エネルギー

「不可視の王国<アストラル界>へ行こう」

日本に行ったときに、衝動買いした本があった。

今思えば、このころまでは本など定価で買ったことがほとんどなかった。ほしい本があったとしても、まず中古で探すのが常だった。でもカウンセリングを始めてから、お金を気にせず「興味のあることをやってみる」ようになったとき、久しぶりに日本の本屋に行ったのだから気になったものがあったら買ってみようと決めて、買ってみた。

カウンセリング関係の本も買ったのだけれど、そこでなんとなく目がいった本があった。まったく聞いたこともない出版社から出ている本で、とにかく表紙がカラフルで浮きまくっていた。めちゃくちゃあやしいと思ったのだけれど、なぜかそのハッピーな感じが心に響いて、一度手にとったあと、手放せなくなってしまった。

まったくの直感だけでものを買ったりしたのは、これが初めてだった。それが、右の「ドリームランド<地球>へ行こう」だった。

内容はとにかく飛んでいたのだけれど、私がでよく見ていたことが当たっていて驚いた。また様々な宗教の話が出てきて、「どの宗教も同じことを別のツールを使って言っているだけで、すべての宗教は同じことを言っている」というようなことが書いてあった。これはずっと私が思っていたことだった。同じことを考えている人がいたなんて。

おもしろくなって夢中で読み、他にも何冊かシリーズで出ているということで、一冊従妹に送ってもらった。それが、左の「不可視の王国<アストラル界>へ行こう」だった。

届いて読んでみると、こちらにはもっと当時の私に当てはまることが書いてあった。びっくりした。

これによると、人間は胸にあるハートチャクラの背中側から「プラーナ」というエネルギーを吸い、胸の前から吐いて、呼吸しているとのこと。これはまさしくヨガで習った考えかただった。中国では「氣」と言われる。これはヨガをやっていなければまったく理解できなかったであろう情報だった。それがこんなにもタイミングよく入ってきたことに驚いた。直感で行動するのも大事なことなのだと思った。

胸の前から吐き出すエネルギーは「念エネルギー」と呼ばれていて、人と人との間にはこの「念エネルギー」のやりとりが起こっているとのこと。「なんかあの人ちょっと嫌な感じ」というのは、その人が発する嫌な「念エネルギー」を感じている、ということだと。簡単に言えば、いい念は「祈り」で、悪い念は「呪い」というようなことだった。

夫婦間でも家族間でもこれはあって、たとえば母親が「うちの子大丈夫かしら?」としょっちゅう思っていると、この「念エネルギー」を子供に飛ばしていることになる。「念エネルギー」は放っておけば消えてなくなっていくのだけれど、消化しきれない量の「念エネルギー」が来てしまうと、ちょうど食べものを食べきれずにいたら腐ってしまうように、子供のところにたまったまま腐っていく。これが腐ってたまっていくと、ドロドロの状態で子供の体を包んでいき、蛇が巻きついたようになってしまう。

でも実はこの「念エネルギー」を飛ばしたほうの母親も大変で、自分のエネルギーを子供に送り続けているわけだから、体がだるくなったり、おかしくなったりするとのことだった。

この説明を読んだとき、本当にその通りだと思った。

うちの母親は、体のあちこちがおかしかった。高血圧で、高コレステロール、心臓の問題に加えて、頚椎のつまりに、切開手術もした腰痛。何十年も一年中花粉症で、年中鼻をかみまくるものだから、鼓膜までおかしくなる一方。常に薬を大量に飲み、病院に通い、注射を打っている。体はボロボロだった。

きっと、私や家族に「念エネルギー」を飛ばしまくっているから、自分の体が持たなくなるのではと思った。私が実家を出る前はそこまでではなかったけれど、出てからは数年ぶりに会うたびに、毎回一段とひどくなっていた。自業自得だとは思っていたけれど、まさか本当に自業自得だったとは。

たぶんこれは大まかに言うと、「人のことにばかり首を突っ込んでいると自分がおろそかになる」という当たり前の現象を説明したものなのだと思った。「エネルギー」という単語を使って説明するこの方法は、とても興味深かった。ヨガの先生がそうだったからだ。

先生によると、すべてのものは「エネルギー」でできているとのことだった。私たちのこの体も気持ちも。でもそれをどうやって動かしたり、調整したらいいかが一般人にはわからない。そこで「振動」を使う。つまり、「言葉」のことだ。言葉は「音」なので、体や空気による「振動」だ。

いわゆる「言霊」や「Chanting(お経)」など音の振動によって「エネルギー」を動かし、体や気持ちに作用させるのだと。よく「ありがとう」という言葉の振動がいいなどと言うけれど、こういった振動のいい言葉を発したり聞いたりすることで、自分や世の中に対してポジティブな作用を広げていくのだと説明してくれた。

本によると、「念エネルギー」というのは「周波数」が違えばスルーしていくらしい。どれだけ人から恨まれていても、本人が高い「周波数」で楽しく生きていたら、「念エネルギー」は影響を与えることができないとのこと。

これもなんだかわかる気がした。同じ土俵に立つな、ということだろう。

ただ、たとえばストーカーなどの場合。ストーカーにつけられているような気がすると、気を取られてはいけないとは思えど、どんどん怖くなってしまうのも無理はない。こちらが感知すると、ストーカーは「念エネルギー」が受け取られていることを感知して喜び、ますます「念エネルギー」を送るようになってしまう。

母親もそうだった。「念エネルギー」が私に届いていると感じるから、ますます嫌がらせをしてくるのだろう。そしてそれによって私からも「念エネルギー」が飛んでいってしまっているのだ。

「念エネルギー」というのは、来たものを返すとになって返っていくとのこと。それがまた倍になって返ってきて、それをさらに倍にして返っていく。そういうのを繰り返し、それが何十年と続くと、もう大変なことになってしまう。

そこで、この流れを断ち切ることが必要になってくる。送られてきた「念エネルギー」や、自分から返っている「念エネルギー」の連鎖を、断ち切る。

これをどうするかというと、相手に返っていく前に「燃やす」ということだった。燃えてしまって送り主に返らなくなると、「念エネルギー」が返ってこないから「あれ?」となり、やり取りがそこで途切れる。ストーカーが謝ってきたり、警察が動き出したり、引きこもりの子が学校に行き始めるようになったりと、流れが変わるとのこと。

これはおもしろそうだと思い、本にあった「燃やす」方法を試してみた。やりかたは三つくらいあり、「お経巻き」というのが一般的らしいのだけれど、うちにはお経本はなかった。もう一つ「ひとがた」という方法があったので、それを試すことにした。

これは名前を書いた紙を包んで、見えるところに立てかけておき、目につくたびにその人に対するように話しかけ、一週間たったら燃やす、というもの。「念エネルギー」を本人に返すのではなく、この「ひとがた」になすりつけて燃やしてしまう。話しかける際には「死んじまえ」などなにを言ってもいいらしい。これでもう本人には返らないから、「念エネルギー」のやり取りがここで途絶える。三回くらいやれば、どれだけたまっているドロドロもすっかり燃えてしまうらしい。

ちょうど「アダルト・チルドレン癒やしのワークブック」で、親に手紙を書く前に「親の写真を見ながら言いたいことを言う」というワークがあったのでちょうどいいと思い、この「ひとがた」に対して話しかけることでやってみた。最初は「言葉をかける」という行為そのもので母親とつながってしまうように感じ、なかなか言うことができなかったけれど、だんだんと言いたいことを言うことができた。

燃えかたにも特徴があって、すーっと燃えることもあれば、「念エネルギー」がたまっている場合はなかなか燃えず、周りからジリジリと火が進行していくようなこともあるのだそう。母親に対してやってみたところ、本当になかなか燃えなくて嫌になった。時間をかけて燃やし、トイレに流してほっとした。効果のほどはわからないけれど、子供のころによくやったおまじないを思い出してなんだか懐かしくなった。

この本は、ヨガやスピリチュアリズムを勉強してからまた読んでみるとまたおもしろかった。お金や先入観を気にせず、直感でものを買ってみるというのもおもしろく、また、考えて買ってみるのと同様に大事なことなのだと思った。

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エネルギーセンター

このころ夢にやたらと「」が出てきた。ちょうど「喉に問いかける宿題」のころと同じだった。

ひとつは、白い靴下の夢。白いコットンで編んで作られている靴下が一足、左向きに重ねてあった。白くて、新品。たぶん女性用だ。

もうひとつは、白い教会。きれいな木造の教会で、ワックスのかかった新品の体育館のような床を、裸足で歩いて行く。ちょうどチャペルの祭壇の裏側にたどり着いて、そこは白い小部屋になっていて、白い十字架の後ろにこれまた白いドアがある。ドアを開けると祭壇からコンニチハ、チャペルで礼拝をしている人たちをびっくりさせてしまう。私から向かって左側に白人系の人たち、そして右側に神父と黒人系の人たちが集まっている。全員ガンジーのような白い布をまとっていた。

さらに、ヨガの瞑想中にも同じような白い布を巻いた、それこそガンジーのような眼鏡をかけた男性が出てきた。仰向けに横になっている私を起こすように、屈みこんで右肩をポンと叩いてきた。それでびっくりして覚醒してしまった。

終わったあとに先生にこのガンジー(仮)の話をすると、少し話をしてくれた。

それにどのような意味があるのかはわからないけれど、その夢や夢の中の人に対して、私がどう感じたのかが重要だと教えてくれた。

右肩を叩かれた人に対しては、特に怖い印象はなく、ただびっくりした。だって、横になって瞑想しているときにそんな突然人が出てきて、びっくりしないわけがない。瞑想中はヒプノセラピーのような催眠状態で、夢と覚醒してる現実との間を行ったり来たりしているような感じだ。その中でこういう短い夢みたいなビジョンをいくつも見るのだけれど、まさか人が出てきて起こされるとは思わなかった。

先生いわく、このヨガニードラは「ヨガの睡眠」という意味で、「脳のリラクゼーション」だとのこと。

人は寝ているとき、体はリラクゼーション状態だけれど、脳は少しではあるものの動いていて完全には休まることがない。ヨガニードラは、この寝てもリラックスできていない「脳」をリラクゼーション状態にもっていくものらしい。

そうして脳がリラックスしている状態のときに、もしかしたら潜在意識が出てくるのかもしれない、それでそういった夢のようなものを見るのかもしれない、と言われた。ヒプノセラピーのようなものかと聞いたところ、それとは違うとのこと。英語だったのでよくわからなかったのだけれど、体の中にあるものは「感情」として記憶され、「エネルギー」として存在していて、これが潜在意識が開けたときに出てくるのではと。

感情 = エネルギー

このときはよくわからなかったけれど、これだけはなんとか理解した。「感情」というものは、目には見えないけれど、存在しているのだということ。電気というエネルギーも、目に見えないけれどもちろん存在しているし、それと似たようなものだとのことだった。

たとえば「悲しい」という感情は、「悲しい」エネルギーを持って存在している。その「悲しい」エネルギーが多くなると、体にも影響が出てきたりする。ストレスで胃腸が弱ってものが食べられなくなるなども、このせいだ。

だから普段生活している中でいろいろな感情が出てきて、それがエネルギーとして体の中に記憶されている。それが「夢」などの形で潜在意識から出てくるのではないか、ということだ。

最近やたらと夢に「白」が出てくるという話をすると、先生は「チャクラ」の話をしてくれた。

人体には「チャクラ」と呼ばれるエネルギーセンターが無数にあって、中でも大きなものが背骨に沿って7つあり、それぞれが特定の色と同じ波動で鼓動している。一番下の尾骶骨の辺りにあるチャクラは「赤」で、赤い色と同じ波動で鼓動しており、一番上の頭のてっぺんにあるのが「白」のチャクラだとのことだった。

この白のチャクラは、「すべてとの一体感」や「ニルヴァーナ」を意味しているとのことだった。

なんのことだかさっぱりわからなかった。でもなんとなく、もしかしたら私の頭と心が一体化してきているのだろか?と考えた。

「頭」ということで思い出したのは、このころ頭皮がひどく荒れていて、にきびもたくさんできてひどかった。そんな状態が、半年か1年くらい続いていた。私は界面活性剤を使わないシャンプーを使い、お酢のリンスで髪を流しているのだけれど、それにもかかわらずとにかく頭皮がひりひりとして止まらなかった。オイルケアをしても、ヘナをしてもだめだった。確かに、頭のてっぺんでなにかネガティブなエネルギーが発散されていたのかもしれないと思う。

とにかく、できることはいろいろな感覚に「Aware(知覚している)」でいることかなと言われた。難しいけれど、なにかわかっていくだろうかと期待していた。

今思うと、このころしょっちゅう出てきた「白」は、「これから色がついていく状態」だったのだろうと思う。一度まっさらになって、そこから自分をまた創り出していくところ。ガンジー(仮)に起こされたのも、ここから新しい人生、新しい一歩が「始まるよ」という気持ちの現れだったのではないかと思った。

実は、人間がなぜ毎日睡眠を必要とするのかは、今だ解明されていないらしい。物理的に、体自体はそんなに休まなくても別にいいらしい。ということは、やはり脳の休息のために睡眠が必要なのではないか。20分のヨガニードラが4時間の睡眠に相当すると言われるのも、頷ける。

ネゴシエーションの練習

スピリチュアルカウンセリングの続き。

仕事を満了後も延長してもらったほうが絶対いいのはわかっていたけれど、当時の精神状態では会社がどうしても合わなかった。でも、ずっと働きたい会社なら難しいかもしれないけれど、そうでないなら交渉してみたらどうかと言われた。確かに、あとから「交渉しておけばよかった」と思うのは残念だ。

交渉の前に、「こういうのだったらいいな」というのをリストにしておく。漠然として話をすると、あとで「こう言えばよかった」となってしまうので、自分の中で「希望」をまとめておく。この作業は今後においても役立つそうです。

今後これが役立つときがやってくるから、そのために今これを学んでおく時期ということなのだろうと思った。確かに、どうしても残りたい会社では交渉もしづらいだろう。そういうプレッシャーのないところで練習をするチャンスを与えられたのかもしれない。それでも境界線のない私にとってはとても難しいから、いい練習になるだろうことは間違いなかった。

ぼんやりしていると、やってくるものがあっても「うーん、行ってみようかなあ」「でもここに行くんだったら行きたくないなー」で終わってしまう。「あっちのほうに行きたい」「はっきりはわからないけど、あのあたり」というのを認識していれば、そこへ行くボートに乗れる。「この状況でこのままならいたくない」というのだから、「どう変わったら続けられるか?」を考える。

というように、自分の中である程度の条件をまとめておく。そうしないと「会社としてはどうしてくれるんですか?」と受動的になってしまう。

まさに、いつもの私がそうだった。

会社がどうなのか、人がどうなのか。相手をベースに「こうなったらこうする」「ああなったらこうする」と自分の選択肢を考えていた。会社や人がどうなのかわからないと自分のことも決められないから、相手のことを探るばかりでいつまでも落ち着かず、不安でいっぱいになってしまっていた。自分のことなのに、まったく主体的になれていなかった。

でも、だとするとどうやって考えたらいいかわからなかった。「自分を主体で」とは言っても、それができないからこういうことになっているのだ。

そうしたら「親友だったらどう言ってあげるか?」を考えるといい。「Kelokoさんはこう思っているから、じゃあKelokoさんのためにこう言ってあげよう」と。親友だったら、マネージャーだったら、自分の代わりに会社にどう言ってあげるかを考える。

これはとってもわかりやすかった。私も、人のことだったら順序立てて上手に考えることができる。

条件をリストにしておいて、話し合いのときに言ってみる。「◯◯って可能ですか?」と聞いてみて、「無理です」と言われるかもしれない。でも「今は難しいけど、将来的に考慮することはできます」と言われるかもしれない。どちらにしろ、可能性が「ある」のか「まったくない」のかを知ることができる。

「わかるけど、それは会社の中ではこうなんです」と言われるかもしれないし、「それは今までなかったけど、調べておきます」と言われるかもしれない。自分でも「これは言ってみるもんだな」という新しい発見もあるかもしれない。聞いてみないとわからない。

「こんなことを言ったら軽蔑しますよね?」と自分が思わないこと。思いにはエネルギーがあるので、そういう思いがあると伝わってしまって「今さらそんなことを言われても」と返ってきてしまう。心配だから難しいかもしれないけれど、そういうのをわざわざ流さないこと。

私はいつもそうだった。相手に都合を聞くだけのことを、勝手に「悪いな」と思ってしまっていた。または「自分は客観視ができている」というのを表すために、「難しいということはわかっているけど、念のため聞いてみたいんです」というスタンスで聞いてしまう。だから相手からは「期待」通りの「難しいです」という回答をもらってしまう。

特別難しいことでなくても、そういうスタンスで聞かれると人間は「難しい」と答えてしまうのだ。私が「それは難しい」という空気を、わざわざ自分から作ってしまっているからだった。わかってはいたのだけれど、どうしたらいいかわからなかった。

自分の都合を言って、相手の都合を聞くだけのことに、別に「客観視」なんてなくていいのだ。そもそも、生きていく上で「自分を客観視する」なんて、本来まったく必要のないことだった。これも、旧世代のバーチャルな考えかただ。「外から見て自分がどうなのか」ではなく、「自分がどう思っているのか」をきちんと把握して行動することが、人間には必要なのだ。

これもまた、毒親の元で育ったときにできてしまっただった。「私はわかっている」ということを、常に知らせておかないとならないと思っていた。でもそうやってきても毒親には私が「わかっている」のだということが理解されることはなかったし、私がラクになることはなかった。だったらやりかたを変えていかなければならない。

漠然と心配しているよりも、

 ①紙に具体的に条件を書き出す。
 ②今後の計画(今からここまでは聞いてみて判断する、納得できなかったらここで辞める、など)を決める。

「いつもしっかりしていなきゃ」ではなく、「足を進める前にやること」を練習する。これができると、「ある程度事前に決めておいてよかったな」となり、自信につながる経験にもなる。次からなにか話すことがあっても、ぼんやりではなくちゃんとフォーカスして話せるようになる。

確かに、これがうまくできるようになったら自信になるし、コツもつかめてだんだんと自然にできるようになってくるかもしれない。