気にしすぎる

クラニアル・オステオパシー

このころ、カウンセラーから「Cranial Osteopathy(クラニアル・オステオパシー)」というものを聞いた。日本語では「頭蓋仙骨療法」と言われている。

オステオパシー自体は、「日本で駆け込んだ整体」で知っていた。それの頭バージョン、頭蓋骨の整体、という認識だった。頭蓋骨というのは何枚もの骨でできているのだけれど、それを微細に調整することによって様々な症状を治していく。

このころは本当にうつで、どうしようもなかった。脚のつけ根も痛くなり、ランニングもできなくなって、ヨガもできず、毎日ぐちゃぐちゃだった。家事もなにもできなくなってしまってこれではだめだと思い、iPhoneのアプリ「寝たまんまヨガ」でヨガニードラ(瞑想)をやって少しはすっきりしたのだけれど、それでもだめだったので、イブプロフェンを飲んだ。頭が痛かったのだ。

なんでこんなことになっているのか考えてみたのだけれど、もしかしたら「父親への手紙」を書く宿題をやったことと関係しているのかもしれないと思った。カウンセラーに話してみると、それもあるだろうけれど、天気もあるだろうし、脚の痛みも、他にもいろいろ総合的なものだろうと言われた。

たしかに、「夫の仕事が決まって」通勤生活が始まり、新しい生活にまだ慣れずあたふたしているところがあった。毎日、今日はあれやってこれやって、ご飯なににしようか、お弁当はいるんだっけ、お風呂汚いな、リビングも掃除しなきゃ、洗濯物忘れていた、やばい図書館に本を返しに行かなくては、会社で保険申し込みできたかな、医者の予約が、カウンセリングはいつだっけ、etc etc。

一度流れができてしまえばいいのだろうけれど、始まったばかりで次々に来るものを後から後からこなしていたために、頭がおかしくなってしまったように思った。しかもまた、二人分考えていた。これがいけないのだ。夫の分は夫に任せておかなければいけない。

こんな毎日の中で、あることに気づいた。

私は、常に身体にが入っていた。日常のちょっとしたことでだ。たとえばパスタを茹でて、お湯を捨てる。そのときにザルを使うと洗わなければならなくいので、そのまま菜箸でパスタを押さえつつ、お湯をこぼしていく。そういうときに、首と頭にものすごい力が入っていた。足の指も、力が入って丸まっている。びっくりした。

洗面所を掃除していたときも。水をバシャバシャしてそこら中を濡らさないように、また全身に力が入っていた。一度気づいてみれば、こういう日常のちょっとしたことで、常に身体に力が入っていた。寝るときの歯ぎしりはずっと知っていたし、歩いているときに足の指を丸めていることも気づいて直そうとしていたけれど、日常のありとあらゆる場面でこんなにも力が入ってしまっていることに愕然とした。

パスタなどこぼれてもいい。ザルもこういうときのためにあるのだから、使って洗えばいい。水などバシャバシャしても拭けばいい。こんなことで死ぬわけがない。なにも問題ない。それを、ミスったら死ぬかのように全身に力を入れて踏ん張っている。やばい。

こんなだから、首と肩が重くなって、頭も痛くなるだろうし、腰も脚も痛くなる。当然だ。

カウンセラーに話してみると、パスタのお湯で?とびっくりして、かなり重症だと思ったようだった。オステオパシーをまた受けたいと話をすると、この「頭蓋仙骨療法」を教えてくれた。腕のいい人を知っているとのことで、その人の連絡先も教えてもらった。

どういう治療方法なのかネットで調べてみると、受けた人の話がいくつか出てきた。指の先で、ほんの少しの微細な調整を行うだけなのに、身体の中が動くらしかった。終わった後にすぐ立ち上がれないくらい、身体中がリラックスするらしい。どうも、身体の中にある、緊張からできたしこりを解いて流れをよくするものらしいのだけれど、ちょうど鍼灸でツボをついて流れを通すみたいなものだろうか。とても興味をひかれた。

根本的な治療はカウンセリングとヨガでやっていかなければならないけれど、とりあえず身体に出ている表面的な症状は、これでとれるかもしれないと思った。緊張をとり、リラックスして、とりあえずの体調を整えるのもありだろうと。

このカウンセリング後のヨガでも、リラクゼーション目的のものをやってもらった。ヨガニードラも長くやってくれて、身体が溶ける感じがすごくあった。私はこの先生しかしらないけれど、本当に上手だと思う。iPhoneのアプリでもいいけれど、やはり先生にやってもらうのがよかった。偉いSwami(先生)のヨガニードラを録音したものをカウンセラーが貸してくれたので、家でやるときはそれをやってみることにもした。

ヨガの後に夫の鍼灸を予約していて、私も一緒に行って症状などを説明するつもりだったのだけれど、私のほうが大変になってきてしまったので、予約を代わってもらって、指圧と鍼も受けてきた。なんだかボロボロだった。

頭蓋仙骨療法も予約した。お金がバンバン飛んでいくけれど、もうよさそうなものはなんでも試していこうと思った。だめだったらだめでいいのだ。これは(今は)だめだとわかるだけでも、いいことなのだ。

説明する症状をまとめてみた。これを持って、なんでも試してみたい気分だった。

1)子供のころからの歯ぎしり
2)精神的理由からくる慢性的な全身の緊張(臀部、首、肩、頭)
3)腰痛
4)坐骨神経痛
5)腿の筋の痛み(ここ2~3か月)

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自分を許せない

人が言うことを信用できない」に続いて、自分に対しても問題を抱えていた。

カーシェアリングの車で旅行に出かけたときのこと。帰ってきて元の駐車場に止め、荷物を下ろし、帰宅。荷物をほどいてシャワーを浴びたりし、寝る前にアラームをセットしようとして、携帯がないことに気づいた。家の中を見てみるも、ない。

車に忘れたんだ!!!となり、パニックに。降りる前に一度見た。でもそこでいろいろやっていて、そのときどこかに置いてきたような気もする。それでそのまま持って出なかったのではないだろうか。

サーっと血の気が引く。

夫と携帯でロケーションシェアをしていたので、それで私の携帯がどこにあるか見てもらった。ばっちり駐車場にあることが表示されたので、すぐに取りに行って確保し、事なきを得た。

なのに、気持ちがまったく晴れていかない

駐車場にあることがわかったときに、夫はもうほっとしていた。なのに私は、本当に駐車場にあるのかこの目で見るまでまったく落ち着かなかった。さらには確保したあとでも、まだズドーンと落ち込んでいたのだ。

そんな馬鹿なことをした自分が許せなかった。一人で行くこともできず、夫に「申し訳ないけれど一緒に行ってもらってもいい?」と謝って一緒に来てもらった。夫ももうパジャマだったのに、自分もシャワー浴びたあとなのに、また着替えて出なくてはならないのが凹むし、本当に馬鹿なことをしたと許せなかった。

カウンセリングでこの話をしたところ、この「携帯の場所がわかってもまだ落ち込んでいた」というところが引っかかると言われた。夫いわく、ロケーションを調べたときに、それが道をどんどん遠ざかって動いていたら心配しただろうけれど、じっと動かずに駐車場を指していたから大丈夫だと思ったと。

でも私はそれでも心配で、早く取りに行かないとと思っていたし、確保できてからも落ちていた。これは確かにおかしい

私が心配していたのは、たぶん以下の4つになる。

1.携帯を、どこかわからないところに置いてきてしまったのかもしれない
(なんとなく車に置き忘れたことは覚えていたにもかかわらず)

2.もしかしたら、誰かがもう拾ってしまったのかもしれない
(駐車場を指してるけど、駐車場にいる誰かの手の中にあるのかもしれない)

3.車を開けたら、レンタル時間を延長されるのかもしれない
(あとで連絡を入れて事情を説明するということもできるはずだけど)

4.もう寝るところだったのに、着替えて出なきゃいけないなんて申し訳ない
(徒歩2分の駐車場に行くだけだけど)

4つとも、こうして書き出してみれば、別に心配する必要などどこにもないことだった。1や2のように現実的ではない心配をしたり、3のようにあとから補完できそうなことを心配したり、4のようにそんなに大ごとでもないことを申し訳なく思ったり。確かに自分でこう書き出してみても、必要のない心配だということは理解できた。

カウンセラーは、「では携帯をなくしたらどうなると思う?」と聞いてきた。情報を盗まれるとか、また買わなければならないとか、セッティングをしなければいけないなどと答えてみたけれど、どれも別に死ぬようなことではなかった。そう、死ぬようなことではなかったのだ。

そういうことを生死がかかっているがごとく心配してしまうのは、やはり安心感がないからなのだと思った。けっきょくのところ、「人が言うことを信用できない」と同じ原因だ。

普段でもそうだった。豆腐を落として床にぶちまけたり、胡椒の蓋がとれて調理中のフライパンに全胡椒をぶちまけたりすると、自分が終わったようにショックで動けなくなる。「大丈夫だよ」「掃除すればいいんだよ」と夫に言われても、立ち直れない。掃除しても豆腐を買い直してもショックが消えないということは、片付けるのが大変とか物理的な要因がショックになっているわけではない。そんなことをしてしまった自分にショックを受けているのだ。

カウンセラーが言うには、「子供の自分と大人の自分」でやったように、「大人の自分」はこんなことをしても大丈夫だということが頭でわかっているのだけれど、子供のころと同じ状況に出くわすと、私の中にいる「子供の自分」が出てきてしまって、自動的に当時の絶望的な気持ちになってしまうのだということだった。

これにはまず、今の自分はもう大人であり、どんな状況でも自分で対処できるから、不安に思うことなどないのだと認識するところからとのこと。「掃除をすれば大丈夫」「また作り直せば大丈夫」「この世の終わりではない」と。

私がパニックになってしまうのは、

「なにか大変なことが起こった」という昔に見知った状況に陥る
    ↓
自分の中にいる当時の「子供の自分」が出てきてしまう
    ↓
「子供の自分」は状況に対応できない
    ↓
パニックに陥る

というメカニズムだった。

今はもう大人であり、携帯をなくしたくらいで死ぬことはない。プロバイダに連絡を入れて、使えなくしてもらえばいい。出費は痛いけれど、新しいのを買えばいい。大人なのだから、なんでもできる。この世の終わりではないのだ。子供のころはなにもできなかったことだけれど、今はもう子供ではない。そう理解できれば、パニックになることもない。

カウンセラーいわく、不安な気持ちが出てきたときには、

①まずは、不安な気持ちが出てきていることに気づく
②この気持ちはなんなのか、不安なのか、怒りなのか、落ち込みなのか
③どうしてそう感じているのか

これを観察してみるといいと教えてくれた。私の場合はたぶん、行き着く先はどれも「安心感を持てない」になるのだろうけれど、それを認識することが重要だった。最初は気づくまでに時間がかかるだろうけれど、何回かやっているとすぐ理解できてきて不安感が払拭されるようになってくると。それでも払拭できなかったときの対処法も、合わせて教えてもらった。

こういうことがあってから、夫は私のこういう特性を学んで、私がこういうミスをするたびに「大丈夫」「片付ければ大丈夫」とことさら言い聞かせてくれるようになっていった。この問題に関して夫は自分のトラウマを刺激されることはなかったので、積極的にサポートしてくれた。もちろんトラウマが刺激される問題については、そんな簡単にはいかない。でもできるところからやってもらうのは、本当に助かった。

カップルカウンセリング開始

二人でのカウンセリングが始まった。

「Marriage Counselling(結婚カウンセリング)」とも言うし、結婚してない人や同性同士のカップルで受ける人もいる。要は、「Relationship(パートナー関係)」での問題を扱うカウンセリングだ。

1回目はイニシャルカウンセリングで、「状況の把握」という感じだった。あとでよく考えてみると、基本的な質問を普通の会話の中でランダムにやっていたようだった。話をしていたのに、急にまったく違うことを聞かれたりということが何度もあり、面食らうことが多かった。

カウンセラーはきっと、とても頭のいい人なのだと思った。

以前のカウンセラーもよかったけれど、思えば初めから少しだった。カウンセリング室に入っても、なにも言わずに黙っている人だった。なにも始まらないから、椅子に座りなおしてみたり、ノートを出してみたりしたのだけれど、なにもなく。しばらくたってから、「あ、私はなにも言わないので、話したいことを話していってください」と言われた。

もちろんそういう「手法」であり、こちらに自主性を身につけさせる目的もあるのだろうけど、それを初めから説明しておくとか、まずは挨拶をしたりだとかして、あんな放置ではなく、もう少し話しやすい雰囲気を作ってくれてもいいのではないかと思った。

CBTのセラピストも、今度のカウンセラーも、そういう居心地の悪さは一切なかった。そして私がなんの心配もしなくていいところが、とてもよかった。

私の場合、どんな場所に置かれても、その場を回そうとしてしまうのだと思う。だから場が沈黙したりすると、どうにかしなければいけないと思って、もうフル回転してなにを言ったらいいかを探したりしてしまう。そんなことを常にやっている。

特に夫といるときは、なにもかもを私が考えて回している。夫は私がのせてくれる通りに好きなことをしゃべって、私のことは一切考えなくてよかった。私がのせてくれる通りに生活して、私が言うことをやって、なにも考えずに生きていた。二人乗りの船を、私が一人で漕いでいた。それで私が疲弊することになったのだ。

でもCBTのときも、今度のカウンセラーも、私がなにも考えなくても回してもらえた。それがとても心地よかった。なにも心配しなくても会話を回してくれて、私はただそれに乗っかってるだけで解決に少しずつ近づいていけるという。

だからもう会話の内容を考えたりせず、その場で適当に話したいことを言うだけにしようと決めた。

その中で、夫が「彼女(私)の家族の問題がもとになっていて」と言った。するとカウンセラーがすかさず「これは彼女だけの問題じゃないでしょ!これは二人の問題、50%50%(フィフティ・フィフティ)なの」と言った。

この時点では私も自分の問題がもとになっていると思っていたから、眼から鱗だった。

確かに私には、傷つきやすく、夫に依存しているという問題があった。でもその私と一緒にいるわけだから、私の問題は夫の問題でもある。その辺の認識が、まだまだ甘かったと思った。そして当の私がこんな認識だったから、夫はそれより格段に甘い認識だっただろう。

とにかく任せておけばいいと思った。生まれてから今まで何十年も、私はそうやって周りのことや相手のことを考えて世話して生きてきたのだから、私はもう考えない。そう思った。