自分を許せない

人が言うことを信用できない」に続いて、自分に対しても問題を抱えていた。

カーシェアリングの車で旅行に出かけたときのこと。帰ってきて元の駐車場に止め、荷物を下ろし、帰宅。荷物をほどいてシャワーを浴びたりし、寝る前にアラームをセットしようとして、携帯がないことに気づいた。家の中を見てみるも、ない。

車に忘れたんだ!!!となり、パニックに。降りる前に一度見た。でもそこでいろいろやっていて、そのときどこかに置いてきたような気もする。それでそのまま持って出なかったのではないだろうか。

サーっと血の気が引く。

夫と携帯でロケーションシェアをしていたので、それで私の携帯がどこにあるか見てもらった。ばっちり駐車場にあることが表示されたので、すぐに取りに行って確保し、事なきを得た。

なのに、気持ちがまったく晴れていかない

駐車場にあることがわかったときに、夫はもうほっとしていた。なのに私は、本当に駐車場にあるのかこの目で見るまでまったく落ち着かなかった。さらには確保したあとでも、まだズドーンと落ち込んでいたのだ。

そんな馬鹿なことをした自分が許せなかった。一人で行くこともできず、夫に「申し訳ないけれど一緒に行ってもらってもいい?」と謝って一緒に来てもらった。夫ももうパジャマだったのに、自分もシャワー浴びたあとなのに、また着替えて出なくてはならないのが凹むし、本当に馬鹿なことをしたと許せなかった。

カウンセリングでこの話をしたところ、この「携帯の場所がわかってもまだ落ち込んでいた」というところが引っかかると言われた。夫いわく、ロケーションを調べたときに、それが道をどんどん遠ざかって動いていたら心配しただろうけれど、じっと動かずに駐車場を指していたから大丈夫だと思ったと。

でも私はそれでも心配で、早く取りに行かないとと思っていたし、確保できてからも落ちていた。これは確かにおかしい

私が心配していたのは、たぶん以下の4つになる。

1.携帯を、どこかわからないところに置いてきてしまったのかもしれない
(なんとなく車に置き忘れたことは覚えていたにもかかわらず)

2.もしかしたら、誰かがもう拾ってしまったのかもしれない
(駐車場を指してるけど、駐車場にいる誰かの手の中にあるのかもしれない)

3.車を開けたら、レンタル時間を延長されるのかもしれない
(あとで連絡を入れて事情を説明するということもできるはずだけど)

4.もう寝るところだったのに、着替えて出なきゃいけないなんて申し訳ない
(徒歩2分の駐車場に行くだけだけど)

4つとも、こうして書き出してみれば、別に心配する必要などどこにもないことだった。1や2のように現実的ではない心配をしたり、3のようにあとから補完できそうなことを心配したり、4のようにそんなに大ごとでもないことを申し訳なく思ったり。確かに自分でこう書き出してみても、必要のない心配だということは理解できた。

カウンセラーは、「では携帯をなくしたらどうなると思う?」と聞いてきた。情報を盗まれるとか、また買わなければならないとか、セッティングをしなければいけないなどと答えてみたけれど、どれも別に死ぬようなことではなかった。そう、死ぬようなことではなかったのだ。

そういうことを生死がかかっているがごとく心配してしまうのは、やはり安心感がないからなのだと思った。けっきょくのところ、「人が言うことを信用できない」と同じ原因だ。

普段でもそうだった。豆腐を落として床にぶちまけたり、胡椒の蓋がとれて調理中のフライパンに全胡椒をぶちまけたりすると、自分が終わったようにショックで動けなくなる。「大丈夫だよ」「掃除すればいいんだよ」と夫に言われても、立ち直れない。掃除しても豆腐を買い直してもショックが消えないということは、片付けるのが大変とか物理的な要因がショックになっているわけではない。そんなことをしてしまった自分にショックを受けているのだ。

カウンセラーが言うには、「子供の自分と大人の自分」でやったように、「大人の自分」はこんなことをしても大丈夫だということが頭でわかっているのだけれど、子供のころと同じ状況に出くわすと、私の中にいる「子供の自分」が出てきてしまって、自動的に当時の絶望的な気持ちになってしまうのだということだった。

これにはまず、今の自分はもう大人であり、どんな状況でも自分で対処できるから、不安に思うことなどないのだと認識するところからとのこと。「掃除をすれば大丈夫」「また作り直せば大丈夫」「この世の終わりではない」と。

私がパニックになってしまうのは、

「なにか大変なことが起こった」という昔に見知った状況に陥る
    ↓
自分の中にいる当時の「子供の自分」が出てきてしまう
    ↓
「子供の自分」は状況に対応できない
    ↓
パニックに陥る

というメカニズムだった。

今はもう大人であり、携帯をなくしたくらいで死ぬことはない。プロバイダに連絡を入れて、使えなくしてもらえばいい。出費は痛いけれど、新しいのを買えばいい。大人なのだから、なんでもできる。この世の終わりではないのだ。子供のころはなにもできなかったことだけれど、今はもう子供ではない。そう理解できれば、パニックになることもない。

カウンセラーいわく、不安な気持ちが出てきたときには、

①まずは、不安な気持ちが出てきていることに気づく
②この気持ちはなんなのか、不安なのか、怒りなのか、落ち込みなのか
③どうしてそう感じているのか

これを観察してみるといいと教えてくれた。私の場合はたぶん、行き着く先はどれも「安心感を持てない」になるのだろうけれど、それを認識することが重要だった。最初は気づくまでに時間がかかるだろうけれど、何回かやっているとすぐ理解できてきて不安感が払拭されるようになってくると。それでも払拭できなかったときの対処法も、合わせて教えてもらった。

こういうことがあってから、夫は私のこういう特性を学んで、私がこういうミスをするたびに「大丈夫」「片付ければ大丈夫」とことさら言い聞かせてくれるようになっていった。この問題に関して夫は自分のトラウマを刺激されることはなかったので、積極的にサポートしてくれた。もちろんトラウマが刺激される問題については、そんな簡単にはいかない。でもできるところからやってもらうのは、本当に助かった。

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自分たちで解決できるようになってきた

このころカウンセリングの中でも笑いが出るようになってきていた。カウンセリングの場だけではなく、自分たちの間でも話をして解決できることも多くなってきていた。進歩を実感するようになってきていた。

レンタカーでキャンプに行った帰り道。暗い中を高速で走っていて、だんだんと怖くなってきた。目もおかしいし、集中していられない。運転手が「怖い」などと言い出したらパニックになるかもしれないと思って最初は頑張っていたのだけれど、突如として恐怖感が増大し、ついに助けを求めるように「目がおかしい」「怖い」と口にした。

ところが、助手席の夫は「うん」。お前!!!

運転手が「怖い」と言っているのに、「うん」のひと言で放置できる夫が信じられなかった。

パニックになりながらギリギリの状態で運転し、言葉をつまらせながら文句を言うと、夫はだんだんと頭が回ってきたように「大丈夫?」「もうすぐサービスエリアがあるよ」と気をつかってきた。そのサービスエリアまで踏ん張り、やっとの思いで車を止めたところで、一気に力が抜けてハンドルに突っ伏した。落ち着いてから、なぜ「うん」で済ませたのか聞き出した。

話をまとめてみると、夫は、私が日本語でい言った「Kowai(怖い)」を「It’s scary(暗い中の運転は怖い=辺りの様子が怖い)」だと思ったらしい。だから「うん(そうだね)」と返したとのこと。

ところが私の言った「怖い」は、英語にすると「I’m scared(怖いわ=恐怖を感じている)」だ。

人といるとなぜ疲れてしまうのか」のところでも書いたように、日本語には主語を省略する習慣があり、なんのことを言っているのか明確でないことがある。この場合でも、主語が「It’s」か「I’m」かによって、「怖い」の訳が「Scary」か「Scared」かが決まってくる。

It’s scary.(それ怖いな)
I’m scared.(なんだか怖いわ)

このときは主語がなかったから、夫は前者のほうだと思ったらしい。というよりも、このとき初めて知ったことだけれど、夫は「Kowai」を「It’s scary」の用法でしか知らなかったようだ。日本人がよく言う「こわーい!」のほう、つまり「ものの様子が怖い、あり得ない」という意味でしか知らなかったのだ。

夫は、もし私が「I’m scared」と言ったらちゃんと心配をしたと言った。それはどうかわからないと思ったけれど、ここに行き違いがあったことは確実だった。

きちんと話をしなかったら、「夫は私の気持ちを無視する」と思い込んだままで、単なる言葉の行き違いだったということに気づかなかっただろう。カウンセリングの中でいくつも「思い込み」を発見し、それによって自分たちの中に「思い込みがある可能性」を学習していた。そのおかげで、怒りで相手を責めまくるのではなく、怒りを感じながらも念のため「相手がなぜそういう言動に出るのか確かめてみる」ようになってきたのだ。

また、二人で映画を見に行ったときのこと。木曜日だったし、夫が仕事で疲れていることはわかっていたので、ゆっくりはせずん、映画のあとにとりあえず一杯だけ飲むことにした。

一杯飲んだところで、「疲れたし、明日も仕事だから帰ろう」と言われた。これが頭にきた

なぜ頭にきたかはあとで書くけれど、それまでだったらムカついて口をきかなくなっていた。そして夫はそんな私に対して「なんでだよ」となっていただろう。すぐ喧嘩に発展していただろう。

でもこのときは「その言いかたが嫌だ」と伝えた。これも当時の私にとってはものすごい進歩だった。これが伝えられれば、解決策を探る話につながっていくからだ。

最初にも書いたけれど、私も夫の「帰りたい」という気持ちはわかっていたのだ。映画が終わり、帰る前に少しゆっくりしようとなっただけで、長居するつもりなどなかった。なのに、私が長居したがっているように思われていたことが、ムカついたのだ。「お前はわかってないけれど、俺は仕事をしてきて疲れてるんだよ」というように言われたことが、頭にきたのだ。

そう説明したら、ならばなんと言えばいいのだという話になった。

「I’m tired(疲れたよ)」「I have work tomorrow(明日も仕事だ)」などと夫に言われたら、私が仕事のある夫を気づかっていないように聞こえるし、夫が自分のことばかり考えているようにも聞こえる。嫌だ。

それならば、「Shall we go home soon?(そろそろ帰ろうか?)」など、主語を「We(私たち)」にして話したらどうかと。「I’m tired」や「I have work tomorrow」では、確かに主語がすべて「I(俺)」になっている。私が「自分のことばかりだ」と感じてしまってもしかたがない。「We」にすることで、それがなくなる。

今の私たちだったら普通にこれができているけれど、このときは本当に素晴らしい進歩だった。無意味な喧嘩に発展せず、自分たちで話し合って解決したのだ。

この話をカウンセリングで報告すると、さらなる解決方法を教えてもらえた。

1)私は、夫が疲れていて、今日はそんなに長居できないことを理解している。でもそれをまったく理解していないように夫から言われて、頭にくる。私はきちんとわかっているし、夫に対する思いやりもある。それなのに「お前はわかっていないだろう」と根拠のない批判をされるからだ。これは親からされてきたことと同じであり、そのトラウマがトリガーになって、特に頭にこなくてもいいところでムカついているという現象がある。

2)また、今日はそんなに長居できないことがわかっていても、夫から切り上げの言葉を言われると、頭にくる。自分の気持ちを無視して相手の都合と気分に合わせなければならない、相手が自分をコントロールしているように感じる、そういう場面が耐えられない。これも親からされてきたことと同じで、このトラウマがトリガーとなり、似たような場面に陥ると必要もないのに怒りがわく。

では、どうしたらいいか。

2)の解決策として、自分から状況をコントロールしにいくという手法がある。長居できないことが最初からわかっているならば、「今日はそんなに長居できないよね、じゃあ1時間くらいどこかで飲んでいこうか」と、最初から口にしてしまえばいい。そうすれば「もう時間だよ」と相手から言われたとしても、「自分から1時間と言った」という事実があるから、相手からコントロールされているとは感じにくい、と。

これを聞いたとき、カウンセラーというのは本当にすごいと思った。もちろん専門家なのだということはわかっているけれど、こんなこと自分では思いつきもしなかった。

1)の場合、先の長い話だけれど、解毒に取り組みこのトラウマがだんだんと解決されてくれば、同じような場面に出くわしても頭にこなくなる。それまでは今回二人で話し合ったように、夫が言いかたを工夫してもいい。夫はもちろん工夫しなくてはならないところもたくさんあるので、その一環としてやってもらうことにした。

夫の場合、そろそろ帰りたいと思っていてもなかなか言い出せないというところがある。そしてそのまま過ごし、もうだめだという最後の最後になってやっと言い出すから、このときのように不適切な言いかたをしてしまう。

これは「大騒動から見えてきたこと」で書いた通り、気持ちや問題を無視した見かけだけのハッピーファミリーで育ったことが原因だ。みんなが自分の気持ちやネガティブなことを出さず、その場をハッピーに取り繕うことをよしとしてきた結果、今でも自分の気持ちを出すことがなかなかできない。そうすることがはばかられているように感じていている。そしてようやく自分の気持ちを出したときには、こんな言いかたになってしまう。

まずは自分が気持ちを出さないでいる傾向にあるということを認識し、そのおかげでどんな弊害があるか、どういうメカニズムで問題が起こるか認識する。そしてそれを変えられるところから変えていく。並行して、トラウマの解消も行う。

あともう一つ、夫には人の話を奪ってしまう問題もあった。

たとえば、覚えているところではこんなことがあった。

私「この世界って、本当は三次元じゃなくて四次元だったって知ってる?」
夫「四次元ってなんだか知ってる?」」

私が話し始めたのに、夫は私がなにを言いたいのかよりも、「四次元」という単語から自分の言いたいことが出てきてしまって、勝手に自分の話を始めてしまう。まるで子供だ。

それまでの私はこういうとき、夫が話したいことを話させてやって、フラストレーションをコツコツとためこんでいた。でもそれにはまったく気づいていなかった。なんとなく不公平感を感じていたけれど、それがどこから来ているのかわかっていなかったのだ。今考えてみると、本当に衝撃だ。

でもこのころ、自分がフラストレーションを感じていることに気づき、それがどこから来ているのかわかるようになっていた。夫が話を奪うと「私が話し始めたのに!」と文句を言えるようになった。これも最初のころは、奪われてしばらくふんふんと話を聞いてしまってからだったけれど、だんだんすぐ気づくようになっていった。奪われてすぐに認識し、「今は私の話!」と言いたいことを話し続けられるようにまでなった。

夫のこの問題にもいろいろな原因があることがのちのちわかってくるのだけれど、とりあえずはこのころフラストレーションをためずにその場でストップをかけられるようになってきた。これもまた大きな進歩だった。

まだまだいろいろあったけれど、少なくともこのようにその場で自分たちで話し合って解決策を考えるようになったことは、ものすごく大きな変化だった。解決できずにカウンセリングにもっていくこともまだあったけれど、それでも双方が「話して解決しよう」と思うこと、これがすごく大事だった。カウンセリングで話して解決してきた経験をつめたことで、「また話してみればなにかわかるかもしれない」という考えが自然と出るようになったのだ。

少しが見えてきた。やっとだった。

自分の気持ちを言っていい

時系列で書いているカウンセリングの記事(三年前の話)とは別の、「カテゴリー99 現在の状況」です。


うちにはフェイスタオルが二種類あって、一つは私が外出時に持ち歩く見た目のいいもの、もう一つは夫が顔を拭いたりするときに使うシンプルなもの、になっている。先日「TK MAXX」という激安店でOrla Kielyのかわいいタオルが売っていたので購入し、「これは私が使う用ね」としまっておいた。

数日後の夜、その新しいタオルが無残にも使われてくしゃくしゃになり、洗濯かごの中に入っているのを見た。まだ買ったばかりで、使っていない新品のタオル。Orla Kielyのタオル。頭にきた。

なぜこれを使ったのか、古いタオルを使わなかったのか、夫を問い詰めた。同時に、夫が手に取りやすいように古いタオルを上にして置いておかなかった自分にも腹が立った。でも、まさか使われるとは思わなかったのだ。それくらいわかっているだろうと思っていた。

私も最初は、なぜ自分がこんなにも腹が立つのかわかっていなかった。夫が謝るのに、気持ちが緩んでいかない。逆にどんどん悪化していく。「古い硬いタオルじゃ嫌だったんだ、新しい柔らかいタオルを使いたかった」「ごめんね、本当に馬鹿だった」と言い、洗うからと言って、洗面所で石鹸で洗って物干しに干してくれた。それでも気持ちがおさまらない。

そこでやっと、「これはどいういうことだろう」と考え始められるようになった。自分の中でなにが起こっているか、現状把握だ。私の地雷は「わかってもらえていない」と感じること。このころすっかり忘れていたけれど、これもカウンセリングでやった。

私に必要なのは「謝罪」ではなく、「理解」。

謝られると、「それをなかったことにしようとしている」と感じてしまう。使ってしまったタオルを洗ってほしいわけではなかった。そうして夫にバツを与えるようなことでは、気持ちは落ち着いていかない。洗ってしまうことでなおさら、「なかったこと」にされようとしていると感じてしまう。

こういうとき夫の古い癖では、「わかっていたのに馬鹿なことをした」と自分を下げ、私を上げて、どうにかおさめようとしてくる。たぶんこれも子供のころに身につけたサバイバルテクニックなのだろう。だが、私にとってそれは逆効果になる。私は自分を上げてもらって優越感を感じ、落ち着くタイプではない。私にしてみると、そうやってご機嫌をとって、理解せず、うやむやにしようとしていると感じてしまうのだ。

もう最近では私がこう説明しようとすれば理解を始めるようになった夫も、夜遅く疲れていたのもあって、昔のように逆ギレしてきた。私の方を見ず、どこか一点を見つめて、「俺は悪くない!」「こんなタオル一枚使ったくらいで責められるのはおかしい!」「疲れて帰ってきてタオル一枚でこんな目にあって!」「こんなことは間違っている!」と怒涛のように自分に向かって言い聞かせ始めた。「あんこ事件、その3」でも出た、「Defensiveモード」の発動だ。

こんなとき以前の私だったら、きちんと理解してくれるまで寝ることができなかった。傷つきながらも、理解してくれるまで何時間もかけて夫のポイントを崩し続けた。その話の中でふと夫が気づくときがやってきて、それでまとまってやっと寝れるというのが、カウンセリング後一年ほどのパターンだった。

けれど、このときは違っていた。きちんと理解してほしいとは思ったけれど、寝ることができたのだ。

理由には、二つある。一つは、私の人生に夫以外のものが増えていたことだ。夫だけが私の人生ではなくなっていた。夫だけが頼りではなくなっていた。私にはいろいろとやり始めたことがあって、自分の人生が増えてきていた。夫は「その中の一つ」となっていて、そこが崩れても大丈夫になっていたのだ。

自分がないということ」の花の図の通りでもあった。以前は自分がなかったから、夫や仕事、友人、自分が人の役に立つこと、人から有益だと思われることなどで補い、自分を支えていた。でも自分の核が育ってきたから、花びらが崩れたり欠けたりしても、また花びらをつけていけるようになったのだ。

もう一つは、「夫は疲れてわけがわからなくなっている、普通のときに話せば理解できる」という自信がついていたことだ。今まで何度もこれをやってきた。その度に、夫は理解してきたではないかと。このころにはもう日常的に起こる少しのことでは喧嘩にもならず、その場で解説して終わりということばかりになってきていた。

あんこ事件、その3」のときはまだ不安でしかたがなく、解決に一週間を要したけれど(もっと昔は一か月かかったこともある)、今回はあんなにもならないと感じていた。本当にただ疲れているだけで、普通のときにほんのちょっと説明すればわかるだろうと感じていたのだ。

翌日の朝、夫はなにも言わずに家を出た。私も見送りをしなかった。以前の私だったら、それがもう不安で不安でしかたがなかったけれど、今回はまったく平気だった。まったく普通に一日を過ごした。これは本当にすごい進歩だと思った。以前、一番ひどいときは「あの世とこの世の狭間」で書いた通りだ。これはもう別人だ。

夫が帰宅してきて、荷物を置くとすぐに私に話しかけてきた。ここで少しでも躊躇し先延ばしにするとよけい苦しくなっていくと、夫も学習している。私も、夫が話しかけてきたら逃げずにきちんと聞いてやることで、また次のときに夫が話しかけやすくなると学習している。

夫はすぐに謝った。「疲れていて、暗い中で自分のタオルを探す手間を省いてしまったのだ」と。「わかっていたけど使ってしまった」「疲れていたから正直に謝れなかった」と。

やっと「謝った」と感じた。

柔らかいタオルがいいだのということは、言いわけだ。自分がしたことに対して謝っていない。わかっていたけれどやってしまった、それはなぜか。そこをまったく説明していない。

硬いタオルがどうのではない、わかっていたのに馬鹿なことをしたのではない。「疲れていた」のだ。だから一番上にあったタオルを取って済ませてしまった。自分のタオルを探すべきだということはわかっていたけれど、しなかった。疲れていたからだ。

「疲れていたから使っちゃった、ごめん」と言われれば、「しょうがない」で済むではないか。それだけのことが言えなかったために、こんな喧嘩になってしまったのだ。

でも夫は、そんな「自分の勝手な都合」が考慮されると思っていない。自分の都合などなく、親の都合に振り回されて育ったからだ。だからそれを言えずに、硬いタオルが嫌だった、馬鹿なことをしたと、まったく別の理由を持ってくる。そして空っぽな謝罪を口にする。私にはその「空っぽ」がわかる。だから「ごまかそうとしている」「理解していない」「口ばかり」と怒りが出る。

「気持ち」というのは、目に見えないから把握しづらいけれど、きちんと存在している。というより、人間はこの「気持ち」でできている。だからこれを無視すると、様々なことがうまくいかなくなる。

夫は「自分のタオルを探すべき()」と「疲れているから適当なものを使いたい(気持ち)」の間に挟まれていた。気持ちを無視して自分のタオルを探していたら、私を怒らせなかったとしても、心身ともにもっと疲れただろう。だからそうしなかった。

でもその理由として「柔らかいタオルを使いたかった」とをついた。しっくりこない。だったら私が新しいタオルを買ったときに「俺もほしい」と言うだろう。柔らかいタオルがいいなんて、今まで聞いたこともない。こんなときに言い出すなんて、おかしい。だから「謝りたくないのだ」「ごまかそうとしている」と思われる。

「自分の気持ちを言っていいのだ」「というより、自分の気持ちを言ったほうがすべてが丸くおさまるのだ」と夫は学習する必要がある。自分の都合を言っていいのだ、と。自分の都合は考慮されて当然なのだ、と。

お互いで都合を言い合わないと、本当に必要な策が見つからない。その場しのぎの短絡的な小細工などしても意味がない。ものごとを解決するということ、それには本当のことを言い合うことが必須になる。それには無意識に自分の気持ちを抑え込む癖を外していく必要がある。

今回のことで、カウンセリングでやったことをまた思い出すことができた。なにごとも、繰り返しだ。そうして身になっていく。書いておいて、忘れないようにしたいと思う。

・ほしいのは、謝罪ではなく、理解。
・自分の気持ちを言っていい。