完璧主義

愛情がわからない

このころ「チャクラについて」で書いた第四のハートチャクラについて、カウンセラーが話してくれた。

ヨガの師匠のカウンセリング」を始めたころから、「あなたは胸がまったく上下していない」と言われていた。自分の存在を隠そうとしているようだ、とも。人間は常に呼吸をしているから、胸部や肩が上下している。していないということは、忍者のように「忍んでいる」状態だ。「ここに自分が存在していていいのだ」と思えていない、「ここの空気を吸う権利が自分にはない」と潜在的に思ってしまっているのではないかと言われた。

確かに私は、駅や町などで人からよくぶつかられたり、カバンをぶつけられる。自動ドアが反応しなかったこともある。嫌になって、足を踏み鳴らしながら歩いたこともある。それでもぶつかられて憤る。フィットネスのクラスでみんながハアハアと息を切らしているのに、無意識に呼吸を抑えていたりする。気づけば呼吸が浅く無音になっている。

胸は、ハートチャクラに当たる。物理的に「忍んでいる」ということは、精神的にも「忍んでいる」ということだ。自分の感情や気持ちを「忍んでいる」、押し殺しているのだ。無意識に自分という存在を否定しているようだった。

カウンセラーいわく、愛情を受けて育ってない人は、愛情がわからないから、人が自分にかける愛情もわからないし、自分も人に愛情を注げない。なにより、自分で自分に愛情をかけられないとのことだった。

私は典型的にこれだった。

夫に対する愛情もわからなかった。夫とは好きで結婚した感じがまったくなく、単に自分の面倒を私と一緒にみてくれる人がいて、その父親のような兄のような人と一緒にいるだけだった。実家で得られなかったものを、ここで得ようとしていたのにもかかわらず、実家の家族の延長をやっていた。実態のない空っぽな実家を離れたのに、けっきょくまた実態のない結婚をしていた。人は自分が育った家族しか「家族」というものを知らないから、当然なのだとカウンセラーに言われた。

好きだと思っていた食べものも単に「高くて珍しいから」食べていたものもあったり、好きだと思っていた身の回りのものが本当はそうでもなかったり、仲が良いと思っていた友人も実はただ「仲良くしなければいけない」と思いこんでいただけだったり、やらなければいけないと思っていた仕事が単なる思い込みだったりすることに、この数年でいくつも気づき始めていた。

そんな人生だったから、ただただ「死ぬまでの時間をどうやり過ごすか」だけになってしまっていた。当然だ。そんなことも知らなかったのだ。実態のある人生を、「Authenticに生きる」ということを身につけていかなければ、人は死んでしまうのだと知った。

夫の自分に対する愛情も、わからなかった。なにか面倒をかけることがあると追い出されるような感じがして、ものすごく不安になった。夫ばかり会社勤めをしていると、罪悪感に覆われた。せめてやっている家事も、料理を床にぶちまけてしまいそれを夫が片づけてくれたりすると、見捨てられるのではないかと不安になった。

なのにいざ夫が家にいて自分が働くことになると、「家を維持しているのは自分だ」ということにものすごく安心して態度が大きくなった。誰が稼いでいようが、どれだけ面倒をかけようが、本来なら関係ないはずだ。

愛情というのは、「依存」ではない状態において、相手や自分を受け入れているという感じなのだろうと思った。このときの私は、「相手がこれをやってくれたから」「自分がこれをやってあげたから」と、そういう条件がついた視点でしか考えられてないことに気づいた。そういうことではないのだ。

それがつまり、自分に愛情をかけられていないことからくる現象なのだと思った。

「自分がなにをやってもどんなでも受け入れる」ということができていなかった。自分がミスをすると、許せない。許せないから、他人のせいにしたり、環境のせいにしたりする方向にいってしまう人もいる。私の場合は、自分のミスは自分のせい、人のミスでも自分のせいに感じて自分を責めていた。

人の感情を受け取りすぎてしまうのも同じだとカウンセラーに言われた。このころ旦那さんを亡くした友人がいたのだけれど、その人の気持ちを受け取りすぎてしまっていて、自分まで鬱っぽくなっていた。夫には「俺が死ぬ話ばかりするな!」と怒られた。その人の悲しみを自分がどうにかしなければいけないと感じており、「夫がいなくなったらどうしよう」「生きていけない」と、自分のことのように受け取ってしまっていた。

これは一見とても思いやりのあるいい人のように見えるけれど、「人と人との境界線」がないということなのだ。親の感情を自分のせいにされて育つと、こうなるのだと。「アダルト・チルドレン癒しのワークブック」にも「人の悲しみは、どんなにつらいものでも、その人の人生の大切な一部」なのだと書いてあった。だからそれを取り上げてはいけないと。感情の境界線を持って、人と健康的な思いやりでつながることを学ばなければならない。

「人のミス」と「自分のミス」の混同も問題だった。なにをやっても相手が満足しないときに、「なにか変だ」と気づくことが大事だと。「完璧ではない」とか、「やりかたが悪い」や「足りないところがある」と文句を言われ、それでもっと努力をしてもまた別の文句を言われる場合。そういう人はなにをやっても満足しないということ。

こういう人を親に持って育つと、「自分はいくらやってもだめな人間だ」と思いこんでしまう。私の場合も、とにかくそうやって文句を言われることがないようにと必死にだった。最初からすべて完璧にして相手の口を封じなければと思って、不安な気持ちを常に抱えながら「完璧」だけを目指すようになってしまっていた。

確かにそれで親が満足したことはなかった。必ずなにか言われる。まさに「予期すらしていなかった大災害」で書いた通りだった。

でもそれは「自分のミス」ではないのだ。相手に問題があるのだ。

相手がなにを言ってこようと「自分のできる範囲で努力した」ことを自分に認め、「あれもできた」「これもできた」と認め、それ以上動き回らないこと。世の中には完璧なものなど存在しない。純金だってほんの数%はかならず金以外のものが混じっているのだ。そのときそのときでできることをやればいいし、実際はまったくできなくてもいい。

満足できない」で書いた美術の試験では、98点で学年一位をとった。それでも母親から「満点ではない」と文句を言われた。親がいなくては生きていけなかった子供のころなら、親の言うことに従い順ずることがこの世で生き残る道だったかもしれないが、今なら98点がよかったのか悪かったのかを自分で決められる。今後どうするかも自分で決められる。

このことに、体全体で気づくことが必要だった。

たぶん、愛情を知るプロセスというのは、

①自分に愛情をかけられるようになる
②人に愛情をかけられるようになる

の順番になるのだろうと思った。

なんだかもうすべてが実体のないフェイクな人生で、このときのカウンセリングでは久しぶりに絶望して泣きまくった。それでもこの数年で、「Authenticに生きる」ことを自分に許し始めているのを感じていた。最初はスローではあるけれど、始まるとぐわーっと右肩上がりになるとカウンセラーも言っていたので、毎日の身の回りのことから取り組んでみようと思った。

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よくできた従妹

この帰国で、従妹には本当にお世話になった。

彼女は彼女で、実の母親である私の叔母と絶縁している。一族のこともよくわかっているし、日本にいるから祖母のことなども私に教えてくれる。一族の中で唯一私の他に海外に住んだこともある人で、いろいろな話ができた。「化粧水」でも書いたように、イギリスに遊びに来てくれたこともあった。

彼女は学校で働く素晴らしい先生で、子供のことをよく見て小さなことにでも気づける人だった。すごくしっかりしていて、生徒の父母にもとても頼りにされていた。あまりわけのわかっていない私とは違い、人をよく観察している人で、一緒にいるとすごく勉強になった。

前回夫と日本に行ったときは、最後に空港まで見送りに来てくれた。従妹と別れたあと、急にさみしくなってが出てきた。実家でさんざんな目にあって、彼女がいてくれて本当によかったと思った。このときもまた空港まで来てくれたのだけれど、彼女のありがたみを感じながらずっと一緒にいたから、ぎりぎり泣かずには済んだ。

出発ゲートの前で、「じゃあこれお餞別」と言ってぽいっとくれたものを見て、言葉を失った。いろいろなことが心にしみて、打ちのめされそうになった。

私はこの帰国の中で、日本の化粧品をいくつか買っていた。イギリスでも化粧品は買えるけれど、日本のもののほうがやはり日本人の顔に合う色になっている。その中でチークも買ったのだけれど、このときは円が高かったので、別売りのケースは買わずに中身だけ買うことにした。従妹はそのケースを買っておいて、最後に渡してくれたのだった。

人づき合いって、人を思うって、こういうことなのだなと思った。

従妹よりもいくつも年上なのに、そういうのがまったくなかった自分。いろんな場面で、どうしたらいいかわからなかった自分。だから人づきあいが面倒で、なかなか濃いつき合いができなかった。

考えてみたら、がそうだった。人にあげるものは、人がなにをもらったら喜ぶかではなく、自分がなにをあげたいかであったり、自分の手持ちでどうにかしようとしたりしていた。逆にわけのわからないところで変な気を使って、相手を引かせることもあった。私はそれを見てずっと育った。なにが正しくて、どういうときにどうしたらいいのかということが、まったくわからなくなっていた。

以前の帰国時の「予期すらしていなかった大災害」のように、私が24時間起きっぱなしで疲れ果てているかどうかではなく、自分が「お節を食わせてやりたい」と思って行動することしかできない。「夕食の時間に食べずにお前を待っていたんだよ」と恩着せがましいことを言い、私がありがたくお節を食べることを期待する。

相手がどう感じるかは関係なく、自分がやりたいことをやってしまう。

そして私はそれに対してありがたがり、感謝しなければならないという考えを植えつけられていた。本当にありがたいと思うことがなくても、ありがたいと思われるシチュエーションを作られたら感謝を口にすることを身につけさせられていた。バーチャルだ。

従妹のこのお餞別をもらって、本当のプレゼントとは、本当の人付き合いとは、ということを教えられた気分だった。

でもこのときはまったく気づいていなかったのだけれど、のちのちこれがおかしな方向へ行っているとわかることになる。従妹と何年も何年も毎日のようにメールをし、話し合い、助け合ってきた私だったけれど、そのときまでまったくもってなにもわかっていなかった。なにも見えていなかった。気づかなかった。

従妹は、私の毒母の妹の娘だ。私が絶縁した毒叔母の娘だ。

そんな彼女が無事であるわけがなかった。でもそれに気づくにはまだまだ時間が必要だった。

父方の祖母に会いに行ったあと、二人で近くの温泉旅館に泊まった。ちょうど雨が雪になり、露天風呂は最高だった。久しぶりの会席料理も、本当においしかった。さぬきうどんやとんこつラーメン、便利なものがもりだくさんのドラッグストアに、スーパーのお惣菜。そんな思い出を胸に、このときは帰路についた。

このとき初めて羽田便を利用した。今までは成田便しか利用したことがなく、成田まで飛行機で12時間、そこから電車で90分という長旅に、毎回疲れ果てていた。羽田も確かに飛行機は12時間だけれど、そこからバスで30分で渋谷に出れた。びっくりした。ものすごい便利だと思った。

イギリスの自宅から空港までもバスで45分、そこからすぐフライト、そして着いてからもまたすぐバスで都心へ出れる。日本がぐっと近づいたように感じた。羽田発が朝の4時で大変だけれど、近くの温泉で休憩とシャトルバスがついたセットがあり、非常に便利だった。これなら前よりずっと大変な思いをすることなく日本へ行ける。そう思った。

でもこれを最後に、日本へは行っていない。ここで私の日本への共依存は終わったのだと思う。

相変わらずの毒一族

祖母の見舞いに行くたびに会った実家の連中は、相変わらずだった。

このとき一緒に行ってくれた従妹は、「叔母と絶縁」で書いた祖母の三女だった。私の母親は、祖母の次女。そしてもう一人、四女がいる。この四女が病院で働いており、祖母を例のリハビリセンターから救った人だった。

四女と従妹は絶縁状態だった。でも四女は祖母がいる病院で働いているから、会ってしまうかもしれない。四女に会いたくない従妹は私を先頭にして、隠れるように病院に入っていった。私は四女とは特になにもなかったからだ。

祖母の部屋がある階へ着くと、受付けの人がとてもぞんざいで感じが悪かったので、最近では日本も変わってきたなと思った。するとその人が四女だったらしい。従妹も驚愕していたけれど、私も驚愕した。小さいころから近くにいてよく接していた叔母だったのに、このとき私はまったくもって彼女がわからなかった。長い年月を感じた。次の日に来たときも私はこの叔母がわからなかった。従妹は呆れていた。

私は叔母にこそ呆れた。従妹は叔母と絶縁しているけれど、私は叔母になにもしていない。長らく会わなかっただけだ。なのになぜこんな対応をされなければならないのだろう。小学生かと思った。

祖母の部屋へ向かう際、待合いスペースに私の両親がいた。私はスルーして通り過ぎた。従妹を見た父親が「おお」と近づいてきたところで私に気づき、「えっ」と固まった。母親も小走りにやってきて、「なんでKelokoがいるの?なんでいるの?」とパニックになっていた。

それでも母親は、私たちに続いて祖母の部屋に入ってきた。そのときはすでにふてぶてしい態度を取り戻しており、ものすごい横柄な態度で、「Kelokoこんにちは」と嫌味ったらしく大きな声で言ってきた。無視していると、祖母の近くへ来て「Kelokoが来たよ!Kelokoが来たよ!」と叫び続け始めた。

母親は他の誰が見舞いに来ても、これをずっとやっていた。祖母の見舞いに来たのだから、見舞いに来た人に祖母と話をさせるべきだろう。そこをなぜか自分が一番そばにやってきて、「◯◯が来たよ!◯◯が来たよ!」とずっとやっている。見舞いに来た人たちは祖母と話せることもなく、母親と話をして帰って行く。完全に頭のおかしいおばさんだった。

そんな母親が部屋にずっと居座っていて、しばらく私は祖母と話すこともなにもできなかった。私とお話ができない母親は、偉そうに従妹と話し始めた。すかさず従妹に向かって「外で話してくれる?」と言った。従妹には申し訳なかったけれど、その女を連れて出て行ってほしかった。従妹はよくわかっていたので、母親を連れて出て行ってくれた。

そこで長いこと祖母と二人になることができた。入院初日だったので、祖母は寝てばかりだった。

祖母は最初に私を認識したときに目をかっと見開いて、「時間がねえ」と言った。とっさにどういうことなのか聞きたかったのだけれど、そこで母親が「ばあさん、時間なんてたくさんあるよ!」などと笑いながらかぶせてしまった。本当に頭の悪い女だった。

「私がここにいられる時間は短い」という意味だったのか、それとも「祖母の時間がない」という意味だったのか。どちらにせよ、祖母に時間はできた。私がいた一週間の間に、だいぶ回復することができたのだ。医者にも「奇跡的だ」と言われたそうだ。90を過ぎた人があんな状態から回復できるのは、そうそうないことらしい。

数日してからまた会いに行くと、祖母は緊急患者ではない病室に移動していた。それを知らずにいつも通りに受付けをして病室へ向かったとき、叔母は病室が変わったことを教えてくれなかった。従妹が見ていたところ、ニヤリと笑っていたらしい。幼稚すぎて笑えた。こういうキャラクターはドラマでしか見たことがなかったけれど、実在することがわかった。

誰も彼も、子供だった。唯一まだ父親が普通に近かった。彼は私が病室にいるときは、遠慮して入ってこなかったのだ。母親は私がいると必ず入ってきた。入ってきては、大きな声で自信たっぷりに祖母の話をしたり、でかい態度で居座った。そういう女だった。

彼女は自信がないのだ。だから入ってくる。不安だから大きな態度をとる。「自分がここに入ってきて当たり前だ」「いいのだ」、それを確認したくて入ってくる。「自分が祖母の面倒をみている」「自分がわかっている」それを見せたくて、見舞いに来た人を差し置いて祖母に話しかけ続ける。

でも私に直接話かけることはできない。無視されるのが怖いのだ。自分がつまらない人間であるということを、自分の娘が自分のことを嫌っているということを、見せつけられたくないのだ。だから従妹に話しかけたり、祖母に話しかけたりしかできない。そしてどちらかが私に話しかけると、とっさにそれをつかんで乗っかってくる。

小さな女だった。悲しい女だった。

でもこのときは、まだそんな風には思えなかった。私の気持ちを認識して「部屋に入ってこない」父親と真逆で、母親は私の前で堂々とふるまうことで、私の気持ちを無視しよう無視しようとしていた。体中が沸騰するかのような怒りで煮えくり返った。手脚や顔が震えてきて止められなかった。

いつもそうだった。私の気持ちをないものとし、私の存在をないものとすることで、母親は自分の自信を保っていた。私を踏みつけていないと、立っていられないのだ。

最後に祖母と会ったときは、すでに部屋に母親がいた。私が毎日来るとわかっていたから、わざとよく部屋に来るようになっていた。従妹だけ入り、私は待合いスペースで待っていた。

母親が電話をしに出て行ったとのことで、すかさず従妹が私を迎えにきた。私が走って病室へ行くと、それを廊下の向こうのほうにいた母親に見られた。母親はなんと、電話を切って必死な顔で小走りに戻ってきた。恐ろしかった。

彼女にとって私が目の前にいるこのときだけが、自己肯定感を埋める唯一のチャンスなのだ。彼女の自己肯定感は、私を踏みつけることでしか埋められない。私は遠く海外で生活をしており、連絡もない。その私がやっと目の前にいる。このまたとないチャンスに、自己肯定感を吸い上げられるだけ吸い上げたいのだ。巨大なヒルのようだった。

だから母親はそこからずっと居座った。彼女が出て行かないと思った私は、しかたがないから帰ることにした。イギリスからわざわざやってきたのに、この頭の悪い女のせいで、私は出て行かなければならないのだ。こいつのせいで、これから何度祖母に会えるかわからない私が、出て行かなければならないのだ。

そんなことはしなくてよかったのだ。でもこのときはそんな風に考えられなかった。

「はるばるやってきた娘に祖母と楽しい時間を過ごさせてやろう」などという気持ちはこの女にはさらさらなかった。私を使って自分の自尊心を満たすことしか、考えていなかった。こんなクソ女を「母親」などとはとても言えなかった。クソはクソらしく、トイレに流してやりたかった。同じ部屋にいるだけで、空気がにごっていた。この女の周りだけ、空気がよどんで黒々としていた。

最後に祖母に「私が誰だかわかる?」とまた聞くと、面倒くさそうに「いい女だよ」と言ってそっぽを向かれた。祖母はこういう人だった。何度も聞くから、面倒になってそんなことを言うのだ。他の人にはこんなことは言わず、ちゃんと名前を答えたり、わからなかったらわからないと言う。私に対してだけは頭がはっきりして昔の祖母に戻り、こういう粋なことを言う。やっぱり来てよかったと思った。

それなのにまた頭の悪い女が、「いい女だよだって!」とかぶせてきた。今ここで聞いた。全員聞こえた。お前がリピートする必要がどこにある。

本当に「死んでくれ」と思った。祖母ではなくて、こいつが死ねばいい。

最後に話したのがこれになるのが嫌で、フライト前日に予定を変えてまた会いに行こうかと思った。でも私の体調が悪く起き上がれなくなってしまって、最終日は休まなければならなくなった。腰もひどくなっていて、緊急で整体に駆け込むことにもなった。

でも、いいのだ。祖母とこれだけいいやり取りができた。これでいいのだ。完璧主義を脱して最終的にそう思えただけでも、このときは進歩だった。