自己解決

自分の気持ちを言っていい

時系列で書いているカウンセリングの記事(三年前の話)とは別の、「カテゴリー99 現在の状況」です。


うちにはフェイスタオルが二種類あって、一つは私が外出時に持ち歩く見た目のいいもの、もう一つは夫が顔を拭いたりするときに使うシンプルなもの、になっている。先日「TK MAXX」という激安店でOrla Kielyのかわいいタオルが売っていたので購入し、「これは私が使う用ね」としまっておいた。

数日後の夜、その新しいタオルが無残にも使われてくしゃくしゃになり、洗濯かごの中に入っているのを見た。まだ買ったばかりで、使っていない新品のタオル。Orla Kielyのタオル。頭にきた。

なぜこれを使ったのか、古いタオルを使わなかったのか、夫を問い詰めた。同時に、夫が手に取りやすいように古いタオルを上にして置いておかなかった自分にも腹が立った。でも、まさか使われるとは思わなかったのだ。それくらいわかっているだろうと思っていた。

私も最初は、なぜ自分がこんなにも腹が立つのかわかっていなかった。夫が謝るのに、気持ちが緩んでいかない。逆にどんどん悪化していく。「古い硬いタオルじゃ嫌だったんだ、新しい柔らかいタオルを使いたかった」「ごめんね、本当に馬鹿だった」と言い、洗うからと言って、洗面所で石鹸で洗って物干しに干してくれた。それでも気持ちがおさまらない。

そこでやっと、「これはどいういうことだろう」と考え始められるようになった。自分の中でなにが起こっているか、現状把握だ。私の地雷は「わかってもらえていない」と感じること。このころすっかり忘れていたけれど、これもカウンセリングでやった。

私に必要なのは「謝罪」ではなく、「理解」。

謝られると、「それをなかったことにしようとしている」と感じてしまう。使ってしまったタオルを洗ってほしいわけではなかった。そうして夫にバツを与えるようなことでは、気持ちは落ち着いていかない。洗ってしまうことでなおさら、「なかったこと」にされようとしていると感じてしまう。

こういうとき夫の古い癖では、「わかっていたのに馬鹿なことをした」と自分を下げ、私を上げて、どうにかおさめようとしてくる。たぶんこれも子供のころに身につけたサバイバルテクニックなのだろう。だが、私にとってそれは逆効果になる。私は自分を上げてもらって優越感を感じ、落ち着くタイプではない。私にしてみると、そうやってご機嫌をとって、理解せず、うやむやにしようとしていると感じてしまうのだ。

もう最近では私がこう説明しようとすれば理解を始めるようになった夫も、夜遅く疲れていたのもあって、昔のように逆ギレしてきた。私の方を見ず、どこか一点を見つめて、「俺は悪くない!」「こんなタオル一枚使ったくらいで責められるのはおかしい!」「疲れて帰ってきてタオル一枚でこんな目にあって!」「こんなことは間違っている!」と怒涛のように自分に向かって言い聞かせ始めた。「あんこ事件、その3」でも出た、「Defensiveモード」の発動だ。

こんなとき以前の私だったら、きちんと理解してくれるまで寝ることができなかった。傷つきながらも、理解してくれるまで何時間もかけて夫のポイントを崩し続けた。その話の中でふと夫が気づくときがやってきて、それでまとまってやっと寝れるというのが、カウンセリング後一年ほどのパターンだった。

けれど、このときは違っていた。きちんと理解してほしいとは思ったけれど、寝ることができたのだ。

理由には、二つある。一つは、私の人生に夫以外のものが増えていたことだ。夫だけが私の人生ではなくなっていた。夫だけが頼りではなくなっていた。私にはいろいろとやり始めたことがあって、自分の人生が増えてきていた。夫は「その中の一つ」となっていて、そこが崩れても大丈夫になっていたのだ。

自分がないということ」の花の図の通りでもあった。以前は自分がなかったから、夫や仕事、友人、自分が人の役に立つこと、人から有益だと思われることなどで補い、自分を支えていた。でも自分の核が育ってきたから、花びらが崩れたり欠けたりしても、また花びらをつけていけるようになったのだ。

もう一つは、「夫は疲れてわけがわからなくなっている、普通のときに話せば理解できる」という自信がついていたことだ。今まで何度もこれをやってきた。その度に、夫は理解してきたではないかと。このころにはもう日常的に起こる少しのことでは喧嘩にもならず、その場で解説して終わりということばかりになってきていた。

あんこ事件、その3」のときはまだ不安でしかたがなく、解決に一週間を要したけれど(もっと昔は一か月かかったこともある)、今回はあんなにもならないと感じていた。本当にただ疲れているだけで、普通のときにほんのちょっと説明すればわかるだろうと感じていたのだ。

翌日の朝、夫はなにも言わずに家を出た。私も見送りをしなかった。以前の私だったら、それがもう不安で不安でしかたがなかったけれど、今回はまったく平気だった。まったく普通に一日を過ごした。これは本当にすごい進歩だと思った。以前、一番ひどいときは「あの世とこの世の狭間」で書いた通りだ。これはもう別人だ。

夫が帰宅してきて、荷物を置くとすぐに私に話しかけてきた。ここで少しでも躊躇し先延ばしにするとよけい苦しくなっていくと、夫も学習している。私も、夫が話しかけてきたら逃げずにきちんと聞いてやることで、また次のときに夫が話しかけやすくなると学習している。

夫はすぐに謝った。「疲れていて、暗い中で自分のタオルを探す手間を省いてしまったのだ」と。「わかっていたけど使ってしまった」「疲れていたから正直に謝れなかった」と。

やっと「謝った」と感じた。

柔らかいタオルがいいだのということは、言いわけだ。自分がしたことに対して謝っていない。わかっていたけれどやってしまった、それはなぜか。そこをまったく説明していない。

硬いタオルがどうのではない、わかっていたのに馬鹿なことをしたのではない。「疲れていた」のだ。だから一番上にあったタオルを取って済ませてしまった。自分のタオルを探すべきだということはわかっていたけれど、しなかった。疲れていたからだ。

「疲れていたから使っちゃった、ごめん」と言われれば、「しょうがない」で済むではないか。それだけのことが言えなかったために、こんな喧嘩になってしまったのだ。

でも夫は、そんな「自分の勝手な都合」が考慮されると思っていない。自分の都合などなく、親の都合に振り回されて育ったからだ。だからそれを言えずに、硬いタオルが嫌だった、馬鹿なことをしたと、まったく別の理由を持ってくる。そして空っぽな謝罪を口にする。私にはその「空っぽ」がわかる。だから「ごまかそうとしている」「理解していない」「口ばかり」と怒りが出る。

「気持ち」というのは、目に見えないから把握しづらいけれど、きちんと存在している。というより、人間はこの「気持ち」でできている。だからこれを無視すると、様々なことがうまくいかなくなる。

夫は「自分のタオルを探すべき()」と「疲れているから適当なものを使いたい(気持ち)」の間に挟まれていた。気持ちを無視して自分のタオルを探していたら、私を怒らせなかったとしても、心身ともにもっと疲れただろう。だからそうしなかった。

でもその理由として「柔らかいタオルを使いたかった」とをついた。しっくりこない。だったら私が新しいタオルを買ったときに「俺もほしい」と言うだろう。柔らかいタオルがいいなんて、今まで聞いたこともない。こんなときに言い出すなんて、おかしい。だから「謝りたくないのだ」「ごまかそうとしている」と思われる。

「自分の気持ちを言っていいのだ」「というより、自分の気持ちを言ったほうがすべてが丸くおさまるのだ」と夫は学習する必要がある。自分の都合を言っていいのだ、と。自分の都合は考慮されて当然なのだ、と。

お互いで都合を言い合わないと、本当に必要な策が見つからない。その場しのぎの短絡的な小細工などしても意味がない。ものごとを解決するということ、それには本当のことを言い合うことが必須になる。それには無意識に自分の気持ちを抑え込む癖を外していく必要がある。

今回のことで、カウンセリングでやったことをまた思い出すことができた。なにごとも、繰り返しだ。そうして身になっていく。書いておいて、忘れないようにしたいと思う。

・ほしいのは、謝罪ではなく、理解。
・自分の気持ちを言っていい。

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あんこ事件、その3

この事件、まず原因として、以下の二点が挙げられる。

1)私の中の抑圧された怒り
2)批判されることに対する夫の「Defensiveモード」の発動

1)は、「あんこ事件、その1」にも書いた通り、言いたいことを言えなかったという子供のころの経験にもとづいている。これにはだいたい、

①言いたいことを押し込めることで、生存環境を確保する
②言ってもなにも変えることができなかった経験から、言わないようにすることを身につけた

という二つの理由があるだろう。

①については、子供には「親に愛されたい」という本能がある。親に好かれたいために、自分の言いたいことよりも親の気持ちを優先する。「日本で潜在意識に働きかける」に書いたように、私が母親に対して駆け寄りたい気持ちを我慢していたことがこれに当たる。

またこの「親に愛されたい」という本能は、自分の生命を維持するために必要なことでもある。子供は一人で生きていくことができないからだ。「親に嫌われたら放り出されて生きていけない」という生命の根源に関する恐怖心から、親に好かれることで自分の生存を確実なものにしようとする。親に対する安心感の欠如は、このような形で出てくる。だから親に対してギャーギャー騒いでいるような子を見るたびに、安心感がきちんとある健全な子供なのだなと思う。

こうして、親の愛情を求める気持ち、自分の言いたいことを押し込めることで親に好かれ、「家庭」という自分が生きていくために必要な環境をより確実なものにしていきたいということから、「自分の言いたいことを言わない」というサバイバルテクニックを身につけたと考えられる。

②も同様に、「言いたいことを言わない」というサバイバルテクニックになるが、こちらは言いたいことを言っても満足のいく結果を得られなかったという経験、もしくは逆に大きく傷つくことになったという経験からきている。

言いたいことを言っても聞いてもらえなかった、もしくはよりひどい事態が返されたとなると、そのうち「これなら言わないほうがましだ」と子供は学習する。というのも、それでも言い続けてしまった場合、生きていけないほど傷つくことになるからだ。それを避けるために人間の自己防衛機能が働き、「言わない」ということを身につける。

この①と②によって、言いたいことを言えなくなったのが私の中にある問題だ。子供のころはそうしないと生きていけなかった、生きていくために必要だったテクニックだけれど、大人になった今となっては人との円滑なコミュニケーションを妨害してしまう。これに気づき、子供のころの言いたいことが言えなかった自分を癒やすことが必要になる。「ありがとう、おかげで生き残れたよ、今はもう必要がないから、大丈夫だよ」と。

癒せてきてはいるものの、人間だからたまにこれが出てしまうことがある。今回はまさにそうだったのだろう。最近夫にかなりいろいろ言ってしまっているなと感じていたこと、そして夫の冬休み最終日ということが重なり、言えなくなっていたと考えられる。

2)については、過去のカウンセリングの記事に詳しく書くつもりではあるけれど、夫には人から批判されることにトリガーがある。そういう場面に出くわしたり、また相手は批判するつもりなどまったくないのに勝手に「批判される」と感じてしまうこともあり、過剰防衛に走る。これを英語で「Defensive(ディフェンシブ)」と言うので、「Defensiveモード」と名前をつけている。

この「Defensiveモード」が発動したときは、なにを言っても「批判してくる」と完全に思い込んでいるため、とにかく反論して打ち負かすことだけに全力を注いでくる。釘だらけの壁が背中に迫ってきているかのように、必死だ。夫が言うことをまともに言い返しても意味が無いので、これが出てくると話ができない。

これも子供のころに身につけたサバイバルテクニックであり、自分の中にまだいる子供の自分を癒すことで回復していく。また勝手に反応せず、一度間をおいて、相手がなにを言いたいのかに集中することが必要になる。最後まで聞いてみれば、相手に批判するつもりなどさらさらなく、逆に相手が自分をほめようとしていることだってある。「なーんだ」と思う経験の積み重ねで、回復していくことができる。

カウンセリングをやってからもうずっとこれが発動することはなかったのに、また突然起こるようになってきた。この原因はあとになってわかってくるけれど、このときはなぜこれがまた出てきたのかよくわからなかった。

そして、これの対処方法としては以下の通りとなる。

1)私の中の抑圧された怒りの原因を探り対処する
2)「Defensiveモード」の解除

1)については、「あんこ事件、その2」に書いた通り、怒りの下に隠れているもう一つの感情に光を当てる。二次感情である「怒り」について話していても拉致はあかない。その下に隠れている一次感情に気づくことが重要となる。

今回の場合、私は「親に好かれたい」をに対してやってしまっていたことになる。夫に好かれたいため、嫌なことを言いたくなかった。そしてそれがわかってもらえなかったため、気持ちを汲んでもらえなかったために、「悲しみ」が出た。その「悲しみ」が膨れ上がってどうしようもなくなり、このままでは自分の生存を脅かす危険がある、つまり「傷つきすぎて生きていけない」となるのを防ぐために、人間の防衛本能でそれを「怒り」に変える。

なので表面に出ている「怒り」ではなく、その下に隠れている「悲しみ」に光を当てて、その気持ちを自分や相手に汲んでもらうことが必要となる。それを私は自分でやってのけた。素晴らしい。本来なら、これを一緒にカウンセリングで勉強した夫がやってくれるべきことなのだ。でもその夫が「Defensiveモード」を発動しており、使えないばかりか逆のことをしてさらに私を追い詰める。本当にクソ男だと思う。

なので、2)が必要になる。私は1)をやりつつ、2)もやらなければならないのだ。自分が傷ついているときに。どれだけ大変なことか。車でひかれたのに加害者が「お前がそこにいるから悪いのだ」と怒っていて、それをなだめつつ、「そこにいて申し訳ありませんでした」と私が慰謝料を払い、自力で病院に向かってさらに自分で手術をするようなものだ。

これが本当につらい。夫も自分で自分をどうにかできるようにと、カウンセリングでやったのだ。そしてそれができるようになって本当に助かり、これなら一緒に生きていけると思ったのだ。それがまたこんな事態になった。

人間だから、一度できるようになったとしてもまたたまに後退することもあるだろうし、しかたのないことなのかもしれないと思っていた。でもそうではなかった。カウンセリングを経て、夫は大きく変わったのだ。それで普通に暮らせるようになっていた。でもとある原因があって、このときの夫はおかしくなっていた。それにやっと昨日気づいたので、これからはそうならないように気をつけていくこともできるようになった。

そこにたどり着くまでにまたいろいろあった。この「あんこ事件」は、その一連の流れの始まりだった。

あんこ事件、その2

夕食の支度を止めて、「なんでそういうことするの?」と言った。

夫が立ち上がり、こっちにやってきた。

いつもなら夫はここで話を聞いてくれるようになったのだけれど、このときはどういうわけか夫はDefensive(ディフェンシブ)になり、過剰防衛に走った。なにがそうさせたのかはわからない。怒った顔をしてぎゃーぎゃー言い始めた。Defensiveになったときの顔だった。

こういうときはなにを言っても、とんでもない理屈をつけて言い返してくる。「やられないように反撃すること」のみが目的になっているので、お互いの考えを話し合うなんてことはできない。だからまずはこの「Defensiveモード」をどう解くかにかかってくる。それがないと、なにを言っても無駄になる。

夫は普段なにも考えていないくせに、この「Defensiveモード」が発動したときだけはやたらと賢くなる。反撃に全身全霊をかけるからだ。相手の言うことを拾って、とにかく突けるところを突きまくる。これを英語でしてくるから、こちらは本当に疲弊する。昔は「私のことを考えてくれていない」ということで、死にたくもなった。

でもカウンセリングをやって、私も賢くなった。問題がどの辺りにあるのかがわかるようになっただけでも、突破口になる。さらにカウンセラーのやり口も自分で体験しているので、どういうことを言えば夫の「Defensiveモード」が解除されていくかという経験もつんでいる。

ただ、これを英語で、しかも自分が怒っているときに、淡々と分析しながら話をしていくのは至難の技だ。しかも相手からはどんどん矢が投げつけられてくる。それをかわすのではなく、問題点を探すためにそれを注意深く聞いていなければならない。それをしつつ、言わなければならないことも忘れずにいなければならない。これを英語で。死ぬ思いだ。

私はまず、「冬休みも最終日だから嫌なことを言いたくなかった」と伝えた。この休みの間中、夫が遅くまで起きていれば「そろそろ早く寝るように戻したほうがいい」だったり、家事を指示したり、いろいろなコントロールをしてきたような感覚があった。「言いすぎかな」という思いもあった。だから最終日くらい嫌なことを言わずに、楽しく過ごさせてやりたかった、その気持をわかってほしいと伝えた。

すると夫は、「自分が嫌な思いをするかどうかはわからないではないか」とアホなことを言ってきた。そうやって「こんなことを言ったら嫌な思いをする」「夫は怒るだろう」という思い込みがおかしいと。以前の自分とは違う、もうそんなことで怒るような人間ではない、言ってみて自分がどう反応するか見たっていいじゃないか、どうしてチャンスをくれないのだ、だいたいどう思われようと自分の意見を言うべきだと。まさにカウンセリングでやったことを使って、自分のいいようにすべて私のせいにしてくる。

だいたいため息を何度もついたりして、「怒っています」アピールをするくせになにも言わない、こうやって自分が「どうしたの?」と話しかけてきてやらないとなにも言い出さないではないか、と更なるダメ押しをしてきた。こういうときは本当にクソ男だ。

なにを言っても返してくる。こういうときは、わざとらしく夫の意見を復唱する。

「そうね、じゃあ全部私が悪いね」
「チャンスをあげない私が悪いよね」
「自分の意見を言わない私が悪いよね」
「冬休み最終日に嫌な思いをさせたくないっていう私が悪いよね」

すると夫が嫌な顔をして一瞬黙る。そこを突く。

「何時間もかけて作ったものを台無しにされたのは私だ」
「怒るのは私だ」
「『意見を言うべきだ』の前に、『どうして私が言えなかったのか』を理解するべきだ」
「そうでなければそこから進めない」

「あなたのことが好きで大事だから、嫌な思いをさせたり怒らせたりするようなことが言えなかった、その気持ちをわかってほしい、それが怒りの下に隠れている」分析した通りにそう言った。

「怒り」というのは二次感情で、ある感情が膨れ上がりすぎて手に負えなくなったときに「怒り」に変換するとカウンセリングで習った。このとき私の「怒り」の下にあったのは、「悲しみ」だ。ここまでリアルタイムで認識していた私は、本当に素晴らしいと思う。夫が同じ状況でここまで分析できることはない。素晴らしい、私。素晴らしい、自分。

そうして自分を褒め、自己肯定感を持ちつつ、夫になにを言われても「気持ちをわかってほしい」と繰り返し続けた。これからどうするかは次の話、まず言えなかった私の気持ちがどういうものだったか、そこを理解しないと先へは進めない。なにを言われても、そう返し続けた。

だが突然、夫は泣き始めた。「自分のことが好きだから怒らせたくない」というのが、あまりにも残酷なように思えたらしい。「そんな人生はつらすぎる」「そんな風に一生を過ごすなんてやめてくれ」と泣いた。夫の中にも同じような経験があったのだろう。両親か義理のお父さんか、はたまた家族の誰かか。その人たちに迷惑な思いをかけたくない、そういう気持ちで自分を押し殺してきた経験があるのだろう。だからそこで涙が出てきたのだろうと思った。

じゃあそこは共感できるはずだ。だったら私が自分の気持を言いやすいように、こうして自分の気持ちを発表した際には、ぎゃーぎゃー言わずにきちんと聞け。

するとやっと夫が謝った。「ちゃんと話してほしい」、そう言ってきた。

それでもまだ「自分は変わったのだから、もうそんなことを言われても怒ったりしない」「チャンスをくれないのが悪い」と言ってきた。

チャンスをあげたからこうなったのだ」と私は言った。こういう衛生面に関することは、今までにも何度も話した。口をつけたスプーンをジャムの瓶に突っ込まない、あなたもわかってきてくれていると感じていたから、どうかなとは思ったけれど、チャンスをあげようと思った。

そう言うと、夫は「そしてそのチャンスを俺は無駄にしたわけだ」と言って、謝った。やっと、全面的に謝った。「Defensiveモード」が解除されたのだ。