決めつけ

不安を引き起こす考えかたの癖

2.Thoughts(思考)への対応策

1)Thoughts and Anxiety(不安症的な思考)

不安のサイクルと破りかた」で勉強した通り、「考え」は「気持ち」に影響し、「気持ち」は「考え」に影響する。考えというのはわりと自動的なものなので、コントロールできないこともあるが、ネガティブな考えをポジティブに変えていくことによって、気持ちを和らげられるようになる。

2)Everyone sees things differently(だまし絵から学べること)

damashie有名なだまし絵。向こうを向いている若い女性に見える人もいれば、うつむいた老婆に見える人もいる。もしかしたら、まったく別のものに見える人もいるかもしれない。同じ絵でもによって見えるものが違うし、たぶん同じ人でもによって違うものが見える。

これが日本人にはかなり難しい概念だと思う。なんとなく「正解はいつもひとつである」というような教育を学校で受けている人が多いからだ。ものの見かたは人それぞれであり、自分の見かたは多くの中のひとつにしか過ぎない。そして自分の見かたも、いつでも自由に変えてもいい。

3)Unhelpful Thoughts(無益な思考)

人間は何年も生きていると「考えかたの癖」というものができあがっていて、その癖の中には有益でないものもある。それに気づくことによって、そこから抜け出していくことができるとのこと。代わりに「 」内のように考えてみると、より現実的な考えかたになる。

unhelpful thoughts

たぶん日本で生まれ、日本で育った人たちは、当てはまるものが多いのではないだろうか。常に自分に厳しく、最悪の結果を予想して行動する。きっときちんと育った人にとってはいいことなのだろうけれど、私のように毒親のもとに育ったアダルトチルドレンにはにしかならないことだったのだ。

⑩などは非常によくある例だと思う。「女性に『結婚しろ』と言うのはセクハラだ」と言えば、「男性に言うのはいいのか」などと言い出す人がよくいる。「女性に言うのはセクハラだ」=「男性に言うのはセクハラじゃないと主張している」と勝手にとらえるからだ。でも発言者は女性について話しており、男性の話は一切していない。発言=現実を見れば、すぐ気づける。

毒親も、同じように二極化して話を混乱させたりする。自分が正しくあるために、自分と意見が違う相手は悪く、間違っていると主張する。でもそこで必要なのは「なぜ自分の意見が正しいか」を説明することであり、相手が間違っていることを主張しても実際には意味がない。

②もよくある。ブランド店で買い物をして「お釣りが足りない」と思っても、「有名店だから間違いはないはず」と思い込んでいたら「自分が計算間違いをしたのでは」と思ってしまう。「日本人だから信用できる」や、「親だから孝行されるべき」も同様だ。

現実を自分の「決めつけ」に合わせることはできない。現実は、そのまま見ることしかできない。自分ができることは、現実を見た上でどうするかを決めることだ。

この「現実を見る」というのが、解毒の大きなポイントのひとつだと思う。

毒親育ちの私たちには、毒親から距離を置いたとしても毒親の「現実的ではない考えかたの癖」=「毒」がしみついてしまっている。それに染まらなければ生きていけなかったからだ。でももうそれは必要がないし、取ってしまっても生きていける。そして現実に沿って生きていけるのだ。

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満足できない

前世療法をやったときに、「自分で自分を判断するな」(「判断してはいけない」参照)と言われたことがあった。

カウンセラーに、自分の中にもう一人の自分がいて、その自分が常に自分に対してダメ出しをしている状態なのではないかと言われた。

言われたときは全然ピンとこなかったのだけれど、簡単に言うと、常に親からダメ出しをされて育ってきたので、その親を自分の中に取り込んでしまい、親から離れても自動的に自分でダメ出しを続けている、という現象だ。また、親から離れてからその「自分の中の親」を勝手に肥大させてしまうことによって、もっと有害なものになってしまう可能性もあると言う。

次のつまづき」のところでも書いた通り、私は「過剰な完璧主義」という問題を抱えている。これが、もっともわかりやすい例だと思う。

中学2年生のとき、私は美術の中間テストで学年1位の98点を取った。これは衝撃だった。得意だった英語や国語ならわかる。でも、私は絵を描いたりするような創造性の必要なことは非常に苦手だった。確かに、このときのテストの内容は、美術史に関する簡単な設問がいくつかと、自分の手の模写だったので、わりと点を取りやすかったのかもしれない。それでも衝撃だった。なんの力も入れていなかった教科で、田舎の1学年2クラスしかない学校とはいえ、学年1位を取った。びっくりした。

それで、普段はテストなんていちいち見せなかったけれど、それを持って帰って母親に見せた。

だが、母親が言ったのは、「でも美術でしょ?」。

受験に必要な英国数などの主要教科ではなく、単なる「お遊び」の美術。「そんな必要ない教科で学年1位を取って、見せびらかして喜んでるの?」ということだった。

私は、別に自慢をしたわけではない。人数少ないこの学校で学年1位なんて取ったことあるし、98点だって他の教科で何度も取ったことある。私はびっくりしたことを伝えたかっただけで、有頂天になってるわけでもなんでもなかった。

そこで私は、「この私が美術で学年1位だよ」と、びっくりしたよと言った。

すると母親は、「でも満点じゃないんでしょ?」。会話にならなかった。

生まれてから成長するまでの間にこういう人間に一番近くにいられると、人というのは「満足」ができなくなる。なにをどれだけやっても満足することができず、常にもっとなにかをしなくてはいけないと思っているようになる。過剰な完璧主義になり、人から褒められてもそれを受け入れられず、実在しない理想に向かって常に走り続けるだけの空っぽな人間になっていくのだ。

こういう人間が嫌だとは思っていた私でさえ、影響を受けてしまっていた。生まれてから人間が形成されるまでの子供の期間というのは、本当に恐ろしい。

上記の例では、もうひとつ自分の中に取り込んでしまっている問題もがある。それは、「自分の言いたいことを相手にわかってもらえない」ということだ。

私が言いたかったことは、「びっくりした」という新鮮な気持ちだ。それを勝手に「自慢したいのだ」と解釈される。それを訂正しようとしても、聞いてはもらえない。自分の言いたいことは相手にわかってもらえないので、最新の注意を払って言葉を選んで最小限の発言をしなければならないという、トラウマを植えこまれる。

このトラウマから、「人といるとどうして疲れてしまうのか」のところで書いた通り、安心して人とコミュニケーションを取ることができず、無意識に自分を守る作業をしているのだ。

これを変えるには、自分の中に取り込んでしまっているこの「」を追い出し、負の連鎖を断つことだ。

それにはまず、気づくこと。「美術で学年1位を取ってびっくりした」を、勝手に「美術なんかで98点取って喜んでいる」と受け取るのは、その人に問題があるわけで、私に問題があるわけではない。普通の人に話せばきちんとわかってもらえる内容であって、わからない人間のほうに問題があるのだ。

「主要教科じゃなかった」「満点ではなかった」と満足できない人は、その人に問題があるわけで、私に問題があるわけではない。仮に私が「学年1位を取ったぜ」と自慢していたとしても、そこになんの問題もない。世の中に「完璧」というものは存在しないので、完璧を求め続けて生きていても終わりがないからだ。人間は自分自身の中に満足を見い出すことによって、幸せになる。実態のないものを追いかけ続けていても、いつまでも幸せになることはできない。

これに気づいて意識することによって、日常生活のいろいろなところで「あれ、ちょっと待った」と変えていくことができるようになるのだと思う。地道な作業だけれど、やるしかない。

依存しようとする心

怒りが止まらなくなった私は、カウンセリングでもそれを出し始めた。

不穏なことを言い始めた私に、カウンセラーは不安を見せた。それを見て、心底がっかりした。でも、はっとした。全面的な信頼をよせてはいけないのだなと思った。

生まれてから人間は、親に対して全面的な信頼を持たせてもらうことで、それを支柱にして、いろいろな経験を身につけていく。そのうちに、その親が常にそばにいなくても大丈夫になり、大人になるころには、親がいなくても自分一人で自分を信頼して生きていけるようになる。

親が信頼できない人物だった場合、自分を信頼し、世の中に出れるようになるところまで成長できない。そうなると、親ばかりか、世の中すべてのものが信用できず、365日360°気を配り続けなければならない。そりゃあ歯軋りだってするだろう。

そんな中で、一度少しでも「信頼できそうだ」と思ってしまうと、全身で全面的に信頼してしまうのが、毒親育ちだと思う。たったひとこと、自分のためになることを言ってくれただけで、その人を「いい人」と決めつけてしまう。

どれだけ悪い人だって、たまたまいいことを言ったり、それがたまたま自分にとってとてもためになることだったりすることもあるだろう。でも、たったそれだけでその人を「いい人」と決めつけ、その後その人がどれだけのことをしでかしても、信頼を寄せ続けるようになってしまう。現実を見て判断することができない、バーチャルだ。

私はこれを、親を信頼できなかった部分を満たすために、子供のようになって誰かを全面的に信頼したい、信頼することで全部任せてラクになりたいという欲求が出てしまうためではないかと思っている。

カウンセラーだって、人間だ。判断を見誤ることだってある。もちろん、プロなのだから、ないに越したことはない。でも、全知全能ではない。当たり前だ。信頼できる部分が多いカウンセラーに越したことはないけれど、全部まるごと信頼できるカウンセラーなどこの世にいるわけがない。

自分にとって必要なことを、自分で吟味して利用する。違うと思ったら、違うと言う。もちろんヒントをもらったり助言をもらったりすることはあるけれど、カウンセリングの中心はだ。カウンセラーとの話の中で、つかめるものをつかむのは、自分だ。信頼するのは、そのカウンセラーのプロとしての意識、自分を助けたいと思ってくれている気持ちであって、口から出てくるもののすべてではない。

全面的に信頼すべきは、自分自身だ。自分はもう大人だ。小さくてものごとの判断がつかず、常にすべてのことにおいて緊張して見張り続けていなければならなかった子供のときとは、違う。多少のことは考えなくても自然に正しい判断ができるし、正しい行動がとれる。そして、自分は自分にとってもっとも最善を尽くしてくれる人間だ。この世の中で、もっとも自分が信頼できる人間だ。

私がなぜ親を信頼できなかったのか、そしてこれだけのひどい不安症になってしまったのかは、のちにわかることになる。このときはがっかりした気持ちのほうが大きく、ここまでの気づきはなかった。この「怒り」に関しても、またのちのち出てくることになる。

毒親育ちは「白か黒か」の世界で生きていて、「グレーがない」と読んだ。世の中のほとんどのものはグレーであるにもかかわらずだ。毒親は「決めつけ」が多いので、それを学習してしまったことで起こる現象でもあるのかもしれない。