変化

自分を信頼するということ

落ち着いた日々」を送っていても、引っ越したばかりのころはまだまだ気持ちに波があり、以前お世話になったオンラインカウンセリングのCotreeの先生のセッションを毎週受けていた。

私がお世話になっている先生はアメリカ在住なので、ちょうどイギリスが閉まるころに開く。仕事が終わって帰宅しゆっくりセッションを受けることができるので、以前の英人カウンセラーのところのように日中仕事を休んで電車に乗って行く必要がない。「自分のために仕事を休む」「自分を優先する」という練習も必要だけれど、まだそれができない段階の人や、そこまで深刻ではないけれど話を聞いてもらう必要がある人にはちょうどいい。

夫に対する気持ちは、依存愛情の中で揺れに揺れていた。「親から見捨てられたくない」というインナーチャイルドと、「これが二人にとって適切な進路なのだ」という大人の自分からくる気持ち。

今ならあの「夫ともとに戻るのが一番いいのだ」「夫のすべてを受け入れるべきなのだ」「これが私の愛情なのだ」という気持ちは、私の中のインナーチャイルドが騒いでいただけなのだとはっきりとわかる。当時も、「これはインナーチャイルドなのだろう」「インナーチャイルドが親に見捨てられたくない気持ちを夫にかぶせているのだ」という認識はあったけれど、それでも暴走しそうになることばかりだった。

暴走せずに済んだのは、タイミングが一度も合わなかったからだ。特にお酒を飲んだりすると、「もう夫の家に押しかけて、泣いて謝ってすべて元通りにすればいいのだ」と突如として思うことがあった。これは愛情なのだと、やっぱりこれが正しいのだと。でも出る支度をしようとするとシェアハウスの大家さんがうろうろしていて、夜中に外に出ることがためらわれたり、あるいはそういうときに限って夫は用事で帰宅が遅かったりした。本当に、神様がいるのだと思うほど、あれもこれもタイミングがまったく合わなかった。

ネットでも、依存と愛情についていろいろ読んだ。チェックリストをやってみると、依存よりも愛情のほうが多かった。たしかに今までのカウンセリングと解毒をへて、そこまでひどい依存ではもうなくなっていたのだろう。そもそもこれがもし本当に依存だったら、「これは依存だろうか?」などと考えることも迷うこともないはずだ。

離婚をするべきか迷っている人のために書かれた記事も、いくつか読んだ。こういうときは離婚がいいかもしれないという項目の中に、なんと「タイミングが合わない」というものがあった。「やはり一緒にいよう」と思ってもタイミングが合わずに伝えられない、なにか言っても驚くような受け取りかたをされてしまい意思の疎通ができない、など。まさに私と夫の間で、過去ずっと起こっていたことだった。ここ数年はそれが激しくなり、私が家を出てからはもっぱらそんなことしか起こらなくなっていた。

すべてのことが、「やはりここは離れるのが一番なのだ、そういう時期になったのだ」と言っていた。でもそれがわかっていても、あの暴走しそうになるときにぐわーっと全身からわき上がってくる気持ちは、とてもではないけれど嘘などとは到底思えない。その気持ちを抱えながら「これが嘘なのか本当なのか」と考えを巡らせるも、そのときは判断もつかない。

いったい、自分の中のなにを信じたらいいのか。なにもかもがわからなくなり、世界がぐらぐら回っていた。

Cotreeの先生にも「これってDV夫と別れられない人と同じやつでしょうか」と何度も質問して、笑われた。もちろん先生は回答をくれない。友達も、誰にも正しいことはわからない。先生は回答を出すために私の気持ちを整理する手伝いはしてくれるけれど、回答はくれない。自分で出すしかないのだ。

わかってはいるけれど、本当にきつかった。もう誰か偉い人や神様に「これが正解だ!」と言ってほしかった。なんでもいいから、ズバッと回答をくれる人がほしかった。

そんなアップダウンの続く生活の中で、またCotreeの先生のセッションを受けた。冒頭に先生から「お花ですか?」と聞かれた。私の画面のバックに、スーパーで買ったチューリップが写っていたのだ。

引っ越してから、初めて買ったお花だった。昔は、花など一度も買ったことがなかった。食べられもしないし、水を変えたりなども面倒で、「こんなものにお金を使うなんてもったいない」と思っていた。それがカウンセリングを受けるようになって、「カウンセリングという目に見えないものにお金を使っていいのだ」という大きな意識の変革があり、自分のためにお金を使うことを覚え始めた。

「きれいだな」と思ったものを買うこと、「きれいだ」という気持ちで行動していいのだということ。靴下なんてたくさん持っているけれど、「これかわいいな」と思ったら買っていいのだということ。お花も買うようになり、趣味にお金を使うようにもなった。

そんな話を先生にしながら、「お花いいですよね」という話をした。カラフルなものが好きなので、本当は色の鮮やかなガーベラが一番好きなのだけれど、ガーベラは高かったのと、チューリップが安くて二つで5ポンドだったので、それにしたんですと。

なんでお花が好きなのかという話になったので、なんとなく「時間が動いていることを感じられていいですよね」とポロッと口から出た。

ちょうどこのとき、仕事から帰ってきたらチューリップが開き始めていて「ああ、自分の知らないところでも時間は動いていて、世界は動いているのだな」と思ったのだ。それを話すと先生は、「おもしろい理由ですね」と言っていた。たしかに私も、自分で言ったのに「変わった理由だな」と思った。

セッションでは、気持ちのアップダウンのことを話した。でもそれってしかたがないですよ、人生でもっともストレスがかかることの上位に、離婚引っ越し転職も入っている、だからそれが一度に来ているKelokoさんはアップダウンがあって当たり前だ、それくらいに思っていたほうがいい、と言ってもらった。

たしかに、今すぐなにかできるわけではない。時間がたって、気持ちが落ち着いてくるのを待つしかない。「わかっているんですよね、早く時間が流れてほしいって、いつもいつも思っているんです」と。

そこで、はた、と気づいた。そうか、だから私はチューリップに手を伸ばしたのか!!!と。

ガーベラは最初から開いているから、時間の流れは感じられない。チューリップはつぼみの状態で売っていて、だんだんと花が開いていく。だから時間の流れが感じられる。「自分の知らないところでちゃんと時間は流れている」というところにひかれた自分、その理由は、時間が早くたってほしいと思っていたからなのだ。

衝撃だった。私は自分が必要なものを潜在的にわかっていて、きちんとそれを実行しながら生きている。

なにも考えていなかった。それでもこうして無意識に、必要なものを必要なときに手にして生きている。もしかしたら、気づいていないだけで、こういうことが他にももっともっとあるのだろう。無意識に、自分にとって必要なことをしながら生きているのだろう。

「すごい!!!」そう思った。無意識にこんなことができてしまうなんて、私はなんてすごいのだろうと。どうするべきなのかをたくさんの人に聞きまくっていた。でも私は、ちゃんと自分でわかって行動できていたのだ。

目の前の小さいテレビの画面しか見えていなかったのが、急にテレビがなくなって、視界がぐわんと360度に広がったようだった。テレビの外で、こんなことが起こっていたなんて。

先生は「そういうのって、自信になりますよね」と言ってくれた。たしかにそうだ。

衝撃とともに、急に自信がわいてきた。考えていなくてもこんなことができるということは、考えていなくてもきちんとやっていけているということだ。もっと自分を信頼していいのだ。「こういうときにこうやった」という目に見える案件がなくても、私はきちんとやっていっている。理由などいらない。

「自分を信頼する」とは、こういうことだったのか。なにか理由があるわけでもなく、自分の無意識を信じている、無意識でも自分は大丈夫なのだと信じられている状態。なにをやったかではなく、別にそこにいるだけでいいのだと信じられること。これが、自分を信頼するということなのだ。

急に安心感がわいてきた。感動した。すごい経験だった。

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引っ越しに心を躍らせる

ところが、部屋探しは難航した。

毎日毎日内見に行く中で、日本好きで、三週間かけて日本を縦断したという大家さんがいたりして、これはもう決まったかなと思うこともあった。条件を満たしていたので引っ越したい旨を告げたのだけれど、それから連絡が途絶えたりした。他にもいくつかよさそうな家はあって、でもしっくりこなくて、同じところに二回も内見に行ったりもしたのだけれど、やっぱりしっくりいかない気持ちが拭えず、あきらめることにしたりしていた。

なんで見つからないのだろう。こんなにたくさん部屋はあるのに。

不安でたまらなくなった。このまま見つからなかったらどうしよう。夫には私の引っ越し先が見つかるまではそこにいてくれと言ってあるので、見つからなかったら一度夫のところに戻ることもできた。でも不安で不安でしかたなくなった。あんなに日本が好きな大家でも、だめだったのだ。このまま一人でこの国で生きていけるのだろうか。

そんなころ、お米のストックが残り少なくなってきて、隣町のことをふと思い出した。

隣町は、今の町に引っ越してくる前に、一年ほど住んでいたところ。「突然の引っ越し」で書いた、退去願いをもらって慌てて引っ越したところだ。

隣町は城跡や大聖堂があり、この辺りでもっとも古い町になる。お金持ちが多いので、私の好きないいスーパーもあり、お店が一通りそろっている。大きなアジア食品店もあり、手芸のお店もあるので、ロンドンに行かなくても食材も趣味のものも一通りそろう。ないのは納豆くらい。客層も全然違う。ロンドンのいいところにいるような体型やファッションの人たちがたくさんいる。健康に関心のある人も多いから、ナチュラルフードのお店もある。

ここは今の町よりロンドンから数駅奥まったところにあるので、ロンドンに通うなら今の町がいい。今の町は南からくるたくさんの路線が集まってロンドンに向かうため、本数がぐんと増えるのだ。

でも。もうロンドンに通うことはない。念願の、地元の仕事を見つけたのだ。地元の企業の。ロンドンの日系企業に通う必要はない。

それならば、隣町に住んだほうが断然便利なのではないか。休みの日にわざわざ駅まで20分歩き、そこから電車に数駅乗ってお米を買いに行くのなら、隣町に住んでいつでもお米が買えたり、毎日いつでもお豆腐が買えたり日本ハムのソーセージが買えるほうがよくはないか。手芸のお店に毎日通って、いいハギレが出てないか見ることもできるし、お気に入りのスーパーで様々な食材を買って料理を楽しむこともできる。

なぜ、これを思いつかなかったのだろう!!

それまでたぶんまだ、夫に対する依存心が抜けきっていなかったのだと思う。一人で暮らしていくことの不安、「親(夫)に見捨てられる」ことに対するインナーチャイルドの恐怖。夫にすぐ会える距離だから、今の町を出ることを思いつかなかったのでは。でも夫が家を出ることになってきた今、その依存が抜けてきたのでは。

難航して苦しくなってきていた家探しも、ここで一気にやる気が出てきた。それまでは、今の家よりいいところなんて見つからないだろうと思っていた。手入れの行き届いた広くてきれいなおうち、天窓のあるお風呂。でも隣町に引っ越せば、電車に乗らなくても必要なものがなんでも手に入る環境になる。今の家より断然いい暮らしができる。

猛烈に、隣町での部屋探しを始めた。仕事のあとに、5軒の内見を入れた日もあった。隣町はやっぱり大きいから、駅からすぐ近くに家がない。最低でも15分は歩く。それで五軒も歩いて回ると、クタクタになった。

それでも。最初に行った内見でまず、すごい好印象を受けた。大きな家が並ぶ、お金持ちが住んでいるところで、B&Bもやりながらマダムが運営しているシェアハウス。今の家も、今の町の中ではそういう場所にあるし、お金持ち。でも格が違った。家の大きさも、大家さんも。全然違う。

今の大家さんでもお金持ちだとびびっていたけれど、隣町のマダムはそんなものではなかった。格の違いは、メンタルの違いだと思った。今の大家さんはやはり毒々しくて、その程度という感じになる。でも隣町のマダムは毒が抜けていて、その分視野が広かった。遺産が入って必要がなくなったから一度はシェアハウスを畳んだのだけれど、なんだか寂しくなってまた再開したのだと言う。だからお金にはまったくこだわっておらず、部屋も小さいけれど駅近なのに安かった。

趣味で手芸をやっていると言うとどんなものを作っているのか見せてと言われ、写真を見せた。すると「まあああなんて素敵なの!!」と感激してくれた。こういうものの良さを見れる人というのも、毒の抜けている人だと感じた。毒のある人は効率で生きている部分があるので、手作りのものに興味や敬意を示さない。今の時代、なんでも買ったほうが安くて効率がいい。毒のない人は、そうではないところに価値を見い出せる。

これも趣味を通じて、自分が変わってきたことからわかったことだった。買ったほうが断然早く、安く済む。でも自分で作る楽しみや、好きなものを作る楽しみ。効率ではなく、そういうものにも意味を見い出せるようになってきた。「私もやったことあるけれど、あんなに時間をかけたのに買ったほうが安くて嫌になってやめちゃった」と言われることがとても多い。効率は大事だ。でも重視しすぎていると、自分の好きなこと=自分の気持ちは見えてこない。

もちろんいろいろな人がいるとは思うけれど、隣町にはこういう感覚の人がもっと多いだろうなと感じた。古い町だから様々なイベントもあるし、アートも充実している。今の自分の感覚にマッチしていると確信した。今の町はエネルギーが合わなくなっていたのだ。だから部屋が見つからなかった。そういうことだったのだ。

そう納得して、隣町で探し回って部屋を見つけた。

そこはそんなにきれいでもなく、大して期待していなかった。一階だし、お風呂もなく、荷物もたくさんは置けなそうだった。見た目も大してよくない。なのに。なぜか。部屋に入ったときにものすごくひかれてしまったのだ。

別に住んでいる大家さんが案内してくれたのだけれど、この人のひと言もピンときてしまった。いつ引っ越す必要があるのかとか、どういうところを探しているのかと話していて、最後に「早くいいところが見つかるといいわね」と言ってくれたのだ。

この人は、自分の持ち物と同化していない。自分の持っている家と私に合う家は別、ということがわかっている。その上で私がこの家を選ぶ可能性もあるけれど、選ばないこともある、そしてそれは自分が嫌いなのだということではない、ということがよくわかっている。普通だ。

大家さんと二人暮らしになるけれど、もっときれいでお風呂のある家もあった。アート系の仕事をしている大家さんで、興味深かった。でも家で仕事をしているからいつも家に大家さんがいて、リラックスできそうになかった。

なによりそういう人たちは、家や町をほめるととても嬉しそうだった。今の家は荷物を置けないし、今の町もなにもなくて不便だしと言うと、そうだろう、うちはいいところだろう、うちの町は自分もすごく気に入って子供のころからずっと住んでいるんだ、と誇らしげに語る。「帰国報告」で書いたうちの親と同じだった。私にほめたつもりはない。正直な感想だ。でもそれをPersonalにとっていた。自分がほめられたように感じている様子だったのだ。

以前の私なら、こういう人たちにひかれていたかもしれない。扱いやすそうだし、お家をほめておけばきれいな部屋に住める。おもしろそうな仕事もしているし、そういう世界に自分も足を踏み入れられるのではと思ったりする。

でも、私は学習したのだ。こういう人たちは、突然機嫌を変えることがある。私の言っていることが本当かどうか疑い始めて、途端に態度を変えてくることがある。私の思う通りに反応してくれなくなったり、私が「ほめた」ことをとんでもない方向に受け取って暴走したりする。そうなったとき、私はとても苦しくなる。親と一緒に住んでいて、まさにそうだったではないか。

どれだけ素敵な家でも、こういうところは却下することにした。中には、住むとひとことも言っていないのに、私が自分の家を気に入っていてここに住むのだと思い込んでいた人もいた。恐ろしい。ものごとを一般的にとれずPersonalにとってしまう人たち。どれだけ面倒か。

決めた部屋は、「いつ来てもシーンとしているのよね」と大家さんが言っていた。その通り、内見に行ったときも誰もいなくて真っ暗だった。夜の8時、ロンドンに通っている人でもとっくに帰宅していていい時間だ。

大家さんいわく、看護師で夜シフトの女性や、博士号の学生さんが住んでいて、なぜかあんまり家に人がいることがないのだと言っていた。それに強烈にひかれた。今の会社はフレックスで、早く出社すれば4時に退社することが可能なのだけれど、買い物をして家に着いて3時間以上も誰もいないなんて。自由に料理をしたり、ゆっくりすることができる。

あれだけこだわっていたお風呂がなくても、全然気にならなかった。なんだ、お風呂はそこまで重要ではなかったのだ。それよりも、誰もいないところに住みたかったのだ。一階で引っ越しがラクで、キッチンにも庭にもすぐ出れて、ゆっくりできるところ。そういうところがよかったのだと、わかってきた。

なにより衝撃だったのは、駅から徒歩9分というところ。この町でいいところに住みたかったら、もしかしたら今のところよりもっと歩かないといけないかもしれないと思っていた。それが、今の半分以下。町には5分で出れる。全然便利になる。

大きい町だから、イベントも多い。今まではそういう趣味や友達づくりのイベントを見てもなかなか参加できなかったけれど、歩いて行ける。

引っ越しと、それに続く新しい生活、新しい人生。やっと楽しみになってきた。

感謝が勝るようになってきた

新しい職場で衝撃のポジティブ経験をしながら毎日を過ごす中で、自分にも変化が現れてきた。

実は今、夫と別居をしている。仕事も始めて収入もできたので、部屋を探して家を出た。イギリスでは若い人はシェアルームに住むことが多く、お金のある人が投資で一軒家を買って中の部屋を一部屋ずつ貸していたり、家族で住みながら余っている部屋を人に貸したりしているところに、光熱費や水道代、ネットに税金など全部込みで月いくらで借りて住む。

最短で一週間や一か月から借りられたりするので、ロンドンでは数週間のホリデーの人だったり、あとは学生さんはよくこれで滞在している。私も家を出てみてどう感じるか様子を見たかったので、数か月からOKで、契約書もリファレンス(「この人はきちんと家賃を納めていました」と証明する手紙を前の大家からもらう)もいらないところにした。

というよりも、ここがとても気に入ったのだ。駅から遠いのだけれど、治安のいい静かなところにあって、庭が大きく、川が流れていて、最上階の私の部屋から緑の景色が広がる。半屋根裏の部屋は斜めの壁に囲まれていて、白い壁に茶色の柱がかわいく、広くてとてもくつろげる。北と南の両側に窓があり、光も入るし換気もいい。暖房も効いていて、いつもあたたかい。お風呂とトイレは共同だけれど、最上階には私ともう一人しか住んでいないので、バッティングすることもない。お風呂はお湯につかりながら、天窓から月が眺められたりする。

なにより、イギリスだというのに土足厳禁なのが本当に気に入った。玄関で靴を脱いで、一階のキッチンエリアはタイル張りの上をスリッパで過ごす。二階に上がる階段からカーペットなので、みんな階段の下でスリッパを脱いで上がっていく。家はどこも手入れがされていて、いつもきれい。お金儲けでせかせかした感じがなく、定年間近のオーナー夫婦がやっている、余裕のあるお家というのがよかった。

駅から遠いので迷ったけれど、とにかく落ち着いてゆっくりしたかったので、ここに決めた。とりあえずのものだけを、週末にレンタカーで数往復して運び込んだ。車を返して戻ると、居心地のいい空間にほっとした。

大家さんが家の説明をしてくれたのだけれど、そのときに少し気になることがあった。

食洗機には大家さんが食器を入れるから、自分で入れずに流しの横に置いておくように言われたり、ごみも大家さんが出すから自分たちではやらないように言われたのだ。

気持ちは、なんとなくわかる。夫がやるより私が食器を入れたほうが、きちんと整頓して入れられるからより多くのものが入る。私も最初のころは、夫が入れたのをわざわざ直して入れなおしたりしていた。でも、こういうのは人それぞれ。なんでもかんでも自分でやらなきゃならないと自分で自分を追い詰めるのではなく、「人を尊重し受容する」ということ。夫のやりかたも受容して、ありがとうと感謝してやってもらえばいい。

もちろん、使った食器を置いておけばいいというのは、本当にラクでいい。通常のシェアルームであれば、誰が洗い物を置きっぱなしにするということでもめるわけだが、置きっぱなしにしておいてくれというのだから、助かる。それはありがたい。

でも、みんなの食洗機やごみ出しまで自分でやらなければ気が済まない大家さんというのは、なんかちょっとおかしいのでは。そう、うっすらと感じていた。

そして、それは当たっていた

週末が終わり、仕事をして帰宅すると、大家さんに呼び止められた。部屋に行って話しましょうと言う。なんだろうと思っていると、昼間私の部屋に入ったとのこと。「雨が降ってきたから窓を確認に」と言っていたけれど、言いわけだろう。新人の私が部屋をどう使っているか、確認しに入ったのだ。

部屋に鍵がないのはわかっていたけれど、まさか自分がいないときに入ってくるとは思わなかった。怖くて固まってしまった。

私はお茶をよく飲むので、電気ケトルを部屋で使っていた。これでお湯を沸かすたびに一階まで降りることなく、部屋で熱いお茶が飲める。それを、湯気で壁やカーテンが痛むから、部屋でケトルを使わないでくれと言われた。棚の上に並べておいたお茶やコーヒーなども、ここに置かずに一階のキッチンに置いてくれと。

嫌だったけれど、ケトルはまだわかる。でも、なぜお茶を部屋に置いておいてはいけないのだろう。

やはりコントロールフリークだった、と思った。すべてが自分の思う通りになっていないと耐えられないタイプ。人に貸している部屋の中まで、コントロールしてこようとする。こういう人は、親を思い起こさせる。怒りでどうにもならなくなる。

ところが大家さんは、部屋の中のいちゃもんをつけるだけでは済まなかった。

テーブルの上に大きな三面鏡があったのだけれど、これが窓からの光をさえぎってしまっているのと、テーブルで化粧をするのではなくパソコンを使ったりしたかったため、この三面鏡を床に下ろしてしまっていた。それについて大家さんが「鏡を壁掛けのにするわね」と。見ると、床に置いておいた三面鏡がなくなっていた

自分がいない間に、自分の部屋に人が入って、ものをいじっている。ゾゾゾーっとした。

こういうことは当然、自分の領域を侵食してくる毒親を思い起こさせる。怒りと恐怖を一気に呼び起こされて、大家さんが部屋から出て行ってからも立ち直ることができなかった。せっかくいいところを見つけたと思ったのに、またこんな人がいるところにやってきてしまった。もうこんなところは無理だ、早く出よう。そう思って、また部屋探しのサイトに飛び戻った。

翌日仕事から戻ると、壁掛けの鏡がついていた。やはり、自分のいない間にまた入ったのだ。

でも、怒りと恐怖は続かなかった。なんと、鏡が、とてもよかったのだ。

髪の毛を乾かすときや、朝服装をチェックするときに、さくっと見える大きな鏡がほしいと思っていた。部屋の外にある鏡では、裸で服を並べて見てみることはできない。部屋の中に鏡がないと不便だな、と思っていた。それを、取り付けてもらえたのだ。

こういうとき、以前の自分ならもちろん、大家さんが私の部屋を自分の部屋のごとく好きなようにしただけだから、感謝することではないと思っていただろう。実際、そうではあると思う。使わない鏡がそこにあるのが耐えられない、部屋をちゃんと使ってほしい、そのように鏡を変えたい、というコントロール心からやったことだろうと思う。

でも、それであっても

使わない鏡が床の上に邪魔くさく放置してあるのより、使える鏡に変えてもらったほうが、全然よくないだろうか。理由はどうであれ、私が使いやすいように部屋を合わせてくれたというのは、とても親切ではないだろうか。出会って数日の私に、こんなにもすぐやってくれたなんて、ありがたくないだろうか。

家を出て、これからどうなるかわからない自分。そこに、親切にしてくれる人がいる。一度会っただけなのに、信用して家に住ませて。私が部屋を使いやすいように、部屋を直してくれた。「テーブルを机にして使うなら三面鏡は確かに邪魔だからね、壁掛けにしよう」と。下見に来たときよりも部屋があちこち直されているのも、気づいていた。ぶわっとが出た。

どちらも本当だと思う。コントロールフリークの大家さん。でも、親切ともとれる大家さん。

どちらを選ぶかは、自分次第なのだ。自分次第で、人を嫌ったり、感謝したりできるのだ。

今まではきっと、嫌うことしかできなかった。同じような状況が、今までの人生の中できっと何度も何度もあったことだろうと思う。ああいう親の元に育っているから、同じようなことをしてくる人が嫌だった。だから感謝できる場面であったとしても、強制的に「嫌うコース」行きになってしまっていた。

でもこうして、新しい職場で感謝することを覚え、心細い状況でもろくなっている今。すべてがよく見えてきた。こんなことは初めての経験だった。これを経験するべきタイミングに、こういう環境が用意されたのだとすら思った。

毒とは」でも書いた通り、毒があるとものごとをニュートラルに捉えることができない。少しのことで激昂したりと、必要のないところで過敏な反応をしてしまう。ものごとの両面を捉えることが難しくなり、色眼鏡がかかったようになる。今まではずっとそうだった。ネットでなにか読んでも、怒りにばかりなっていった。

だけど今、こんなにも完璧な、絶対に毒親を思い起こさせる環境でさえ、感謝の気持ちが出てきた。

毒が抜けてきている。そう実感した。うれしくなった。自分で感動した。

部屋をノックする音がしてドアを開けてみると、大家さんだった。「くつろいでいるところごめん、ヒーターがつかないという話を聞いたから」と。直してちゃんとつくようになったから大丈夫と、わざわざ伝えに来てくれた。いいタイミングだったので、鏡のお礼を言うと、照れながらものすごく喜んでくれた。「悪くないだろ」と言うので、悪くないどころかめちゃくちゃいいですと。

ポジティブの連鎖だ。

私は今までの人生で、どれだけのポジティブ連鎖のチャンスを逃してきたのだろう。

これからどうなるかは、今はわからない。また大家さんが嫌になることもあるかもしれないし、感謝なんてクソ食らえと思うときがやってくるかもしれない。今はたまたま心細く、なんでもいいように受け取って感謝にひたりたいだけなのかもしれない。それも事実だと思う。

でも、今までずっとネガティブで生きてきたのだ。その真逆ができたのだ。

この大きな変化は、私にとって大きな自信になった。本当に私は、今までとは違う人生に足を踏み入れたのだ。