気持ち悪い

相変わらずの毒一族

祖母の見舞いに行くたびに会った実家の連中は、相変わらずだった。

このとき一緒に行ってくれた従妹は、「叔母と絶縁」で書いた祖母の三女だった。私の母親は、祖母の次女。そしてもう一人、四女がいる。この四女が病院で働いており、祖母を例のリハビリセンターから救った人だった。

四女と従妹は絶縁状態だった。でも四女は祖母がいる病院で働いているから、会ってしまうかもしれない。四女に会いたくない従妹は私を先頭にして、隠れるように病院に入っていった。私は四女とは特になにもなかったからだ。

祖母の部屋がある階へ着くと、受付けの人がとてもぞんざいで感じが悪かったので、最近では日本も変わってきたなと思った。するとその人が四女だったらしい。従妹も驚愕していたけれど、私も驚愕した。小さいころから近くにいてよく接していた叔母だったのに、このとき私はまったくもって彼女がわからなかった。長い年月を感じた。次の日に来たときも私はこの叔母がわからなかった。従妹は呆れていた。

私は叔母にこそ呆れた。従妹は叔母と絶縁しているけれど、私は叔母になにもしていない。長らく会わなかっただけだ。なのになぜこんな対応をされなければならないのだろう。小学生かと思った。

祖母の部屋へ向かう際、待合いスペースに私の両親がいた。私はスルーして通り過ぎた。従妹を見た父親が「おお」と近づいてきたところで私に気づき、「えっ」と固まった。母親も小走りにやってきて、「なんでKelokoがいるの?なんでいるの?」とパニックになっていた。

それでも母親は、私たちに続いて祖母の部屋に入ってきた。そのときはすでにふてぶてしい態度を取り戻しており、ものすごい横柄な態度で、「Kelokoこんにちは」と嫌味ったらしく大きな声で言ってきた。無視していると、祖母の近くへ来て「Kelokoが来たよ!Kelokoが来たよ!」と叫び続け始めた。

母親は他の誰が見舞いに来ても、これをずっとやっていた。祖母の見舞いに来たのだから、見舞いに来た人に祖母と話をさせるべきだろう。そこをなぜか自分が一番そばにやってきて、「◯◯が来たよ!◯◯が来たよ!」とずっとやっている。見舞いに来た人たちは祖母と話せることもなく、母親と話をして帰って行く。完全に頭のおかしいおばさんだった。

そんな母親が部屋にずっと居座っていて、しばらく私は祖母と話すこともなにもできなかった。私とお話ができない母親は、偉そうに従妹と話し始めた。すかさず従妹に向かって「外で話してくれる?」と言った。従妹には申し訳なかったけれど、その女を連れて出て行ってほしかった。従妹はよくわかっていたので、母親を連れて出て行ってくれた。

そこで長いこと祖母と二人になることができた。入院初日だったので、祖母は寝てばかりだった。

祖母は最初に私を認識したときに目をかっと見開いて、「時間がねえ」と言った。とっさにどういうことなのか聞きたかったのだけれど、そこで母親が「ばあさん、時間なんてたくさんあるよ!」などと笑いながらかぶせてしまった。本当に頭の悪い女だった。

「私がここにいられる時間は短い」という意味だったのか、それとも「祖母の時間がない」という意味だったのか。どちらにせよ、祖母に時間はできた。私がいた一週間の間に、だいぶ回復することができたのだ。医者にも「奇跡的だ」と言われたそうだ。90を過ぎた人があんな状態から回復できるのは、そうそうないことらしい。

数日してからまた会いに行くと、祖母は緊急患者ではない病室に移動していた。それを知らずにいつも通りに受付けをして病室へ向かったとき、叔母は病室が変わったことを教えてくれなかった。従妹が見ていたところ、ニヤリと笑っていたらしい。幼稚すぎて笑えた。こういうキャラクターはドラマでしか見たことがなかったけれど、実在することがわかった。

誰も彼も、子供だった。唯一まだ父親が普通に近かった。彼は私が病室にいるときは、遠慮して入ってこなかったのだ。母親は私がいると必ず入ってきた。入ってきては、大きな声で自信たっぷりに祖母の話をしたり、でかい態度で居座った。そういう女だった。

彼女は自信がないのだ。だから入ってくる。不安だから大きな態度をとる。「自分がここに入ってきて当たり前だ」「いいのだ」、それを確認したくて入ってくる。「自分が祖母の面倒をみている」「自分がわかっている」それを見せたくて、見舞いに来た人を差し置いて祖母に話しかけ続ける。

でも私に直接話かけることはできない。無視されるのが怖いのだ。自分がつまらない人間であるということを、自分の娘が自分のことを嫌っているということを、見せつけられたくないのだ。だから従妹に話しかけたり、祖母に話しかけたりしかできない。そしてどちらかが私に話しかけると、とっさにそれをつかんで乗っかってくる。

小さな女だった。悲しい女だった。

でもこのときは、まだそんな風には思えなかった。私の気持ちを認識して「部屋に入ってこない」父親と真逆で、母親は私の前で堂々とふるまうことで、私の気持ちを無視しよう無視しようとしていた。体中が沸騰するかのような怒りで煮えくり返った。手脚や顔が震えてきて止められなかった。

いつもそうだった。私の気持ちをないものとし、私の存在をないものとすることで、母親は自分の自信を保っていた。私を踏みつけていないと、立っていられないのだ。

最後に祖母と会ったときは、すでに部屋に母親がいた。私が毎日来るとわかっていたから、わざとよく部屋に来るようになっていた。従妹だけ入り、私は待合いスペースで待っていた。

母親が電話をしに出て行ったとのことで、すかさず従妹が私を迎えにきた。私が走って病室へ行くと、それを廊下の向こうのほうにいた母親に見られた。母親はなんと、電話を切って必死な顔で小走りに戻ってきた。恐ろしかった。

彼女にとって私が目の前にいるこのときだけが、自己肯定感を埋める唯一のチャンスなのだ。彼女の自己肯定感は、私を踏みつけることでしか埋められない。私は遠く海外で生活をしており、連絡もない。その私がやっと目の前にいる。このまたとないチャンスに、自己肯定感を吸い上げられるだけ吸い上げたいのだ。巨大なヒルのようだった。

だから母親はそこからずっと居座った。彼女が出て行かないと思った私は、しかたがないから帰ることにした。イギリスからわざわざやってきたのに、この頭の悪い女のせいで、私は出て行かなければならないのだ。こいつのせいで、これから何度祖母に会えるかわからない私が、出て行かなければならないのだ。

そんなことはしなくてよかったのだ。でもこのときはそんな風に考えられなかった。

「はるばるやってきた娘に祖母と楽しい時間を過ごさせてやろう」などという気持ちはこの女にはさらさらなかった。私を使って自分の自尊心を満たすことしか、考えていなかった。こんなクソ女を「母親」などとはとても言えなかった。クソはクソらしく、トイレに流してやりたかった。同じ部屋にいるだけで、空気がにごっていた。この女の周りだけ、空気がよどんで黒々としていた。

最後に祖母に「私が誰だかわかる?」とまた聞くと、面倒くさそうに「いい女だよ」と言ってそっぽを向かれた。祖母はこういう人だった。何度も聞くから、面倒になってそんなことを言うのだ。他の人にはこんなことは言わず、ちゃんと名前を答えたり、わからなかったらわからないと言う。私に対してだけは頭がはっきりして昔の祖母に戻り、こういう粋なことを言う。やっぱり来てよかったと思った。

それなのにまた頭の悪い女が、「いい女だよだって!」とかぶせてきた。今ここで聞いた。全員聞こえた。お前がリピートする必要がどこにある。

本当に「死んでくれ」と思った。祖母ではなくて、こいつが死ねばいい。

最後に話したのがこれになるのが嫌で、フライト前日に予定を変えてまた会いに行こうかと思った。でも私の体調が悪く起き上がれなくなってしまって、最終日は休まなければならなくなった。腰もひどくなっていて、緊急で整体に駆け込むことにもなった。

でも、いいのだ。祖母とこれだけいいやり取りができた。これでいいのだ。完璧主義を脱して最終的にそう思えただけでも、このときは進歩だった。

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つらい日々

実家での苦行を経て、イギリスへ帰国した。

いろいろな発見と確信を得て、たくさんのことを学んだのは、「大きな一歩」で書いた通りだ。でも、仕事をしてても家にいても、毒親にされたことが頭から離れず、「ああすればよかったのかもしれない」「こう言ってやればわかったかもしれない」と永遠に考え続けていた。

毒親のまとう黒く濁った空気と、ヒキガエルのようにつぶれた顔に、死んだ魚のような濁った目が、頭から離れなかった。怖くて、気持ち悪くて、たまらなかった。

やっと寝つけても、夜中の2時に目が覚めては、また眠れなくなった。完全に取り憑かれていた

毒親が後悔するだろうと思うと、「死んでやろう」と思うことも多かった。もう自分には、「自分の存在」を毒親に証明することはそれしかなかった。あんなやつらのために自分を犠牲にするなんてと思うこともあったけれど、ときどき波がやってきてどうにもコントロールできなくなりそうなことがあった。

私も、人間だった。感情のある、立派な一人の人間だった。

よくもそれを無視して、今まで好き放題にしてくれたものだと思った。しかも、自分の子供にだ。あり得ない。どうにか痛い目にあわせて、後悔で死ぬほど苦しめてやりたいと思った。私はこんなにもつらいのに、やつらはそれをなんとも思わないばかりか、「俺たちに嫌な思いをさせやがって」と思っているわけだ。あり得ない。

こんな目に私があわなきゃいけない理由は、いったいなんだろう。

もう、「時間が解決する」とかそういう問題ではないように思えてきた。早くどうにかしないと、自分がつぶれてしまうと思った。一度の「不幸なアクシデント」ではない。何十年もの苦しみが積み重なって、あふれ出しているものだった。どうしたらいいかわからず、お祓いでもすればいいのだろうかと思った。

それでも、「自分はつらいのだ」ということを認め、外に出せるということは、大きな進歩だった。

実家にいたころは、学校や外では楽しいキャラクターで、家では無言で死んだような、二重人生を送っていた。そういうところを外の人に見せたら、頭のおかしいやつだと思われると思っていたし、周りには理解してもらえないだろうと思っていたので、隠していた。

親は、「Kelokoは外面がいいから」といつも言っていた。外面がいいから、外の人には私がどれだけ「大変な子」かということがわからないのだと言っていた。

今思えば、それが洗脳だったのだ。毒親にそう言われていたせいで、「外の人にはわからない」と思い込まされていたのだ。私は「大変な子」ではなかったし、「大変」なのは毒親のほうだった。

自分でもそうは思っていたし、違うと思うことは違うと言ってきたつもりだったけれど、生まれたときから何十年も「自分の親」にそういい続けらると、こんなにも刷り込まれてしまうのだ。自分でも気づかないうちに、あのヒキガエルたちが放つ毒素が、空気を通して少しずつ少しずつ私の体の中のほうまで染み込んでいっていた。おぞましかった。

祖母のいない実家

やっと「祖母の帰宅」があったのに、祖母は一泊しか一緒にいられず、翌日には施設へ送って行くことになった。

そこでも毒父は、祖母に二度、施設の人にも一度、「本当は明後日まで施設にいる予定だったんだけど、娘が来たから俺が頼んで一泊させたんです」と、また書いて練習したような長文を滑舌よく言っていた。

このときはもう、体中の血が沸騰して、指は震えてくるし、どうして私がこんな目にあわされるのかわからず、本当に憤死するかと思った。どこをどうしたらそんなに都合よく記憶をすり替えられるのか、まったくわからなかった。祖母が乗っていた車椅子を、後ろから投げつけてやりたかった。

このころには、もう毒親二人の周りを黒い影がもうもうと囲んでいるのが見えて、近寄れなくなっていた。腐臭がただよっていて、万が一その陰気な影に触れたら腐りそうだった。目はただれてぶら下がり、顔はぐちゃぐちゃにつぶれているように見えた。恐ろしかった。

毒親二人は、ピリピリしていた。前年と違い、私が思うように振る舞ってくれないからだ。それを「親不孝」「感謝がない」という言葉で片づけて私のせいにすることで、自分たちを保とうとしていた。救いようが皆無だった。

祖母がいなくなった実家は、またガラリと雰囲気が変わった。人も少なくなって、部屋がとても大きく感じた。

私たちは祖母と遅い朝食を食べたので、お昼になってもお腹は空いていなかった。リビングのこたつでみんなでテレビを見ていると、そこに毒母がやってきて、こたつのものをのけて狭いところに入り込んできて、自分と父親の分と、ラーメンを二つ置いた。

食事は台所でするのに、なんでわざわざこんな狭いところへ持ってきて食べるんだろうと思っていた。父親も、「なんでこっちで食べるんだ?(台所で食べないんだ?)」と聞いたほどだ。すると毒母は、

「こっちで見せびらかしながら食べようと思って」

と言って、「あーおいしい」とズルズル食べ始めた。

イギリスに住む私の前で日本のラーメンを食べて、見せびらかしたかったのだと。いったい、この人は何歳なのだろう。「あーいいなー!ずるーい!」とでも言ってほしいのだろうか。そんなことが、本当に楽しいのだろうか。

こんな稚拙な女に「育てられた」ということが、今だに信じられない。こんな女が、子育てなどできるのだろうか。いや、できなかったからこそ、今の私がこうなっているわけだった。それにしても、あまりの衝撃に目眩がする。

それでも、以前はそんなものだと思っていたことが、気持ちが悪くなるほどおかしいことだということがわかってきたというのは、進歩をしている証拠だった。この家を出て十数年、普通の人たちに囲まれて生きてきて、普通の感覚が身についてきたのだ。やはり、「逃れる」ということは大事なことだと思った。

私が実家を出てから、毒家族はを飼い始めた。その犬は、このときなんとにかかっていた。

老齢であったこともあるけれど、もしかしてストレスだったのではないかと思った。あの家にいて、父母妹の毒家族三人のどす黒い腐った空気にやられたのでは。

私がいたときは、毒家族三人ですべての嫌なことを私のせいにして自分たちの平和を保っていたが、私が自立したとたん、三人で撃ち合いが始まった。父親の浮気疑惑に、妹のパラサイト問題も加わって、それまでは言わなくてもお互いでカバーしあって仲良しこよしでやってきた母親は、文句があっても本人に直接言えず、姉弟の家にやってきては愚痴をこぼしていたそうだ。

それは大変ザマーミロだったが、私の自立と同時に飼い始められたこの犬は、そのヘドロを一気にかぶったことだろう。というより、そのヘドロをかぶせるために飼い始めたというのが本当のところだろう。私が自立してなくなったはけ口を、犬を飼うことでまぎらわせようとしたのではないか。

昔は元気に庭を駆けまわっていたが、このときは身動きもとれず、家の中の布団でごほごほと肺から直接出てくるような変な咳をし続けていた。怖かった。

犬に近づくたびに毒父は、犬が横になって変な体勢になっているのを、両足をそろえてまっすぐにして、なでてやっていた。それでもまた変な体勢になって、またしばらくするとやってきてまっすぐにして、「お前はかわいいな」「本当にかわいそうだ」となでてやっていた。

でも、顔がにこにこしていて嬉しそうなのが、本当に気持ち悪かった。本当に犬の気持ちがわかっているとは思えなかった。「世話してやってる」自分に、酔っていたのだろうか。

変な体勢になってしまうのは、それがラクだからだ。なのに、なにも考えず、それを見た目よくまっすぐに直し続ける。犬にとって「なにがいいか」は、まったく頭にない。自分がしたいように、したいことを勝手にするだけ。夫も、「Kelokoのお父さんおかしいよな、犬のとこやってきてまっすぐに直して、またやってきてはまっすぐにして、笑っちゃう」と言っていた。まったく無駄なことをしていると思ったのだろう。

そんなところに十数年もいたら、病気になっても当然だ。口がきける人間の私だって、頭がおかしくなった。なにもできない犬だったら、なおさらだろう。本当に、あそこを出てよかった。