希望

毒親の予感

こうして、夫の家族のことがようやくいろいろとわかってきた。

大騒動から見えてきたもの」で書いた通り、夫は自分で考えて行動することができなくなってしまった。私がお母さんの家を出て行ってしまったから後を追おうとしたけれど、私に「残れ」と言われれば残ろうとしてしまう、お母さんがそれを喜べばそれが正しい選択なのだと思ってしまう。

でも今回、最後には向こうを出て私を追ってきた。カウンセラーのメールを受け取る前に出てきたと言うから、ではなぜ出てきたのだと聞いてみたら、「やっぱりKelokoと年越しをしたかったんだ」とぽつりと言った。

きっとこのとき、夫は人生で初めて周りの言うことを振りきって、自分で考えて行動したのではないだろうか。

ただ、私がなにを求めているのかを推測して、帰ってきたという可能性もある。それだと、親が言うことをそのままやっているのと同じになる。そうではなく、「二人のためにはどうしたらいいのか」を考えて行動できるようにならなければ。

自分、相手、私たち」で話したように、二人のために、戻ったらいいのか、残ったらいいのか、私を日本へ行かせるのがいいのか。自分がどうしたいかではなく、私がどうしたいかではなく、

「二人のために、なにが必要か」
「そのために、自分がどうするのがいいのか」

これができないといけない。

そうしてこの家族の中で、お母さんやお姉さんの言うことに左右されずに、自分が「こうしたほうがいい」と思ったことをやれるようにならなければならない。

仕事や他のことに関しては、夫は家族の意見などとは関係なく自分の思う通りに生きている。でもこの「メンタル面」に関しては、だめなのだ。周りが常に「こうするべきだ」と指導しなければ、自分の妻に「大丈夫?」と声をかけることすらできないのだ。

当時の夫は、知らない人に声をかけたりなにかを尋ねたりすることも本当に苦手だった。できるだけそうしなくていいように生きていた。すべてはこの、家族とさえきちんと関わらずに育ったことが、原因だった。

そして今回のことで、私はお母さんに大きな疑問を持った。

私を追いかけようとした夫が、やっぱり実家に残って年越しをすると言ったときに、お母さんが「息子と一緒に年越しができる!」と喜んだと聞いたときは、びっくりして言葉が出なかった。お母さんにとって嫁の私のことはどうでもいいとしても、息子がこんな問題を抱えている状況で喜べる神経がわからない。

さらには、夫が「でもやっぱりKelokoが一人で年越しをするなんてかわいそうだ」と言えば、「私なんてもう何年も一人で年越ししてるわよ!」と言われたそうだ。息子とその嫁の話なのに、完全に自分の話になってしまっている。

最終的に、夫が私を追いかけてやはり帰ることにしたら「そうすると思った」と、嫌味を言ってきたらしい。普通なら「そうしなさい」が出なかったとしても、「それがいい」くらいは言うところだろう。

やはりこのお母さん、どう考えてもおかしい。

極めつけが、今回みんなで泊まったりしたことがよほど楽しかったのか、「お金を出し合って大きな家を買って、みんなで一緒に住もう」などと言い始めたこと。成人した子供を近くに置きたがるのは、毒親の典型だ。

以前から、夫と泊まりに行くたびに「こっちに住んだらいいのに」とは言っていた。寂しいのだろうとは思っていた。でもまさか一緒に住もうと言い始めるとは。しかもこんなタイミングで。

この騒動の前だったら、私も家族愛に飢えていて似たようなことを考えていたし、もしかしたらそうしたいと言ってしまったかもしれない。でもこの騒動をへて、そんなことは絶対に無理だと思った。「無理」と食い気味で返した夫に、お母さんは悲しそうな顔をしていたらしい。

このお母さんは、相当な問題を抱えているのではと気づき始めた。もしかして毒親なのではと。

以前に親について聞かれたとき、お母さんは「自分は望まれた子ではなかった」と言っていた。今思うとここでも、私の親の話が完全に自分の話になってしまっていたのもやはりおかしい。

お母さんには、がいたらしい。でもその子が幼くして亡くなってしまって、だから両親は自分を作ったのだと言っていた。なのに自分が男の子ではなく女の子だったから、親はがっかりだったと。そういうかなりヘビーな話を、自虐的に笑いながらしていた。

そんなことを私に言われても、どうしたらいいかわからず黙るしかできなかった。

お母さんの中では、その思いがまだまだ消えていない。二度も結婚をして、三人の子供を持って、親が亡くなり、自分が還暦を超えても、ずっとその思いが残って自分を苦しめ続けている。そしてそれが子供たちにもとなって染み込み、問題を脈々と引き継がせてしまっていっている。

そんなお母さんに育てられたことで、夫はお母さんの傷を埋めるばかりで、自分が子供でいる経験が充分できなかったのだろう。お母さんは今もまだこうして、息子と一緒に新年を祝い、一緒に暮らすことで、自分の傷を埋めようとしている。

でもその傷は、お母さんが自分で埋めていかなければならないものだ。

そういう家庭が嫌だったから、夫は物理的に遠くの大学へ行き、日本へ行くようになったのだ。そしてこれからは、メンタル的にもこの家族から自立しなければならない。

今までずっと体は外に出ていたけれど、メンタル的にはずっと実家にいたのだ。夫はそれに気づいて、家から出なければならない。そして自分の人生を歩み始めなければならない。このときがその第一歩だったのではないか。

夫と無事新年を迎えながら、これでもう大丈夫だと思っていた。でもそうではなかった。

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夫とヨガ師匠のカウンセリングへ

カウンセラーの都合で、カップルカウンセリングがキャンセルになった。

夫は週一の仕事があるからロンドンへ戻らなければならないけれど、私は引き続き夫の実家に泊まっていようかと考えていた。でもそこで、「ヨガの師匠のカウンセリング」へ夫と一緒に行けないかと思いついた。ちょうど予約が取れたので、夫を連れて行ってきた。

今回の実家への滞在がどうだったのかという話から始まり、夫の話になった。夫が「Defensive(過剰防衛)」になって、手が負えなくなるという話をした。

カップルカウンセリングでは、夫のこのカーっとなってしまうところに触れるたび、本人は「確かに自分は怒ることがあるけれど、誰だって怒るし、怒ることは普通だ」と主張していた。なので夫は自分の問題を見つめてどうにかしようという気がないのだと思い、もう終わりだなと思っていた。

たしかに、人が怒るのは普通だ。でもここで「自分は普通だ」と主張することの意味はなんだろう。

私たちは問題があるからカウンセリングに来ているのだ。少しでもおかしいと思うところや、おかしいと思っていなかったところにも一度焦点を当ててみて、問題を掘り起こしてみないでどうするのか。なんのためにお金を払ってこんなところへ来ているのか。なんと頭の悪い男だろうと絶望していた。

しかしヨガの師匠のところへ連れて来たら、なんと自分から自分の問題を話し始めた。

自分が義父にそうしていたと、義父と同じことをされるとイライラして過剰防衛になってしまうのだと思うと話した。義父は夫がすることを見ていて、すべてにダメ出しをしてくるような人だったらしい。夫は特に間違っていたわけでもなく、義父のやりかたと違っただけなのに、いつも「違う、こうだ」と義父のやりかたでやらされたとのこと。

夫も、小さいころは言うことをきいていた。でもティーンエイジにもなるとお姉さんが義父に対して反抗し始め、ついに「お父さん」ではなく名前で呼ぶようになった。それに習って、自分も義父を名前で呼ぶようになり、義父の言うことになんでも反抗するようになったとのことだった。

カウンセラーいわく、親がどんなであろうと、子供は親の言うことをきかないと生きてはいけないと。だから義父をやっつけることはできず、嫌でも自分の意見を押し込めるしかなかった。その怒りが積み重なっており、だから今でも同じ状況に遭遇すると、反射的に同じ方法をとってしまうと。

子供のころはその「押し込める」という方法は自分を生かすために有効だったけれど、今となっては自分の奥さんを傷つけたりして、自分の人生に悪影響を及ぼしてしまっている。それを認識して治していけばいい、とカウンセラーは説明してくれた。

誰にでもそういうことはあって、子供のころにやっていたことを反射的にやってしまう。「三つ子の魂百まで」みたいなものだ。それが大人になったときに生きていく上で邪魔になることが多いので、邪魔にならないレベルになるように治してしていくのだと。

この説明が、とてもいいと思った。最初から無駄なことをしていたのではなく、最初はそれが必要だったし、有効だったのだと。そして誰にでもそういうものはあるのだと。

こういう言いかたなら、夫は聞き入れられるかもしれないと思った。

最初は私のカウンセラーに夫を連れて行くのはどうだろうと思っていた。カウンセラーは私たちの親世代くらいの男性だから、義父といろいろあった夫には、義父を思い起こさせて話を聞けなくなるのではと思っていた。

でもカウンセリングが終わったあとに聞いてみると、義父よりは祖父みたいだと言っていた。おじいさんとはいい関係だったようなので、カウンセラーの話は聞けたのかもしれない。そして父親不在で育った夫には、こうして男性のありかたの見本になる存在が必要だった。

夫は、いろいろなものを引っ張り出してくれてよかったと言っていた。仕事でも過剰防衛になってしまって、素直に人のアドバイスを聞き入れられなかったりすることがあるから、そういうのはもったいないから治せたらいいと言っていた。

びっくりした。そんなことに気づいているとは思ってもいなかった。

あとでわかってくることだけれど、過剰防衛はひどい問題だったけれど、それさえ取れれば夫は人の話をちゃんと聞ける人だった。どれだけ否定し拒絶しようとも、ここで自分の問題に気づけてギリギリ認められるということがだ。これがあるかないかで、治せるか治せないかが決まると私は思う。

夫の場合はこれがあったから、「私の問題を一緒に考える」というスタンスではいたものの、カウンセリングにも来たのだと思う。そこが夫を救うことになったのだ。

「Kelokoが始めたこの一連のカウンセリングは、最初はKelokoの自分探求だったけれど、自分にもすごく意味のあるものだ」「自分の問題もわかってよかった」「ありがとう」と夫は言った。希望が見えてきた。

夫も1対1のカウンセリングをやることを勧められたので、ここに通わせてみようと思った。二人とも無職だし、私のカウンセリングに、二人のカウンセリングに、夫のカウンセリングまでやってたら破産すると思ったけど、ここですべてをきれいにすれば人生がすごくラクになると思った。夫には週一のバイトもあるし、今やってみるべきなのかもと思った。

夫も自分の育ちの問題や、自己肯定感の問題を解いてみれば、それを私とも共有して、お互いの理解も深まり、治療にかなり有効だと言われたし、たしかにそうだろうと思った。今考えるとあり得ないけれど、このときは夫のほうが私より軽度だと思っていたから、夫が治ったら私をサポートできてくるし、そうしたら私の治りも早くなるかもと思った。

でも実際はだった。

義理の家族

同居に向けて」の練習として、夫の実家に泊まりに行ってきた。

夫はお父さんが亡くなっており、お母さんとお姉さん、妹の三人が夫の家族だった。お姉さんは早くに結婚していて、お母さんは妹と二人暮らしをしている。

普通のイギリス人の家庭では、クリスマスには必ず帰省して、家族全員でプレゼントの交換をし、ローストターキーを食べて過ごす。でも夫はそういうことを一切せず、お母さんが送ってくれるプレゼントにもカードにも電話をするだけで、お返しをすることはなかった。私も対応を夫に任せていて、なにもしなかった。ただ年賀状は毎年送っていた。

出会った当初から、夫は実家と仲良くなかった。特別仲が悪いということではなかったけれど、本当に必要なときしか連絡をとったり実家に行ったりしなかった。

理由は、「あの土地に行くと落ちるから」とのことだった。

5歳のころに両親が離婚し、お母さんが再婚してイギリスに帰国。妹が生まれたものの家族は問題を抱え続け、大学生のころにお母さんはまた離婚。夫は遠くの大学へ行ったり、遠くの会社に就職したりと、常に実家から離れ続けて、最終的には日本にまでやってくることになる。

そんな様子だから、実家へ行っても日帰りや一泊だけだった。こうして週の大半を実家で過ごすようなことは前代未聞だ。そこで初めて実家と向き合い始めたようだった。

そして練習で私も行くことになった。仕事が終わった夫と合流して、長距離バスで向かった。

出発前日に高熱が出て、ボロボロのままバスに乗りやっと辿り着いたのもあった。直前のカウンセリングで夫に絶望して落ちていたこと、また応援してくれる友人のことや、ずっと家で一人で戦ってきたことなども重なったのか、着いて夫のお母さんに会ったとたん、があふれて止まらなくなってしまった。

「おかえり」とハグをして迎えてくれたお母さんがびっくりしていたけれど、もう涙で顔も見えなかった。泣きながらハグをしたまま、しばらくお母さんを離せなかった。

バスの中でもずっと、お母さんのところに行くまで頑張ろうと思っていて、行けば大丈夫だとなぜか感じていた。それを考えるだけで、バスの中でも涙が出そうだった。着いたらやはり涙が出てきてしまった。なぜだかわからないけれど、安心したのだ。

滞在中も夫と言い合いになり、二階の部屋でずっと話し合っていた。お母さんと一緒に作ろうと言っていたChristmas Pudding(クリスマスプディング)を作り始めるよと呼ばれても、ご飯に呼ばれても、下に降りて行けなかった。やっと話が終わって降りて行くと、泣いてボロボロの顔だったのに「よく眠れた?」と笑いながら言ってくれて、なにも聞かずに迎えてくれた。

ご飯を温めて出してくれ、作り始めずに待っていてくれたPuddingを一緒に作ろうと言ってくれた。日本のクリスマスケーキはいちごに生クリームのホールケーキだったり、ブッシュドノエルだったりするけれど、イギリスのPuddingはドライフルーツの蒸しケーキになる。
pudding
作るときに「願い事を言いながら混ぜると叶う」というジンクスがあるらしく、これを私にやらせようと思っていて、材料だけ用意して混ぜないで待っていてくれたのだった。

実家を出るときも、「いっぱいいっぱいになっちゃったらまたいつでもおいでね」と言って送り出してくれて、バス停まで涙が止まらなかった。一緒に暮らしている妹も、「兄じゃなくてKelokoちゃんが毎週こっちに来ればいいのに」と言ってくれた。妹もうつになったりいろいろな問題を抱えているのだけれど、だからこそ同じく問題を抱えている私の気持ちがわかるのかもしれないと思った。

お姉さんは「避難生活開始」のときに一度連絡を取ったけれど、それ以来心配してくれているようだった。このときも甥っ子たちを連れて食事に来てくれたのだけれど、そこでこっそりメッセージカードを置いていってくれた。

「To a Special Couple」
「Lots of happy times together – Today, tomorrow and forever」

ちょうど私たちの結婚記念日だった。お姉さんは今までカードなどくれたこともなかったし、会ったときもなにも話さなかったのだけれど、心配してくれているのだろうと思った。

世の中にはこういう人たちもいるのだと思った。誰もかれもが、うちの親みたいなのばかりではないのだ。話を聞いてくれる友人、心配してくれる友人、力になってくれる友人。世の中捨てたものではない、私も捨てたものではないと思った。生きていこうと思えた。

でもそこはやはり「頭のおかしい夫」が育った家だった。ちょうどこの一年後に、ここでもらったカードもなにも捨ててしまうできごとが起こる。でもこのときは本当に素晴らしい家族で、夫だけがどうにかしてしまっているのだと思っていた。