焦りの原因

十分味わう」で落ち着いたあと、なぜこんなにも落ちているのだろうと考えてみた。

それまで何度も焦ることはあっても、なぜだかよくわからなかった。でもこのとき初めてなんとなく理由がわかってきた。「子供を持つ」ことに対する焦りではと思ったのだ。

夫に「将来子供がほしいか」と聞いてみた。すると「50%50%」「どっちでもいい」という回答だった。そうではなくて、あなた自身はどうしたいのだと聞いてみた。すると「いらない」と答えたのだ。

それまでは、「できたらできたで」などと言っていた。自分が就職したときなどは、「これで家も買えるし、Kelokoは子育てすればいいよ」というようなことを言ったりしていたのに。あのときは正社員の仕事に就いて、なんとなく安心して大きくなってしまっただけなのだろう。夫は、本当はやはりほしくなかったのだ。私が思った通りだった。

夫は旅行が好きだし、きっと私さえうんと言えば、世界中を旅行して過ごすような人生を送りたいのだろうと思っていた。そういうことも言っていた。子供はお金もかかるし、自分たちのやりたいことだけやっていられなくなる。夫いわく、「人生は短いし、自分は自己中だから」と。

以前だったら「なんて子供みたいな男なんだ」と思っただろう。でもこのときは少し違った。確かに嫌な気持ちはあった。今は二人とも過去からの脱却中であって、きちんとした「大人」になっていないし、だから今はほしくないという気持ちはわかる。でも将来二人がきちんと「大人」になったときにどう思うだろうか、くらいのことは考えてほしいと思った。イラッとする気持ちはあった。

でも、と。だったら、別にそう「ほしくない」と言ってもいいのではと。

将来がどうと考えるのではなく、「今」自分たちはまだメンタルが子供の状態で、解毒して大人になっていく道を進んでいる途中。であれば、「」の気持ちをきちんと表現していいのではないだろうかと。

そう考えると、このころに落ちていた理由がなんとなくわかってきた。たぶん、めちゃくちゃ焦っていたのだろう。解毒を。4月になり、新年度にもなっていた。一年ももう1/4が終わっていた。早く治療をしなくてはと。早く大人にならなくては、そして家を買って子供を産まなくては、歳をとって不可能になる前に、と。自分がほしいかどうかもはっきりしていないのに。

だから、カウンセリングがもっと進んでいかないことにイライラしていた。自分が歳だと感じることにもイライラしていたし、子供を持つことを考えたら今のうちに行きたいところに旅行にも行っておかなければならないし、好きなものを食べたりお酒を飲んだりできなくなるから今のうちに日本にも行ってやっておきたい。早く家を見つけなければならないし、早く仕事にも就いておかないといけない。Etc、Etc…

そういう「制限」や「期限」があって、ものすごくすべてのことに焦っていたのだ。

でも、そうではない。もちろん、子供を産むには期限がある。でもはそういうことを考えている場合ではないのだと、改めて考えた。

なによりもまず、自分を確立することが課題だった。「自分がないということ」の花の図のように、自分がなく自分を支えるためにその他のものに頼っている状態というのは、とても不安定なのだ。自分を持って、ここをしっかり安定させることが先決だった。

そりゃあ子供を産めば、「子供がいないから親の気持ちがわからないのだ」と言ってくる親や妹に対して、言い返したりできるようになるだろう。愛情を注げる対象もできて、そこからいろいろな経験をもらうこともできる。

でもこのときの状態でそれをやってしまうと、「自分を支えるもの」を一つ増やすだけで、「自分を埋める」ことにならないかもしれない。きちんと自分を埋めてから、その先に、子供なり仕事なり友人なりと、「自分がやりたいこと」をしていくのが健全な人生を歩んでいく上で大事だと考えた。人生の手順を順に踏むのではなく、自分がやりたい人生を。

もちろん結婚して配偶者を得え子供を得て、その関わりの中で自分を回復していくということもできる。自分に「毒親育ちである」という自覚があれば。カウンセラーにもそう言われた。でもこのときの私にとっては、夫も私も回復途中という段階で子供を持ってしまったら、どんどん悪い方向へ向かってしまうだけなのではないかという恐怖が拭えなかった。そんな中で子供を持ったとしても、不安で自分がつぶれてしまうと思ったのだ。

そんなことでは心身ともに健康な人間を育てられるわけがない、と思った。自分一人だって安心して存在していられないのに、その上にもっと不安なものを担げるわけがない。これで夫が安定型ならまだいいけれど、夫などもっと不安定な存在だった。これでは無理だと感じるのは当然だった。

なにより、自分は子供がほしいわけではない。なぜそこを無視してしまうのか。馬鹿だ。

それならば、「今はいらない」でいいではないか。

ということで、もう子供とか考えないことにした。それまでも、考えなくていいと思っていた。でもやはり新しい年になり、新しい季節になって、焦りが出てきてしまったのだろう。なにかしなくては、次に進まなくては、と。

とにかく、自分を埋めること、自分の人生を回復することに集中しようと思い直した。回復した後に、子供がほしいと思ったらそれでいいし、年齢的に無理になっていたらもうしかたがない。無理になっていたとしても、回復さえしていれば、他に楽しい道を見つけられるだろう。だからけっきょく、焦る理由はなにもないのだ。

今を生きる」。それだけだった。

そう思ったら、なんだか少しずつラクになってきた。もちろん焦りはどこかしらにあった。試しに子供がいない人たちの話をネットで見てみると、理由はそれぞれだけれど思ったよりもたくさんいて、それも全然ありなんだなと思うようになってきた。イギリスでは特に、未婚だから子供がいないからでなにか言われることもない。今のメイ首相も、子供のいない既婚者だ。

子供を持っても、親の自分より早く亡くされた人もいた。夫だって、自分だって、同じだなと思った。結婚して一緒に暮らしているけれど、なにかあってお互いを亡くしてしまうことだってないとは限らない。なにかを支えにして生きることも幸せではあるだろうけれど、まずやはり自分を埋めてからの話だと思った。

子供より、夫より、仕事より、まず自分だ。自分がなにをしたいかだ。今はもうそれでいい。とにかく自分が回復しないと、なにも始まらない。年齢は失ったけれど、得られたものはたくさんある。それを大事にしていこうと思った。

人生はすべてオリジナル。私は私の人生を歩むしかできないのだ。そう思った。

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十分味わう

このころずっと落ちていて、ランニングもヨガもメディテーションもできず、毎日家でどよーんとしながらダラダラしていた。本当に、もうなにもやる気が起きなかった

朝、夫を送り出すまではよかった。でもそこからぼーっとネットで動画を見たり、中国製の安いカップ麺を食べたり、またぼーっとしたり。こういう時期はそれまでにもたまにあったけれど、またかと思うと憂鬱になった。でも本当になにもできない。少しのポジティブな考えも生まれないし、外にも出れない。

しかたがないから、家でぼーっとする。ものすごくもったいなくて、ものすごく焦る。でもやはりなにもやる気にならない。その繰り返し。暗い穴の底でもがいていた。

でも、ふと思った。こんなことになっているというのは、たぶん、ネットに見なければならないものがあるのではないかと。

いつもの私なら、ランニングやヨガ、部屋のここをこうしてとか、この料理作ってみたいとか、お菓子焼こうとか、絶対なにかある。でもあんなに気持ちよくやっていたヨガもまったくやる気にならず、ジャンクフードを食べまくり、それでぼーっとネットを見まくる。ほぼ別人になっている。もしかしたら、それにはなにか理由があるのではと。

きっとここになにか見なければならないものがあるのだ。得なければならない情報なども。そう思ったら、なんとそれが治まってきた。いつもならもっと時間がかかるのだけれど、このときは三週間くらいで治まった。早かった。

となると、このときに得たものはなんだったのか。

このときに見ていたのは、イッテQ!や世界仰天ニュース、特命リサーチ、ニュース番組の特集などだったのだけれど、どれも一見関係なさそうに見えたけれど、それぞれに心に刺さるものがあったのだ。人生についてや、人間関係、社会の仕組みなど、そのときに考えていたことに関連するようなものばかりだった。ただただぼーっと見ていたのだけれど、たぶん頭で認識できないレベルでいろいろなものを得ていたのだろうと思う。

別のときなど、X FactorsやBritains Got Talentなどのオーディション番組を山のように見ていたこともあった。人が本当の自分を出して認められたところを見ながら、感動して泣いていた。毎日のように。夫が帰ってくる前に、泣いていた顔をどうにかしておかなければと思うほどだった。今思えば、これも、そのとき必要なことだったのだと思う。自分に重ねて感動を味わい、涙をたくさん流すことが。

そうやって、「こんなことをしていては駄目だ」と罪悪感を抱かず、自分のやっていることを「これでいいのだ」と受け入れることによって、その行為が治まってくる。駄目だ駄目だと思っているうちは、治まらない。それを十分味わっていないからだ。十分味わうことで、前に進んで行くことができるようになる。

これはのちに、心屋認定講師のでこさんの記事を読んでわかるようになった。

何もしたくない。ずっと寝ていたい 私はどうすればいいの?【心屋仁之助 塾】
https://woman.excite.co.jp/article/lifestyle/rid_E1461849166172/

15年うつで寝たきりだったでこさんが、起き上がれるようになった理由。それは、思いっきり寝込んだことだった。「これじゃダメだ、これじゃダメだ」と寝ていた15年間は、寝ていてもちっとも休まらなかった。「寝てばかりじゃダメ」を「寝てばかりでもいい」にすることで、起き上がれるようになったとのこと。

「寝たい」と思っていても「寝ていたら駄目だ」と思うから、「寝る」を十分味わえない。十分味わえないということは、「寝たい」と思っている自分を否定しているということ。「寝たい」でいいのだと思い、「寝たい」という自分を肯定する。するときちんと寝れる。「寝る」を十分味わえる。すると治まる。十分寝れたからだ。

これは「自分を受け入れる」ということだ。自分がなにをしたいと思っていても、受け入れる。どんな自分でも、受け入れる。

仕事のできる自分でなければならない、正しい親でなければならないと、「こうあるべき」を抱え込んでいてはこれができない。自分の気持ちを把握し、それを受け入れる。まずは今の「できていない自分」を受け入れること。そうすることでしか、その先には進めない。できるようにはなっていかない。

生産的なことができず、ぼーっとネットを見るだけの日々。それでいいのだ。そう受け入れられたことによって、その先に進んで行くことができるようになった。

このとき以来、またなにもしたくない時期がやってきたら、「なにもしたくない」をとことん味わうようになった。また、なにか進めていない気がするときは、自分の気持ちをよく見つめて見る。そこで味わえていないものがあるのか探してみて、それをとことん実行する。

自分を受け入れるには、まず自分の気持ちを把握することがもっとも重要だ。自分の気持ちがわからなかったら、受け入れるもなにもない。「寝たい」と思っている自分を把握しないと、「寝込む」を十分実行することはできない。

これはもちろんカウンセリングの中で自分の気持ちについてもやったけれど、「ヨガで夢について話す」で書いたように、ヨガのセッションの最初にいつも自分の気持ちについて話させられたことがいい訓練になった。今でも自分がよくわからなくなったときや、なんでもないときでも、感じていることをどんな小さいことでも次々と書き出してみる。書き出した項目を、似たようなものを線でつなげてみたりして、どうなっているのかを分析してみる。

もちろん、ネガティブな気持ちも無視しない。「こんなこと思っていてはいけない」と思わず、なんでも書き出す。差別的だなと思うことでも、社会的に駄目だろうと思うことでも。「こんなことを思っていたのか」とびっくりする。でも書き出したこと=存在を認めたことによってそれが治まっていったり、原因に気づくことによって治まっていったりする。

治まるということは、受け入れられたということだ。気持ちの存在が認められたということだ。「Authenticに生きた」でも書いた、「怒りは認識されると治まる」と同じだ。気持ちは、認識されないと「どんどん主張しなければ」となり大きくなっていく。認識されると治まる。

スピリチュアルカウンセリングの「自分の気持ちの把握」でも、書き出す手法を教わっていた。前世療法後のカウンセリングでも「判断してはいけない」、観察することと教わっていた。やっとそれらがつながってきたころだった。

自分を知る

自分がないということ」で読んだ空っぽの核を埋めるために、自分の構成を書き出してみた。「好きなことをする」ようにアドバイスしてもらったことも思い出した。

この少し前に、新しい友人を見つけたくて、「Meetup(www.meetup.com)」というサイトにサインアップしてみていた。住んでいるエリア興味のあるものを登録しておくと、それに関する集まりがあると知らせてくれるもの。たとえば「ヨガ」で登録しておくと、ヨガをやっている団体やレッスン、瞑想やお茶会など、ヨガに関するグループとイベントをリストアップしてくれる。

登録したときに、自分が興味のあるもののボタンを次々押してみたのだけれど、どれもこれも一貫性がなく、なんなのだろうと思った。「文化」と「言語」ならまだいいけれど、「興味のあることをやってみる」で書いたようなズンバとヘブライ語や、ヨガとクラブのようになると、「この人いったいなんだろう?」と思う。「本当はなんなの?」と。

きれいに分けられなくて、気持ちが悪かった。昔は、その場その場で一貫性を持たせるようなことをわざわざしていたと思った。この場では「ヨガ好き」で通して、別の場では「クラブ好き」で通す、など。そういう感じで、自分を変えてやりくりしていたような気がした。

でも。一貫性のないいろいろなものに興味があるのが、「」なのだ。全部、私なのだ。クラブも好きだし、ヘブライ語も勉強している、ヨガで精神統一もやっているし、カラオケで大騒ぎするのも好き。別に、一貫性などなくともいいのだ。なんなら全部、「私」ということで一貫しているではないか。

気持ち悪いと思うのは、毒親育ちの特徴、「白黒つけたがる」「完璧を求める」「すぐカテゴライズする」「決めつける」なのだろうと思った。きれいになっていないと、気が済まない。バーチャルで、現実離れしている。世の中の大部分はグレーでできているのが現実なのに。

バラバラだと思っていた私の興味のあることを、なぜ興味があるのか、なぜ好きなのか、どういう意図なのか、で分けてみた。そうやって見てみると、私は「発見」が好きなのかもしれないと思った。そんなこと、それまで思いもしなかった。

でもこうして記事を書いていることも、すべてそうだった。発見して、それを記録している。カウンセリングで発見したこと、日々の中でそれを実感したこと、言われたことを実践してみてわかったこと、などなど。人にその発見を見てもらいたいこともあるけれど、なによりも自分がその発見に驚き楽しんでいた。その驚きを記録しているのだ。

もっとも好きなのは、一見なんの関係性もないようなところに関連性を発見したり、逆に関連性があるものの中にまったく違うところを見つけたりすることだった。たとえば仕事で、毎年8月は売り上げがいいのに、なぜ去年だけこんなにも下がってしまったのか?を考えたり。去年の8月は雨の日がやたら多かったから、外に出かける人が少なかったのではないかとか、テロの影響ではないかとか、一見なんの関係もないところが線で結ばれるとおもしろく感じる。

今これを書いていて、子供のころからずっと推理小説が好きだったのも、これの延長だということに気づいた。びっくりした。今こうしてカウンセリングに関する記事を書いているのも、同じだ。自分のちょっとした考えや気持ちや言動が、一見なんの関係もなさそうな様々な要因から成り立っている。それを解き明かしていく楽しさ。発見と驚き。

このときはこうして4つに分けたけれど、もしかしたら今後これより他のカテゴリーも出てくるかもしれない。でもそれをこの4つのどこかに当てはめるのではなく、そのときは現実に即してカテゴリーを一つ増やせばいいのだ。それが現実を生きるということだ。

現実に忠実に。そこから見えてくるものがあったのだ。