怒り

無視されると感じるメカニズム

このあたりで、本格的にカウンセリングを受け始めてから5か月。ここまででわかったことをまとめてみた。

1)怒りの原因について

①「人が言うことを信用できない」で書いたように、Entitleされていないと感じるとき
相手のタイミングで話を切り上げられるときや、先に「もう寝る」と言われるなど、相手のタイミングでものごとを進めようとされるとき。

②気持ちを無視されていると感じるとき
話しているのに相手の話にもっていかれるときや、泣いている/悲しんでいる/喜んでいるのにまったく違う話をされるなどして、無視されるとき。

誤解されるとき
相手が自分のことを間違ったように解釈してなんの疑いも持っていないとき、またその上さらに相手の解釈を押しつけてくるとき。

2)不安の原因について

①常に完璧でいなければならない
少しの漏れも見逃せないから、常に360°何年先のことまでも気を張り詰めてなければならない。

②結果をコントロールできない
人に合わせなければならないから、自分の希望することができず、終わるまでただ少しでも自分の希望に近い結果が偶然出ることを願い続けていて、いつも不安な気持ちを抱えながらいなければばらない。

③人の言うことを信用できない
夫が「休める」と言っても本当に休めるのか確認しないと信用できず、「大丈夫」と言われてもそれはその人の感覚だから本当に大丈夫かは自分で確かめないとわからないと思っている。

こんな感じだった。それ以前とはかなり変わってきていて、より本質に近づいていると感じていた。

こんなことが出てくるとは、それ以前には思いもよらなかった。日本語の「カウンセリングが終了」した時点でも多くのことに気づけたと思っていたけれど、このとき考えてみるとまだまだあれは表面的だったということがわかった。いかに自分が表面だけで生きてきたかということを、しみじみと感じた。

こうして書き出して見てみると、「怒り」は親からされたことと同じことをされるのがトリガー(引き金)になっていて、「不安」は親が信用できなかったことに由来していた。また、「怒り」の①と、「不安」の②は、同じことからきていると気づいた。同じことから、怒りと不安の両方が出てくる。ということは、ここが解消されれば二つ治るということだった。

かなり解明された感じがしていた。ほぼ核心まで来ていて、あとはもう治療に取り組んでいくだけなのかもしれない、とも思っていた。でも以前かなり解明されたと感じていたのにまたこうして理解が進んだことを考えてみると、もしかしたらもっと核心的なことが出てくるのかもしれないとも同時に思っていた。

ちょうどこのころ、「怒り」の②番「無視される」というところに関することがあった。

水が硬いイギリスでは、このように水回りにライムスケールがこびりつく。定期的にレモン汁や専用の洗剤スプレーを使わないと、どんどん真っ白になっていって大変になる。蛇口が回せなくなったりもする。

うちで使っていたBrita(浄水器)にライムスケールがかなりこびりついていたので、食洗機で洗おうと思って分解した。蓋のところに右の写真のようなメモリがついていたので、もし電池のようなものが入っているのなら、食洗機に入れられないかもしれないと思い、夫に聞いてみた。

私「これってエレクトリック(電気式)?」
夫「取りたいなら外そうか?」

私は「電気式かどうか」を聞いているのに、夫は「メモリを取り外すかどうか」という別の話になってしまっていた。質問に対し、まったく関係のない、しかも質問で、返ってくる。そして、すでに食洗機のドアまで開けていた。

思い返してみれば、こういうことは以前から頻繁にあった。でも最初のころは、自分がイライラすることにも気づかず、夫の話に合わせていたのだ。それで自分が話そうとしていたことがわからなくなって、なにも解決せず、夫がスッキリしただけで終わる。解毒が進んできてやっと、夫が話を奪っている、それに対して自分がイライラしているということに気づき始めたのだ。

質問に質問で返ってくるのもおかしいし、さらにその質問が私の話したかったことと関係のないものだと、「無視されている」という状況を想起させられて、怒りが湧いてくる。なぜイライラするのか、その原因がこのころようやくわかるようになった。そして、イライラして当然だということもここでやっとわかったのだ。

たぶん夫の頭の中では、

これは電気式
   ↓
食洗機に入れられない
   ↓
これだけ手で洗おうか?
   ↓
でもKelokoは食洗機で洗いたいのだと思う(勝手な思い込み)
   ↓
ここの部分は取り外せそうだ
   ↓
「取り外そうか?」

という思考が勝手に行われて、最後の「取りたいなら外そうか?」だけが口から出るのだろう。

問題点1:私の質問に対する答えが一切ない。

私が知りたかったことは「電気式かどうか」「電池が入っているかどうか」だったのに、まったく関係のない答えが返ってくる。頭の中でどんなプロセスが行われているかは、わかる。わかるけれど、自分の頭の中だけでコンピューターみたいに勝手に計算をしていて、コミュニケーションがまったくない。自分の中だけで完結してしまっている。

問題点2:私がしたいことを勝手に思い込んでしゃべっている。

私がしたいのは、それを食洗機に入れることではない。電池が入ってるかどうかを確認した上で、手で洗ったほうがいいか、メモリを外して食洗機に入れたほうがいいか、手間がかからなくていいのはどの方法かを割り出すこと。それを、私が「食洗機に入れたいんだ」と勝手に思い込んで、「そのためにはどうしたらいいか」を勝手に考えて、勝手にやろうとしてくる。

しかも、電池が入ってるかどうかなんて開けてみてもいないからわからないはずなのに、「Kelokoは食洗機に入れたいんだ」という勝手な思い込みが優先して、「電池だよ」と私の質問に対しては適当なことを言ってくる。

問題点3:Defensive(過剰防衛)になってどうでもいいことを主張し始める。

私が咎めると、「なにが問題になっているのか」「どうしたらいいのか」を導き出す話し合いにならず、「自分が言っていることは正しい」を主張するだけになる。

「そうではない、電池式かどうかを聞いてる」と言うと、「でもこれ外せるよ」と、またわけのわからない回答を出してくる。「食洗機に入れても、これだけライムスケールがこびりついてると、後で手でも洗わなければならないだろうから、最初から手で洗ったほうがいいということもある」と言えば、「食洗機にはライムスケール落としが入っているから、こんなのすぐ落ちるよ」とムキになって言ってくる。ライムスケールが本当に落ちるかどうかではなく、「食洗機に入れさせる」ことが目的になってしまっている。

こんなにこびりついてるのに、食洗機に入れただけで全部きれいになるはずがない。そんなことは簡単にわかるはずなのに、「落ちる!!」と、きっと自分でも本当は思っていないだろうことを必死に主張してくる。それで実際もう面倒だから食洗機に放り込んでやったら、案の定こびりついたまま出てきた。それを見せても、「ああごめんね」で終わり。自分でもきっと、なんでそんなくだらない主張をしたのかわかっていない。

このころまでは、こういう無駄なことが本当に多かった。どうしたらいいかも、当時はわからなかった。それでも、どういう仕組みで怒りや不安が出ているのかメカニズムがわかったのは、本当に大きな進歩だった。それまでは、そんな仕組みがあるということすら知らなかったのだ。

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あんこ事件、その1

現在更新してあるところは三年前の話になるのですが、現在起こっていることも記憶に新しいうちに書いておきたいなと思い、書き留めていくことにしました。カテゴリー99の「現在の状況」に入れておいて、更新が追いついてきたら時系列に入れようと思います。


この前、久しぶりに夫と喧嘩になった。

「喧嘩になった」というより、「喧嘩にした」という感じだ。

以前は言いたいことを抑えていたので、喧嘩にならなかった。でもそれが溜まって爆発する。だから「言いたいことが出てきたらその都度出すようにしないといけない」とカウンセリングでもやった。最初は言いたいことを押し込めていることにすら、気づけなかった。そのうち、言いたいことはあるのだけれどタイミングを伺って出せない自分を発見した。それからは、話の流れがおかしかろうがなんだろうが出す練習をしてきた。最初はうまく出すことができないけれど、そのうち上手に出せるようになってくる。カウンセラーにもそう言われた。

日本ではたいてい、言いたいことを言わずに相手に察してもらう努力をする。すると相手に察する能力が乏しい場合、言いたいことを押し込めるだけになる。夫のように愛着障害回避型は「人や自分の感情をスルーする」という問題があるため、そういう人が相手だと私の言いたいことは永遠に日の目を見ることができない。

私の場合、言いたいことが言えないのは、主に親から言いたいことを言える環境を用意してもらえず育ったからだ。なにを言っても否定されれば、人間はだんだんなにも言わないようになってくる。そして言わなければならないことが出てきたとき、否定されないようにはどうしたらいいかを考え、タイミングや言いかたをよく考えて実行に移す。それでも否定されるのだけれど、どんどん削られていく安心感とともに、どんどん用意周到に巧妙になっていってわけがわからなくなっていく。

また境界線が乏しく外部評価に頼っているので、相手がどういう反応を示すかに依存している。相手に否定されると、自分のすべてを否定されたように感じる。私の話に賛同するかどうか、人の感情や考えを強制することはできない。だから人の反応に自分の評価を頼っていたら生きていけないのだ。

相手の反応に関わらず、自分の言いたいことを言うこと。それは今でも私の中で大きな課題になっている。

この前は、それが久しぶりに浮き彫りになった。

イギリスには「Aduki Beans」という名前で小豆が売っている。私はそれでたまにあんこを大量に作って、小分けにして冷凍保存しておいて、好きなときにお汁粉を食べたりしている。ストックがなくなってきたので、また作ることにした。大量の小豆を何時間も煮てやっと完成し、冷ますためにお皿に移した。

お玉についたあんこを食べたらおいしかったので、もっと味見したいと思い、大きなスプーンに大量にすくって食べてみた。それを見た夫が、自分もとスプーンを出してきて味見をした。小さいスプーンだった。そんな小さいひと口で満足するかな、どうせもっとほしくなるのだから大きなスプーンでたくさんすくえばいいのに、まさかその使ったスプーンでまた味見をしたりしないだろうな、やりそうだな、でも同じことを何度も注意したことがあるし、やらないかもしれない、と思って見ていた。

やはり、やった

頭にきた。

私が何時間もかけて作った保存用のあんこに、馬鹿みたいに「うん、いいんじゃない?」とか言いながら口をつけたスプーンを突っ込んでいる夫に、猛烈に怒りが湧いた。

でもここで、怒りを出せなかった。笑いながら注意して、適当に済ませた自分がいた。馬鹿だ。

もうあんこを見たくなくて、食事の支度を始めた。それでも怒りがおさまらなかった。そこで初めて、自分の中の怒りに気づいた。「あ、怒りを押し込めている」と気づいた。ここまでこないとこんなことにも気づかないなんて、私もまだまだだなと思った。

この怒りをどうしようと思った。

「こんなことで怒るなんて大人げない」
「話は終わったのにまた持ち出すなんて」
「夫の冬休み最終日なのに喧嘩なんて」

そういう考えがぐるぐる頭の中をめぐった。どれも日本で、親のもとで、様々なところで植えつけられた「怒り=よくない、みっともない」という思い込みだ。「みっともない」と思い込ませれば、それを抑圧するようになるので、親や社会にとって都合がいい。そうやって周りからコントロールされてきたのだ。

そして子供の自分は、怒りを抑圧すれば親や社会から喜ばれて必要とされるので、これをサバイバルテクニックとして身につけた。本当に教えるべき、身につけるべきは、「上手な怒りの出しかた」だ。それができなかったのだ。

喉に問いかける」のセッションで、最後まで「怒り」が出てこなかったのもこれだ。

「怒り」も、立派な人間の感情の一つだ。無視していては現実が成り立たない。ネガティブな感情を無視し、ポジティブな感情だけ認めて過ごすのは、現実を無視している。実際にそこに存在するものを無視するのは、非現実。「こうあるべき」のバーチャル世界だ。

ネガティブもポジティブも、存在を認めて受け入れること。それが現実の世界を生きるということ。

世界は片方だけでできてはいない。陰陽の両方でできている。だから、ネガティブをざっくり無視していいことだけに注目するたぐいの「ポジティブ思考」は人を幸せにしない。明るいのだけれど、どこか空っぽで宙に浮いている。現実から目をそらし、非現実の世界を漂っているからだ。

ここで怒りをちゃんと出しておこう。自分の気持ちをちゃんと言っておこう。そう考えて実行した。

怒りという感情のメカニズム

年始に「Authenticに生きた」ことから、「勇敢な私」を発見した。

このときの夫についてカウンセラーは、なかなかカウンセリングを予約しなかったこと、そして私がキレたときに自分もキレたこと、そこには「恐れ」があったのだろうと言った。

いったい「恐れ」とは。

このとき夫は私の誤解を解くために、お母さんとお姉さんのところへ話をしに行かなければならなかった。その話とは、両者の反感を買い、反論を受けるであろう話だ。自分と自分の妻が問題を抱えている、その原因は自分の生い立ちにある、となれば、お母さんの育てかたを批判することになる。

それを言わなくてはならない。なことだ。できれば逃げたい。カウンセリングに行ったら、これを話し合わなければならない。話したくなどない。だからなかなか予約をしなかったのだろうと。

その上、予約しなかった夫を私が責めた。口では謝ったけれど、それは通じなかった。嫌だけれど、やらなければならない。Kelokoからのプレッシャーが嫌だ。自分にこんな嫌なことをさせようとするKelokoが嫌だ。なんでそんなことをさせようとするのだ。嫌だ!!怒る!ということだろうと。

そこで「怒る」ことは、私にも理解できる。でもなぜそれが「恐れ」なのだろう。

カウンセラーいわく、「怒り」というのは二次的な感情なのだと。他の感情が膨れ上がりすぎてどうしようもなくなったときに、それを怒りに変換して破裂するのを逃れるためにあるのだということだった。

たとえば、「悲しみ」。悲しすぎてどうしようもなくなったとき、それ以上悲しみを味わうと破裂してしまうから怒りに変える。親にひどいことをされたとき、怒ることによって「実の親にひどいことをされた」という悲しみが極限を超えるのを逃れる。

「怒り」というのはいわば、人間が生きていくためのサバイバルテクニックのひとつだった。

「怒り」を解決するには、その下に隠れている感情がなんであるかを見る必要がある。夫はこのとき、「不安」だった。嫌なことをしなくてはならない、それはやったこともないことだったし、極度の不安を抱えていた。それが大きく膨れ上がり限界を超えかけたので、怒りに変換して生き延びたのだった。

私にとっては至極理不尽な理由ではあるけれど、このわけのわからない夫の爆発は解明できた。

というのも、私は夫がどれだけこれをやりたくないかということがもちろんわかっていたのだ。だからお母さんのところへ行っても、高い確率でなんの話もせずに帰ってくるだろうと思っていた。仕事の話だとか、家を買う話だとか、これからの世の中これがはやるだろうとか、そういうどうでもいい話だけをしてくるだろうと。

このころ夫はまだ、前進し始めたところだ。自分たちが取り組んでいることがどういうことなのかを、あまり理解できていない状態だった。だから今中途半端に話をしに行ってもまた反論されまくり、最終的に向こうの意見を鵜呑みにして帰ってくるだろう。それよりも、もっとしっかりしてから行ったほうがいいのではと思っていた。

だがカウンセラーは、何度もやればいいのだと言った。びっくりした。たぶんこういう壁は一度で壊せるものではないだろうと。今やって、たとえ逆流してしまったように思えても、何度かやって少しずつ進んでいけばいいだろうと言った。

はっとした。確かにそうだった。一度でなくてもいいのだ。今回少しでも話をすることで、「おや?」と相手に思わせることが重要なのかもしれない。「今までになかったことが起こっている」と気づかせることが。

夫の一家には、「メンタル的なことを話さない」という闇の掟のようなものがあった。どの家族にも「暗黙の了解」というものはある。この一家は仕事やお金の話はよくするのだけれど、「メンタル的な問題は自分の中にしまっておかなければならない」という暗黙の了解があった。

その中で育った夫。大学生のときにバイト先に刃物を持った強盗が入ってきたことがあったけれど、そのことも誰にも話していなかった。小さいころにいじめにあっていたらしいけれど、それも親に話さなかったらしい。私もこのときカウンセラーから初めて聞いた。

夫はそれほど、自分のことを見つめたり話したりしないようになっていた。

お姉さんもそうだった。「大騒動の襲来」の通り、「いつでも話しにおいでね」などと言っておいて、いざ私が問題を持ち上げたら叩いてきた。夫いわく、お姉さんだっていろいろと問題があるはずなのに、そういう話は一切したことがないと。集まれば毎回楽しくお食事をして終わりだった。

考えてみたら、このお姉さんもよっぽどおかしいと思い始めた。

大騒動の前夜」で私がSNSに書き込んだところにコメントをしてきたのだけれど、そこには「ママが面倒をみてくれるわよ」と書いてあった。私はてっきりこれを「まあひどい旦那ね、かわいそうに、ママが面倒をみてくれるわよ!」だと思っていた。お姉さんはわかってくれたのだと。でも実際は「ママが面倒みてくれるのだから黙っておけ」ということだったのだ。

確かに、お母さんが面倒をみてくれるだろう。でもポイントは、誰かが面倒をみてくれるかどうかではない。「自分の夫」が、その「」である自分が床に倒れているときに「無視をする」という状況に対し、これでいいのかというところだ。

お姉さんは自分が倒れたときに、旦那さんがそれを無視してもいいということだろうか。旦那さんは倒れたお姉さんをスルーして普通に生活していて、お母さんがやってきて面倒をみてくれるということでいいのだろうか。そんなわけはないだろう。

そう思ったら、耐えられない怒りがわいてきた。まさに、「慕っていた義理の家族にないがしろにされて悲しい」という気持ちが限界まで膨れ上がったものだった。携帯のメッセージでとっさにあんなに平謝りしてしまったことが、死ぬほど後悔された。

夫もきっと、お姉さんからこういう目にあわされて生きてきたのだ。私が毒親に会いに行くのと同じように、今回気づきがあった上でお母さんのところに行くのは嫌だろう。その気持ちはよくわかった

カウンセラーいわく、夫はそういう「嫌だ」という気持ちを出していいのだということさえわかっていないのだろうとのことだった。「行ったあとでカウンセリングで話したいと思っていた」と言いわけするのも同様。「嫌だと思っている」ということを私とシェアしない、自分の頭の中だけで思っている。

「一緒に生きている感じがしない」「夫は一人で生きている」と私が感じるのも当然だった。私の気持ちだけでなく、夫は自分の気持ちも出さなかったのだ。

では、どうしたらいいか。

カウンセラーは、「How do you feel about visiting your mum?(お母さんのところに行くことについてどう感じる?)」と聞いてみろとアドバイスをくれた。そうやって、夫の気持ちを出してやるのだと。出していいのだと思わせていくのだと。そして帰ってきたら「How did you feel?(どう感じた?)」と聞いてやるのだと。

この「Feel(感じる)」という単語が決め手だった。「How was it ?(どうだった?なにがあった?)」ではなく、「How did you feel?(どう感じたか)」。これを意識的に使うといいと。

私はいつも夫がカウンセリングから帰ってきたときは「どうだった?」「なにを話したの?」と聞いていたのだけれど、夫はいつも「忘れた」「たくさんありすぎて思い出せない」だった。そういうメンタル的なことを人とシェアすることに慣れていないのだと。「そういうことは出してはいけない」という暗黙の了解の中で育ったからだ。

だから、その植え付けられた暗黙の了解を破ってやらなければならない。「嫌だ」「やりたくない」という気持ちを出していいのだということ、そうすることは別に悪いことでも弱いことでもなんでもないのだということを、理解させなければならなかった。

そもそも夫は、自分は強い人間だと勘違いしていた。夫の家族がそうだったのだ。メンタル的な話をするのは「弱い人間」のすること。

It’s alright(大丈夫)
It’ll be fine(放っておけばいい)
Time heals all wounds(時が解決する)

男気で放置することが、「強い人間」だと思い込んでいる。きっとこれは多くのイギリス人の根っこにあるものだと思う。

でも実際はそれこそが「弱い」ということなのだ。現実を見つめられない、対峙できない。それをするだけの勇気がない。なのだ。

きっと、たとえば仕事の面接などであったら、夫も準備をして勇敢に出陣できるのだろう。でも「メンタルなことは持ち出さない」という家庭で育った夫が、その家庭に「メンタルなことを持ち出さなければならない」となったとき、そのプレッシャー恐れはいかほどだろう。確かに思った。

でも、少しずつでいいのだ。千里の道も一歩から。