完璧主義

完璧を求め続ける原因

満足できない」でも書いた通り、私は過剰な完璧主義を抱えていた。

この世に完璧など起こるわけがないので、完璧を求めていても絶対に手には入らない。でもいつも完璧を求めているから、一度も安心することがなく、常になにかに追われて不安な状態で生きていた。「不安症の個人セッション準備」でも書いた通り、歯軋りもここから来ていることはわかっていた。

では、なぜこんなことが起こるのか。考えられることは、二つあった。

1)不安感

私の中に巣食う不安感の出どころはもちろんいろいろとあったが、一番の根源だと思われるのが、親に対する不信感だった。親が信頼できない人間だったために、自分が常にアンテナを張って周りで起きるすべてのことを把握し対処していかないと生きていけない、そういう刷り込みができていた。

大人なら、もちろんそれができる。でも小さい子供のころにこれをやらされると、「世界は安心できる場所ではなく、なにかあったら自分は死んでしまうのだ」という、恒常的な恐怖をもたらすのだそうだ。

それはそうだ。だから私は、少しの物音でびくっとなるし、なにか少しでもミスがあったらいけない、生きていけなくなるのかもしれないと、びくびくして生きているのだった。英語ではこれを「Jumpy」と言う。「少しのことですぐ飛び上がる、神経過敏な人」という意味だ。何十年と生きてきて、これが普通ではないのだと初めて知ったのだ。

大きな原因として、思い当たる節があった。

妹が生まれ、歩行器で歩き回っていた時期だから、私が3〜4歳のころだろうか。四人家族で、アパートの二階に住んでいた。階段を上ると、二階の住人の玄関が並んでおり、それぞれの玄関の前に洗濯物が干せるようになっていた。

母親はそこで洗濯物を干しており、私は歩行器に乗った妹と遊んでいた。すると、妹が階段に向かって進み始めた。このまま行けば、階段から転げ落ちてしまう。全力で止めたのだけれど、私は小柄で、妹はとても体格がよかった。必死に踏ん張っても、じりじりと階段が近づいてくる。

「妹ちゃんが落ちちゃう!!助けて!!」と母親に訴えた。なのに、母親は「大丈夫よ」と、こちらを見もせずに洗濯物を干し続ける。私は何度も何度も繰り返し助けを求めた。それでも母親は「大丈夫」と。もう力が続かない。「本当に離しても大丈夫なの?!」と聞くと、「大丈夫って言ってるでしょ!」と怒られた。

信じられなかったけれど、が大丈夫と言っている。私は手を離した。

ダダダダダっと、妹は階段を転げ落ちていった。母親は、悲鳴を上げて階段を駆け下りて行った。

信じられなかった。

親は、大人だ。私が知っているより多くのことを知っている。だから子供の私は「だめだろう」と思ったけれど、大人が大丈夫だと言うのだから、しかもあんなに怒って言うのだから、きっと大丈夫なのだと思ったのだ。

なのに、妹は階段を転げ落ちた。ショックでしばらく口を利くことができなかった。

頭から血を流している妹を泣きながら抱き上げる母親に、「なんで大丈夫って言ったの?」と聞いた。すると母親は、「大丈夫だと思ったの」「そんなことをするはずがないと思ったの」と。

なぜ「大丈夫と思った」のか。赤ちゃんなのだから階段もなにもわからず行ってしまうのは当たり前。「そんなことをするはずがない」なんてどうして思えるのか。私にだってわかる。あんなに必死で助けを求めたのに。あんな状況だったのに。見もしなかった。なのにあんな怒った調子で「大丈夫!」なんて。なぜそんなことが言えたのか。まったくわからなかった。なぜ。なぜ。やっぱり私の思ったことが正しかった。なぜこの人は私の言っていることを聞かなかったのか。階段から落ちたら大変なのに。そんなことは私でもわかるのに。

表しようのない黒ずんだ世界の終わりのような恐怖や疑問がぐるぐると渦を巻いて、その中に完全に溺れてしまった。目の前の母親が、まったく知らない人のように感じた。

頑丈だった妹は、奇跡的にもおでこに傷を残しただけで済んだ。歩行器ごと落ちたのに、どこも折らず、障害も残らなかった。体重の軽い赤ちゃんだから、大きな大人が落ちるよりは軽く済んだのかもしれない。それでも本当に奇跡だった。

ここで私は、「親の言うことは信じてはいけない」「親に頼ってはいけない」と学習してしまったのだ。なぜなら、もし親を信じて頼ったら、今度は妹ではなく自分が階段から転げ落ちるかもしれないのだ。死ぬかもしれないのだ。自分の身は自分で守らなければならなかった。

カウンセラーいわく、小さな子供にとって親を信じ頼ることができない状況というのは、大人になるにつれ身につけていかなければならない安心感を根こそぎ奪われ、危機的な不安感を根深く植えつけられてしまうとのことだった。心身ともにこんなに小さいのに、頼れる人は誰もいない。自分が神経を張り巡らせていないと、死んでしまうかもしれない。自分の命は自分にかかっている。それがどれだけの恐怖であるか。サバンナで生まれたばかりの動物が親をなくしたのと同じ状態だ。

普通は親から安心感を得て、「心の安全基地」を自分の中に確立し、外に出ても安心感を持って生きていけるようになる。私はそれができなかったのだ。だから、本来ならもう大人で自分で生きていけるようになっているべきなのにもかかわらず、安心感を持てずに、潜在的な不安の中で日々を過ごしていた。安心感を、人や仕事、結婚してからは夫の中に見い出していて、だから仕事がないと不安でいられず、また夫から存在を無視されたと感じると生きていられなかったのだ。

きっと他にも、親を信頼できないことは山ほどあっただろう。こうして潜在的な不安の中で人生を歩んでいくことになったのだ。

2)不完全

カウンセラーはまた、潜在的に「自分は不完全だ」と思っていると、いつも完全を求めてしまうことになるとも言っていた。

これは「女性性と男性性」のところでも書いたけれど、私は小さいころから様々な大人に性的被害を受けてきた。その辺で出会った人から、医療従事者まで。本当にどうしようもない人たちばかりだった。一番ひどかったものは、事件にもなった。警察にも行ったし、家に新聞記者が二回も来て記事にもなった。

でも親はいつも、まったく気づいていなかった。小さな子供が夜遅く帰ってきたり、応答がうやむやで明らかに私の様子がおかしいのに、なにもわからない人たちだった。目の前でそれが行われていても、親はなんの役にも立たない。ここでも、自分がどうにかしなければという気持ちで、自分から話をした。そしてやっと警察沙汰になったのだ。

記者が家に来たときのことは、今だにはっきりと覚えている。部屋の真ん中に一人で座らされて、立ったままの記者の質問に答えさせられた。親は離れてこちらを見ていた。翌日病院に行ったとき、医者はカウンセリングのようなものを勧めたのだけれど、親は「早く忘れることが一番」と、なるべくこの事件に触れないことで解決しようとした。

そしてその通り解決できたと思っている。なぜなら、十代、二十代と成長する中で何度かふいにその話になったとき、私が覚えていないフリをしたら、まるきりそれを信じたからだ。恐ろしいほどに頭が悪かった。小さい子供がこんな馬鹿を頼って生きていけるはずがない。

当時の世の中と、学のない母親からすれば、カウンセリングの重要性も知識もまったくなかったのはしかたがない。ただ、子供のほうに「早く忘れなければいけない」「わからないフリをしていなければならない」と気を使わせておいて、それにすら気づけない大人が恐ろしかった。この人たちはいったい。本当に自分より人生経験のある人間なのだろうか。怖い思いをした子供に、記者にインタビューさせる無神経さも。それを遠くから見ているだけという愛情のなさも。

カウンセラーいわく、こういう被害にたびたびあうと、子供は「自分に非があるのかもしれない」と思うようになると。「女性性と男性性」のところで書いたように、「自分が女だからこういう目に遭うのだ」と思い込んでしまっていた。

だから「女」である自分が「不完全だ」と思い込んでいた。このままでいてはいけない、完全にならなければ、そういう思いがあったのだ。

このときまだ頭で理解しているだけでしっくりはきていなかったけれど、「このままではだめだ」という焦燥感というか、強迫観念のようなものはすごく理解できた。またこの不完全さというのは、自分に愛情をかけられない問題にもつながってくる。

ということで、常々カウンセラーが「親に怒られると思って」私がなんでも完璧にしているのだろうと言うたびに、私は「それはなにか違う」と感じていた。多くの人は心の中に「親の幻想」を住まわせてしまうことによって、親元から離れても常に自分にだめ出しを続け、それが生きづらい原因になっている。

私の場合はそれもあったかもしれないけれど、親に対してはむしろ「親の嫌がることをしたい」という方向にあった。だから私の完璧主義は親とは直接関係のないところ、つまり「自分の生死がかかっている」からすべてを完璧に整えておきたいということだったのだ。

私はごくごく小さいころから「親が言うこと」と「自分が感じること」には大きな乖離があると思っていた。「親がおかしいと気づいたとき」にも書いたトイレの話など、まさにそうだ。だから「親が事実を認識しておらず信用できない」から自分がすべてを把握していなければならないと動いていたのであって、「親に怒られること」が怖かったのではなかった。また「自分が不完全だから」、完璧を求めていたのであった。

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愛情がわからない

このころ「チャクラについて」で書いた第四のハートチャクラについて、カウンセラーが話してくれた。

ヨガの師匠のカウンセリング」を始めたころから、「あなたは胸がまったく上下していない」と言われていた。自分の存在を隠そうとしているようだ、とも。人間は常に呼吸をしているから、胸部や肩が上下している。していないということは、忍者のように「忍んでいる」状態だ。「ここに自分が存在していていいのだ」と思えていない、「ここの空気を吸う権利が自分にはない」と潜在的に思ってしまっているのではないかと言われた。

確かに私は、駅や町などで人からよくぶつかられたり、カバンをぶつけられる。自動ドアが反応しなかったこともある。嫌になって、足を踏み鳴らしながら歩いたこともある。それでもぶつかられて憤る。フィットネスのクラスでみんながハアハアと息を切らしているのに、無意識に呼吸を抑えていたりする。気づけば呼吸が浅く無音になっている。

胸は、ハートチャクラに当たる。物理的に「忍んでいる」ということは、精神的にも「忍んでいる」ということだ。自分の感情や気持ちを「忍んでいる」、押し殺しているのだ。無意識に自分という存在を否定しているようだった。

カウンセラーいわく、愛情を受けて育ってない人は、愛情がわからないから、人が自分にかける愛情もわからないし、自分も人に愛情を注げない。なにより、自分で自分に愛情をかけられないとのことだった。

私は典型的にこれだった。

夫に対する愛情もわからなかった。夫とは好きで結婚した感じがまったくなく、単に自分の面倒を私と一緒にみてくれる人がいて、その父親のような兄のような人と一緒にいるだけだった。実家で得られなかったものを、ここで得ようとしていたのにもかかわらず、実家の家族の延長をやっていた。実態のない空っぽな実家を離れたのに、けっきょくまた実態のない結婚をしていた。人は自分が育った家族しか「家族」というものを知らないから、当然なのだとカウンセラーに言われた。

好きだと思っていた食べものも単に「高くて珍しいから」食べていたものもあったり、好きだと思っていた身の回りのものが本当はそうでもなかったり、仲が良いと思っていた友人も実はただ「仲良くしなければいけない」と思いこんでいただけだったり、やらなければいけないと思っていた仕事が単なる思い込みだったりすることに、この数年でいくつも気づき始めていた。

そんな人生だったから、ただただ「死ぬまでの時間をどうやり過ごすか」だけになってしまっていた。当然だ。そんなことも知らなかったのだ。実態のある人生を、「Authenticに生きる」ということを身につけていかなければ、人は死んでしまうのだと知った。

夫の自分に対する愛情も、わからなかった。なにか面倒をかけることがあると追い出されるような感じがして、ものすごく不安になった。夫ばかり会社勤めをしていると、罪悪感に覆われた。せめてやっている家事も、料理を床にぶちまけてしまいそれを夫が片づけてくれたりすると、見捨てられるのではないかと不安になった。

なのにいざ夫が家にいて自分が働くことになると、「家を維持しているのは自分だ」ということにものすごく安心して態度が大きくなった。誰が稼いでいようが、どれだけ面倒をかけようが、本来なら関係ないはずだ。

愛情というのは、「依存」ではない状態において、相手や自分を受け入れているという感じなのだろうと思った。このときの私は、「相手がこれをやってくれたから」「自分がこれをやってあげたから」と、そういう条件がついた視点でしか考えられてないことに気づいた。そういうことではないのだ。

それがつまり、自分に愛情をかけられていないことからくる現象なのだと思った。

「自分がなにをやってもどんなでも受け入れる」ということができていなかった。自分がミスをすると、許せない。許せないから、他人のせいにしたり、環境のせいにしたりする方向にいってしまう人もいる。私の場合は、自分のミスは自分のせい、人のミスでも自分のせいに感じて自分を責めていた。

人の感情を受け取りすぎてしまうのも同じだとカウンセラーに言われた。このころ旦那さんを亡くした友人がいたのだけれど、その人の気持ちを受け取りすぎてしまっていて、自分まで鬱っぽくなっていた。夫には「俺が死ぬ話ばかりするな!」と怒られた。その人の悲しみを自分がどうにかしなければいけないと感じており、「夫がいなくなったらどうしよう」「生きていけない」と、自分のことのように受け取ってしまっていた。

これは一見とても思いやりのあるいい人のように見えるけれど、「人と人との境界線」がないということなのだ。親の感情を自分のせいにされて育つと、こうなるのだと。「アダルト・チルドレン癒しのワークブック」にも「人の悲しみは、どんなにつらいものでも、その人の人生の大切な一部」なのだと書いてあった。だからそれを取り上げてはいけないと。感情の境界線を持って、人と健康的な思いやりでつながることを学ばなければならない。

「人のミス」と「自分のミス」の混同も問題だった。なにをやっても相手が満足しないときに、「なにか変だ」と気づくことが大事だと。「完璧ではない」とか、「やりかたが悪い」や「足りないところがある」と文句を言われ、それでもっと努力をしてもまた別の文句を言われる場合。そういう人はなにをやっても満足しないということ。

こういう人を親に持って育つと、「自分はいくらやってもだめな人間だ」と思いこんでしまう。私の場合も、とにかくそうやって文句を言われることがないようにと必死にだった。最初からすべて完璧にして相手の口を封じなければと思って、不安な気持ちを常に抱えながら「完璧」だけを目指すようになってしまっていた。

確かにそれで親が満足したことはなかった。必ずなにか言われる。まさに「予期すらしていなかった大災害」で書いた通りだった。

でもそれは「自分のミス」ではないのだ。相手に問題があるのだ。

相手がなにを言ってこようと「自分のできる範囲で努力した」ことを自分に認め、「あれもできた」「これもできた」と認め、それ以上動き回らないこと。世の中には完璧なものなど存在しない。純金だってほんの数%はかならず金以外のものが混じっているのだ。そのときそのときでできることをやればいいし、実際はまったくできなくてもいい。

満足できない」で書いた美術の試験では、98点で学年一位をとった。それでも母親から「満点ではない」と文句を言われた。親がいなくては生きていけなかった子供のころなら、親の言うことに従い順ずることがこの世で生き残る道だったかもしれないが、今なら98点がよかったのか悪かったのかを自分で決められる。今後どうするかも自分で決められる。

このことに、体全体で気づくことが必要だった。

たぶん、愛情を知るプロセスというのは、

①自分に愛情をかけられるようになる
②人に愛情をかけられるようになる

の順番になるのだろうと思った。

なんだかもうすべてが実体のないフェイクな人生で、このときのカウンセリングでは久しぶりに絶望して泣きまくった。それでもこの数年で、「Authenticに生きる」ことを自分に許し始めているのを感じていた。最初はスローではあるけれど、始まるとぐわーっと右肩上がりになるとカウンセラーも言っていたので、毎日の身の回りのことから取り組んでみようと思った。

よくできた従妹

この帰国で、従妹には本当にお世話になった。

彼女は彼女で、実の母親である私の叔母と絶縁している。一族のこともよくわかっているし、日本にいるから祖母のことなども私に教えてくれる。一族の中で唯一私の他に海外に住んだこともある人で、いろいろな話ができた。「化粧水」でも書いたように、イギリスに遊びに来てくれたこともあった。

彼女は学校で働く素晴らしい先生で、子供のことをよく見て小さなことにでも気づける人だった。すごくしっかりしていて、生徒の父母にもとても頼りにされていた。あまりわけのわかっていない私とは違い、人をよく観察している人で、一緒にいるとすごく勉強になった。

前回夫と日本に行ったときは、最後に空港まで見送りに来てくれた。従妹と別れたあと、急にさみしくなってが出てきた。実家でさんざんな目にあって、彼女がいてくれて本当によかったと思った。このときもまた空港まで来てくれたのだけれど、彼女のありがたみを感じながらずっと一緒にいたから、ぎりぎり泣かずには済んだ。

出発ゲートの前で、「じゃあこれお餞別」と言ってぽいっとくれたものを見て、言葉を失った。いろいろなことが心にしみて、打ちのめされそうになった。

私はこの帰国の中で、日本の化粧品をいくつか買っていた。イギリスでも化粧品は買えるけれど、日本のもののほうがやはり日本人の顔に合う色になっている。その中でチークも買ったのだけれど、このときは円が高かったので、別売りのケースは買わずに中身だけ買うことにした。従妹はそのケースを買っておいて、最後に渡してくれたのだった。

人づき合いって、人を思うって、こういうことなのだなと思った。

従妹よりもいくつも年上なのに、そういうのがまったくなかった自分。いろんな場面で、どうしたらいいかわからなかった自分。だから人づきあいが面倒で、なかなか濃いつき合いができなかった。

考えてみたら、がそうだった。人にあげるものは、人がなにをもらったら喜ぶかではなく、自分がなにをあげたいかであったり、自分の手持ちでどうにかしようとしたりしていた。逆にわけのわからないところで変な気を使って、相手を引かせることもあった。私はそれを見てずっと育った。なにが正しくて、どういうときにどうしたらいいのかということが、まったくわからなくなっていた。

以前の帰国時の「予期すらしていなかった大災害」のように、私が24時間起きっぱなしで疲れ果てているかどうかではなく、自分が「お節を食わせてやりたい」と思って行動することしかできない。「夕食の時間に食べずにお前を待っていたんだよ」と恩着せがましいことを言い、私がありがたくお節を食べることを期待する。

相手がどう感じるかは関係なく、自分がやりたいことをやってしまう。

そして私はそれに対してありがたがり、感謝しなければならないという考えを植えつけられていた。本当にありがたいと思うことがなくても、ありがたいと思われるシチュエーションを作られたら感謝を口にすることを身につけさせられていた。バーチャルだ。

従妹のこのお餞別をもらって、本当のプレゼントとは、本当の人付き合いとは、ということを教えられた気分だった。

でもこのときはまったく気づいていなかったのだけれど、のちのちこれがおかしな方向へ行っているとわかることになる。従妹と何年も何年も毎日のようにメールをし、話し合い、助け合ってきた私だったけれど、そのときまでまったくもってなにもわかっていなかった。なにも見えていなかった。気づかなかった。

従妹は、私の毒母の妹の娘だ。私が絶縁した毒叔母の娘だ。

そんな彼女が無事であるわけがなかった。でもそれに気づくにはまだまだ時間が必要だった。

父方の祖母に会いに行ったあと、二人で近くの温泉旅館に泊まった。ちょうど雨が雪になり、露天風呂は最高だった。久しぶりの会席料理も、本当においしかった。さぬきうどんやとんこつラーメン、便利なものがもりだくさんのドラッグストアに、スーパーのお惣菜。そんな思い出を胸に、このときは帰路についた。

このとき初めて羽田便を利用した。今までは成田便しか利用したことがなく、成田まで飛行機で12時間、そこから電車で90分という長旅に、毎回疲れ果てていた。羽田も確かに飛行機は12時間だけれど、そこからバスで30分で渋谷に出れた。びっくりした。ものすごい便利だと思った。

イギリスの自宅から空港までもバスで45分、そこからすぐフライト、そして着いてからもまたすぐバスで都心へ出れる。日本がぐっと近づいたように感じた。羽田発が朝の4時で大変だけれど、近くの温泉で休憩とシャトルバスがついたセットがあり、非常に便利だった。これなら前よりずっと大変な思いをすることなく日本へ行ける。そう思った。

でもこれを最後に、日本へは行っていない。ここで私の日本への共依存は終わったのだと思う。