共依存

女性性と男性性のバランス

魂からの癒し チャクラ・ヒーリング」にはまた、女性性と男性性についても興味深いことが書かれていた。

私は以前のカウンセリングで発見した通り、「女性性と男性性」のバランスが悪かった。これはヨガでは、セイクラル・チャクラのバランスに問題が出ていると解釈できるようだった。男性にも女性にも、自分の中に女性性と男性性の両方を持っていて、それが成長と共にバランスをもって融合していくとのこと。

女性性と男性性は、それぞれ以下の部分を司っているとあった。

女性性(右脳)―言語能力、創造性、音楽や美術などの非構造的な才能
男性性(左脳)―行動、理論、組織、野心、意欲

健康で成熟した異性愛者の男性の場合、普段は男性性が前面に出ているけれど、必要なときには自分の中の女性性を受け入れて、それを表に見せることができる。若い男性はよく自分の女性性を受け入れることができず、わざと男っぽいイメージを見せることでそれを押し殺そうとしたりする。でも成長するにつれて女性性を受け入れられるようになっていくと、まったく違う振る舞いができるようになる。

健康で成熟した異性愛者の女性の場合、女性性が内面の男性性によってしっかりと支えられることによって、あたたかく愛にあふれていながら、同時に野心と意欲を持ち、しっかりと計画的に行動することができる。若くて自分の男性性とのバランスが取れていないと、もっと気まぐれで軽はずみな面があったりする。

そしてこの内面のバランスが取れていないと、そのまま外の人間関係のバランス不全となって表れる。

たとえば、女性のほうが男性要素を多く持ち、男性のほうがより女性的な組み合わせは少なくない。けれどその場合、男性は尻に敷かれ、女性もニーズが満たされることがなくなってしまう。

また二人とも男性性が強い組み合わせの場合、二人とも攻撃的で常に衝突し、どちらも相手を思いやろうとせず、ニーズが満たされることもない。逆に二人とも男性性が欠けている組み合わせの場合、お互いを大事にしようとしても方向性と活力が欠けて、混沌としてしまう。こういった関係では、バランスだけでなく柔軟性も失ってしまっている。

健全な組み合わせの場合は、それぞれが自分の性をしっかり受け止めており、内面の性にも柔軟性があるので、男性と女性の役割を必要なときにいつでも交換することができる。たとえば男性が事故にあったとしたら、女性はすぐに男性の役割を引き受けて、必要なものを準備し、相手の男性を守り、状況を管理し、指示を出せる。男性の場合は、相手を慈しみ思いやる役割に切り替えることができる。

要するに、お互いに女性性と男性性の両方をバランスよく持った上でパートナーを持つことが、健康的な関係ということになる。

そういう恋愛の場合、パートナーを必要としているからではなく、そのパートナーと一緒にいたいという気持ちの上に成立する。相互依存ではなく、純粋な愛情から一緒にいることができる。

私の場合、自分の中の女性性を受け入れることができていなかった。それを埋めるために、埋める部分を持っていた夫と結婚したのだろう。夫もまた欠けている部分があって、それを埋めるために私と一緒になったのだろう。

でもそれではそのときはよかったとしても、長くは続かない。時間が経つうちに、それぞれの内面も変わっていく。そこで柔軟性がないと、かみ合わない部分が出てくる。以前のようにやっていこうとしても、無理が出てくる。

本にも書いてある通り、たとえば一方の内面のバランスが改善されればされるほど、二人の関係は不安定になっていく。現状維持できるようにと、大きな抵抗があったりもする。望ましくは、片方の改善がもう片方の改善を促すことだ。

考えてみたら、私は典型的な左脳人間で、夫は典型的な右脳人間だった。私は極度に考えすぎるタイプだったし、夫は極度にまったくものごとを考えることができずに行動してしまう人だった。

でもカウンセリングを通して、確かにそれが大きく改善された。ということは、それぞれの女性性と男性性もバランスが取れてきたということだろう。私はまだまだ女性性について抵抗はあるけれど、着実に進んでいる。

でもこのときはまだ、依存関係にやっと薄っすらと気づいたかという程度の段階にあった。

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自分がないということ

魂からの癒し チャクラ・ヒーリング」の中に、以下のような図があった。「アダルトチルドレンについて」で書いたものと同じだ。

flower a

aが示している人は、家族、友人、仕事、恋人、経済的安定によって支えられています。けれども彼女の核は空っぽで、内面の強さはほとんど持ち合わせていません。これらの支えの一つでも失われれば―たとえば夫に捨てられそれと一緒に経済的安定を失ったとしましょう―その喪失に彼女がうまく対処できる可能性は低いでしょう。再び安定を取り戻すために必要な内面の資産を彼女が見つけられるまでは、「神経失調」に陥る可能性もあります。

flower b

bが示している人は、家族、友人、仕事など、全く同じ要素に支えられていますが、同時に自分が何者であるかをよく知り、しっかりした自尊心と自信、つまり力強い核を持っています。外側のサポートのどれかが失われればもちろん悲しみはしますが、その内面の強さによって、神経失調に陥ることなくその状況に対処し、耐えぬくことができるでしょう。

実家で自分の核を育ててもらえなかった私は、「経済的安定」や「仕事」のちには「夫」によって自分自身を支えて生きてきた。だから「お金に関するトラウマ」に書いたように、会社が傾いてくるととたんに恐怖に駆られた。

本には、自傷でしょっちゅう救急病棟に運び込まれていた男性の話が書かれていた。

彼には話をする人がおらず、病院に運び込まれてくると人に話を聞いてもらえるため、この行為を繰り返していると著者は判断した。そこで彼に、「普通に頼めば喜んで話を聞くけれど、また自分を傷つけてやって来たら話は聞かない」と話した。数日後に彼はまた自傷で運ばれてきたけれど、著者は会わなかった。彼は怒って帰っていったけれど、その一週間後に普通に病院に来て、著者に「会いたい」と言うことができた。そこで著者は会って話をたくさん聞いた。

彼は幼少期の体験からルート・チャクラがブロックされており、自分がどこかに根を持ち帰属しているという感覚がなく、自尊心も低く、自分も人間として大きな可能性を持っているということがわからなくなっていた。彼にとって家庭の中で悪い子でいることが唯一、人の注目を集められる手段だった。怒鳴られて叩かれたものの、注目されないよりはましだったのだ。

いわゆる「グレる」子供が多かった時代は、子供の核を育ててあげられない親が多かったということだ。またその後も内容を変えて、グレる子供たちは後を絶たない。それだけまだまだ、問題のある親が多いということになる。

著者はまずこの男性に、①わめいたり自分を傷つけるのではなく、普通に話せばずっと聞いてもらえる確率が高いことを教えた。それから次に、②聞いてもらえたとしても自分の要求がいつも通るわけではないことも教えた。また③自分のニーズの中には、人に頼らず自分自身で満たさなければならないものがあることも学んでもらう必要があった。

そしてヒーリングでルート・チャクラとセイクラル・チャクラのブロックを取り除き、スロート・チャクラのブロックを取り除いて健康的なコミュニケーションを可能にした。彼は空っぽだった自分の核を少しずつ満たしていき、外側にばかり求めていた愛や悲しみ、喜びに対するニーズを自分で埋めていった。

人間は誰でも、衣食住という基本的な必要に加えて、「愛」「支え」「悲しみ」そして「触れ合い」を必要とする。でもこれを外から与えられるものだけに頼っていると、自分を無防備にさらし、危険な立場に置くことになってしまう。人が与えてくれるかどうかで、自分の生死が決まってしまうからだ。

だから自分のニーズをできる限り自分で満たし、それと同時に、本当に外から受け取る必要のあるものはそこから受け取れるよう、自分とも外の世界とも健全なコミュニケーションができるようになることが必須だ。自分を無防備で危険な立場から、安心できる立場に移すことで、自分を守る。上の図のを作り、外から満たし続けてもらわなくても生きていけるようになる。

本来なら、親元で育つ中で核を育ててもらえるのだけれど、毒親育ちはそれをしてもらえなかった人たちだ。親自身が核がない人だったから、それを支えさせられていたために、自分の核を育てることができなかったのだ。

まずは親の核を支えることを止め、そこから自分の核を育てていく。大変な作業だけれど、やる価値はある。

自分、相手、私たち

この年最後のカウンセリングは最悪な終わりかたで、けっきょく夫は必要のない自分の弁護しかできず、なにも解決せずに時間がきてしまった。

翌日から、私は日本へ行くことになっていた。こんな終わりかたで日本へ行かせやがって、と怒りがわいた。日本へ行ってしまうから、その前にどうにかしようという気持ちがどうして浮かばないのだろうか。最後にカウンセラーが「明日から日本なのだから、このあと二人で出かけるといい」ととりなすように言ってくれたので、そうすることになった。そんなことを人から言われないとできない夫が、本当に嫌になった。何十年も今までいったいどんな人生を送ってきたのだと思った。

なんでも先回りしてやってしまう私といたことで、夫の考える力がどんどん奪われていってしまっていたのは事実だ。日本ではそうしてお互いに先回りしてやってあげることで、成り立っている。社会全体が共依存だ。実家もそうだった。親同士がかばい合い、妹と親がかばい合って見事な依存関係を築いていた。その中で育った私ももちろん、似たようなことをしてしまっていた。

それにしても、夫の私に対する依存度は成人した人間とはとても思えなかった。夫は夫で、そういう人間と一緒になるようになっていたのだ。すべてがからみ合ってこのときの状況が出来上がっていた。

カウンセリングのあとに私はヨガがあったので、ヨガの先生の家に向かった。夫は黙ってついてきた。私が家に入ろうとすると、その手前で「終わったらここに来るから」と言い残して、去っていった。「終わったら」って、どれくらいかかるのか知っているのだろうかと思ったけれど、もうなにも言わずにいた。それは私が考えて言ってあげることではない。が聞くことだ。

ヨガが終わって先生の家から出てくると、夫がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。合流して、ご飯へ行くことになった。私がヨガをしている間、夫はどこか食べるところを調べていたようで、少しバスで行ったところによさそうなお店があると言われた。夫が、あとのことを考えて行動した。そんな当たり前のことですら、このときは成長だと思った。

でもがザーザー降っていた。そんな中を、バスで移動し、そしてまた駅まで戻ってこなければならないなど面倒だった。そんな遠くではなくもっと近いところがいいと言うと、夫は「困らせるな」というようにイライラした様子を見せた。せっかく調べておいたのに、それを無下にされたからだ。

そんなことでそんな簡単にイライラする夫に、頭にきた。

そうやってイライラするのは、いつも私だった。夫はなにも考えないから、私が調べて情報を用意する。私が考えていくつも用意した情報を、なにも考えていない夫は簡単に無下にする。「困らせるな」とは私の言うことだ。「じゃあ自分で考えろ」といつも言いたかった。「いつも私がこうして考えたことを無下にするよね」と言うと、黙った。やっとわかったか、と思った。

面倒だと思った私は、別の店を調べ始めた夫を無視して、適当にその辺の店に入ってやった。

そこでも私はなにもせず、すべて夫から行動を起こさせた。飲み物どうする、なに食べる、どこ座ろうか、etc。こうしてみると、どれだけいつも私がいろいろと考えて夫を動かしてきたかということが、よくよくわかった。

カウンセリング事前ミーティング」でもあった通り、夫は単に私にどうしたいかを聞き、それが叶うように動くだけだった。一見すると、「妻のやりたいようにやらせてくれている優しい夫」となる。夫自身もそう思い込んでいる。でも実際は、自分で考えたり案を出すのが面倒で、すべてを私に押し付けているだけだった。

だから私がどうしたいかを言わないと、イライラしたり、どうにもできずに困り、放置する。私が倒れていても、「起こして」とか「なにか持ってきて」と言わない限り、なにもできない。そして指示を与えない私に怒りをぶつけてくる。「指示を出さないくせに、自分に対応を期待しやがって」と。やはりこいつは病気なのだと思った。

家に戻って、日本へ行く支度をしながら話をした。私がカウンセリングで「夫は自分だけの人生を生きていて、一緒に生きている気がしない」と言った、その理由を教えてほしいと言われた。さっきのカウンセリングでまさに、私が泣いているのにそれをスルーして自分の話をしたではないか。私はそこに存在しておらず、「透明人間」になったように感じると言った。

夫は最初、それを全否定し「ううううう」と頭を抱えてうずくまってしまった。やはりこいつは頭がおかしいのだとはっきりわかった。

私は二人のために自分が好きでもない仕事を見つけて、仕事が嫌でも辞めずに働けるけれど、お前はそういうことができない。しかもそういう思いで働いている私に対して、「いつ辞めてもいいんだよ」とのことを言ってきたりする。それがおかしいと、言ってやった。

夫は買い物をしてきては「自分もこれ買っちゃったからKelokoも好きなもの買っていいんだよ」と言う。夫の週一の仕事しかない状況なのに、そんなことを言われたって私が安心してお金を使えるわけがない。夫はなにも考えていないから、私が「本当に買っていいんだろうか」「私達はいくら持っていて、これからいくらくらいあればこれくらい生き延びれるから、いくらくらいなら使えるかもしれない」と自分で考えなければいけない。

夫の言うことをそのまま信用して動けない。大人が二人いるのに、私が「自分のこと」「夫のこと」「二人のこと」の三つをすべて考えて指示を出していかなければならない。そりゃあ気も狂うだろう。

そう説明すると、「7年間もそんな思いをさせてごめん」と謝ってきた。びっくりした。なにをどう理解できたのかはわからなかったけれど、とりあえずは以前よりも少しなにかをわかってもらえたようだった。「自分は変わる、だから待っていて」と言ってきた。

ここで気づいたことなのだけれど、二人でいる場合には「自分」と「相手」だけではなく、もうひとつ「二人」という概念があるのだ。一人でいる場合、「自分」しかない。それが二人になると「自分」と「相手」の二つになるだろうと思われるけれど、それは違う。実際は「二人(Relationship)」という概念も入ってきて、三つになる。

子供がいる人なら、わかりやすいだろう。「自分」がやりたいこと、「子供」がやりたいこと、「親子」の概念からとるべき行動、この三つがある。子供や自分の意思に沿わなかったとしても、「親子」という概念からやらなければならないこともある。「親子」の概念がなければ、「子供」の概念だけでやりたいようにやらせてやってもいい。でもそこに「親子」という概念が入ってくるとまったく異なってくる。

夫の中には「自分」と「妻」の二つの概念しかなかった。「自分」が好きなことをするか、「自分」の好きなことを抑えて「妻」が好きなことをやってやる。その二つしかない。通常ならもうひとつ「私たち」という概念がある。夫にはそれがきれいさっぱり抜けていた。

意識していなかったけれど、私はこれができていた。共依存的な日本の社会では、グループのために自分がどうするべきかを考えて行動することを、子供のころから訓練されているからだろう。

「夫」に収入がない、「自分」はこの仕事をしたくない、でも「私たち」がやっていくためにはどちらかが仕事を見つけて働く必要がある、だから「私たち」のために、私はその仕事をやってのけた。別にこれは「夫」のやりたいことをやってやるというわけではなく、私も外に出たかったし、二人のために自分がどうしたいかという自分の意思で決めたことだ。私にはきちんと「私たち」という概念があって、帰属感があった。

夫にはそれがなかった。「自分」と「もう一人」という概念しかなかった。だから私はいつまでたっても結婚している感じがなかったし、二人で生きている感じもなかった。子供を持とうとも思えなかった。物理的には一緒に暮らしていたけれど、精神的には独身のときのままなにも変わっていなかったのだ。

やっと理由がわかった。これですべてが変わっていくかもしれないと思った。思って日本へ行って、でも帰ってきてまた傷つくことになった。