なのだろうと思った。きれいになっていないと、気が済まない。バーチャルで、現実離れしている。世の中の大部分はグレーでできているのが現実なのに。

バラバラだと思っていた私の興味のあることを、なぜ興味があるのか、なぜ好きなのか、どういう意図なのか、で分けてみた。そうやって見てみると、私は「発見」が好きなのかもしれないと思った。そんなこと、それまで思いもしなかった。

でもこうして記事を書いていることも、すべてそうだった。発見して、それを記録している。カウンセリングで発見したこと、日々の中でそれを実感したこと、言われたことを実践してみてわかったこと、などなど。人にその発見を見てもらいたいこともあるけれど、なによりも自分がその発見に驚き楽しんでいた。その驚きを記録しているのだ。

もっとも好きなのは、一見なんの関係性もないようなところに関連性を発見したり、逆に関連性があるものの中にまったく違うところを見つけたりすることだった。たとえば仕事で、毎年8月は売り上げがいいのに、なぜ去年だけこんなにも下がってしまったのか?を考えたり。去年の8月は雨の日がやたら多かったから、外に出かける人が少なかったのではないかとか、テロの影響ではないかとか、一見なんの関係もないところが線で結ばれるとおもしろく感じる。

今これを書いていて、子供のころからずっと推理小説が好きだったのも、これの延長だということに気づいた。びっくりした。今こうしてカウンセリングに関する記事を書いているのも、同じだ。自分のちょっとした考えや気持ちや言動が、一見なんの関係もなさそうな様々な要因から成り立っている。それを解き明かしていく楽しさ。発見と驚き。

このときはこうして4つに分けたけれど、もしかしたら今後これより他のカテゴリーも出てくるかもしれない。でもそれをこの4つのどこかに当てはめるのではなく、そのときは現実に即してカテゴリーを一つ増やせばいいのだ。それが現実を生きるということだ。

現実に忠実に。そこから見えてくるものがあったのだ。

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