スピリチュアルリーディング

十分味わう

このころずっと落ちていて、ランニングもヨガもメディテーションもできず、毎日家でどよーんとしながらダラダラしていた。本当に、もうなにもやる気が起きなかった

朝、夫を送り出すまではよかった。でもそこからぼーっとネットで動画を見たり、中国製の安いカップ麺を食べたり、またぼーっとしたり。こういう時期はそれまでにもたまにあったけれど、またかと思うと憂鬱になった。でも本当になにもできない。少しのポジティブな考えも生まれないし、外にも出れない。

しかたがないから、家でぼーっとする。ものすごくもったいなくて、ものすごく焦る。でもやはりなにもやる気にならない。その繰り返し。暗い穴の底でもがいていた。

でも、ふと思った。こんなことになっているというのは、たぶん、ネットに見なければならないものがあるのではないかと。

いつもの私なら、ランニングやヨガ、部屋のここをこうしてとか、この料理作ってみたいとか、お菓子焼こうとか、絶対なにかある。でもあんなに気持ちよくやっていたヨガもまったくやる気にならず、ジャンクフードを食べまくり、それでぼーっとネットを見まくる。ほぼ別人になっている。もしかしたら、それにはなにか理由があるのではと。

きっとここになにか見なければならないものがあるのだ。得なければならない情報なども。そう思ったら、なんとそれが治まってきた。いつもならもっと時間がかかるのだけれど、このときは三週間くらいで治まった。早かった。

となると、このときに得たものはなんだったのか。

このときに見ていたのは、イッテQ!や世界仰天ニュース、特命リサーチ、ニュース番組の特集などだったのだけれど、どれも一見関係なさそうに見えたけれど、それぞれに心に刺さるものがあったのだ。人生についてや、人間関係、社会の仕組みなど、そのときに考えていたことに関連するようなものばかりだった。ただただぼーっと見ていたのだけれど、たぶん頭で認識できないレベルでいろいろなものを得ていたのだろうと思う。

別のときなど、X FactorsやBritains Got Talentなどのオーディション番組を山のように見ていたこともあった。人が本当の自分を出して認められたところを見ながら、感動して泣いていた。毎日のように。夫が帰ってくる前に、泣いていた顔をどうにかしておかなければと思うほどだった。今思えば、これも、そのとき必要なことだったのだと思う。自分に重ねて感動を味わい、涙をたくさん流すことが。

そうやって、「こんなことをしていては駄目だ」と罪悪感を抱かず、自分のやっていることを「これでいいのだ」と受け入れることによって、その行為が治まってくる。駄目だ駄目だと思っているうちは、治まらない。それを十分味わっていないからだ。十分味わうことで、前に進んで行くことができるようになる。

これはのちに、心屋認定講師のでこさんの記事を読んでわかるようになった。

何もしたくない。ずっと寝ていたい 私はどうすればいいの?【心屋仁之助 塾】
https://woman.excite.co.jp/article/lifestyle/rid_E1461849166172/

15年うつで寝たきりだったでこさんが、起き上がれるようになった理由。それは、思いっきり寝込んだことだった。「これじゃダメだ、これじゃダメだ」と寝ていた15年間は、寝ていてもちっとも休まらなかった。「寝てばかりじゃダメ」を「寝てばかりでもいい」にすることで、起き上がれるようになったとのこと。

「寝たい」と思っていても「寝ていたら駄目だ」と思うから、「寝る」を十分味わえない。十分味わえないということは、「寝たい」と思っている自分を否定しているということ。「寝たい」でいいのだと思い、「寝たい」という自分を肯定する。するときちんと寝れる。「寝る」を十分味わえる。すると治まる。十分寝れたからだ。

これは「自分を受け入れる」ということだ。自分がなにをしたいと思っていても、受け入れる。どんな自分でも、受け入れる。

仕事のできる自分でなければならない、正しい親でなければならないと、「こうあるべき」を抱え込んでいてはこれができない。自分の気持ちを把握し、それを受け入れる。まずは今の「できていない自分」を受け入れること。そうすることでしか、その先には進めない。できるようにはなっていかない。

生産的なことができず、ぼーっとネットを見るだけの日々。それでいいのだ。そう受け入れられたことによって、その先に進んで行くことができるようになった。

このとき以来、またなにもしたくない時期がやってきたら、「なにもしたくない」をとことん味わうようになった。また、なにか進めていない気がするときは、自分の気持ちをよく見つめて見る。そこで味わえていないものがあるのか探してみて、それをとことん実行する。

自分を受け入れるには、まず自分の気持ちを把握することがもっとも重要だ。自分の気持ちがわからなかったら、受け入れるもなにもない。「寝たい」と思っている自分を把握しないと、「寝込む」を十分実行することはできない。

これはもちろんカウンセリングの中で自分の気持ちについてもやったけれど、「ヨガで夢について話す」で書いたように、ヨガのセッションの最初にいつも自分の気持ちについて話させられたことがいい訓練になった。今でも自分がよくわからなくなったときや、なんでもないときでも、感じていることをどんな小さいことでも次々と書き出してみる。書き出した項目を、似たようなものを線でつなげてみたりして、どうなっているのかを分析してみる。

もちろん、ネガティブな気持ちも無視しない。「こんなこと思っていてはいけない」と思わず、なんでも書き出す。差別的だなと思うことでも、社会的に駄目だろうと思うことでも。「こんなことを思っていたのか」とびっくりする。でも書き出したこと=存在を認めたことによってそれが治まっていったり、原因に気づくことによって治まっていったりする。

治まるということは、受け入れられたということだ。気持ちの存在が認められたということだ。「Authenticに生きた」でも書いた、「怒りは認識されると治まる」と同じだ。気持ちは、認識されないと「どんどん主張しなければ」となり大きくなっていく。認識されると治まる。

スピリチュアルカウンセリングの「自分の気持ちの把握」でも、書き出す手法を教わっていた。前世療法後のカウンセリングでも「判断してはいけない」、観察することと教わっていた。やっとそれらがつながってきたころだった。

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自分の気持ちの把握

スピリチュアルカウンセリングの最後。

会社と交渉するに当たって、自分の中の「会社に求める条件」をリストにしてみることになったけれど、それプラス、社員の人に「社員になったらなにが違うのか」ということを聞いて情報を集めておくのもいいかもしれないと言われた。そしてそういうとき、女性だと感情が入ってしまったりその人の視点になってしまったりするので、事務的に答えてくれる男性がいいかもしれないと言われた。

でも、日本的な会社では、女性だけではなくみんな感情が入ってしまっているように感じていた。「日本的な会社が苦手な理由」でも書いた通り、自分と会社が一体となってしまっている発言が怖かった。そういう現象に囲まれていると、自分が信仰していない宗教団体で生活をしているようで、とても精神的に疲れてしまった。

そういう発言を聞くと気持ちがぐーっとなってしまうけれど、「そういうことなんだな」と理解する。それはなにをしても変わるものでもないし、私が変えなければいけないものでもない。ロンドンのインド人街のように、まったく異なる文化が存在しているけれど「そういう文化もあるんだな」と受け入れるように。

でもここでわかったことは、「そこでは私自身でいられないんだな」ということ。見えないエネルギーが合わなくて、自分の気持ちも隠していなければならないし、自分のアイデンティティが保てない。だからこれが体にも影響して、起き上がれなくなってしまったのだろう。

「ストレス」というよりは、「本当の自分でいられない」こと。それがとても苦痛だったのだろう、と言われた。人間は、アイデンティティが保てなくなるとこんなにもおかしくなってしまうものなのか。自分そのものであること、それをしっかりと持っていることは、こんなにも大事なことだったのだ。

人間は、心臓を動かせれば生きられるというような簡単な生き物ではなかった。

きっと毒親のもとに育ってしまった場合、この生きるためにもっとも大事なことを奪われている。だから自分が存在できなくなってしまって、なくなってしまうようなあの虚無感があるのだ。毒親が犯しているのは、人ひとりの存在を殺す大罪だ。

でもここで問題となってくるのは、「自分の気持ちにどこまで従ったらいいか」ということだった。例えば今回の状況でも、もしかしたらその会社で学ぶことがあるから「頑張り時」だったりするのかもしれないし、夫の仕事もなくなる予定なのに、延長せずに辞めてしまうのは「甘え」であるような気もする。

自分の気持ちと戦うべきなのか、気持ちに従うべきなのか、いつもわからない。判断基準は、いったいどこなのだろう。

ひとつは、体が今のように起き上がれなくなって教えてくれる。日本で生まれていたらある程度の基本のしつけだったり教養はどこかで経験しているので、甘えであることを心配しなくても大丈夫だと思う。

また、自分の中で「辞める」と決めたら「はーーーっ」と力が抜けてラクになれるのであったり、「要らない」と言われたらどんなにラクかと思うようだったら、「それだけ今の環境にいたくないのだ」ということがわかる。

なるほどと思った。確かに、それはとても明確ではっきりとした気持ちだ。こんなこともわからないなんて、自分で自分にびっくりした。

気持ちの把握には、思ったことを正直に、ノートに手で書きとめていくのがいい。例えば「このお花とてもきれいですね」と言われたときに、「そうですね」と答えるのは、大人のコミュニケーションとしては普通になる。でもそこで「そうですね」と口で言ってしまうと、自分も「きれいだ」と思ってしまっているような錯覚に陥るけれど、ノートには「そんなにきれいだと思えなかった」とちゃんと書いておく。

そうすることで、自分の気持ちがわからなくなってしまわないようにする。これを続けていくと、なにがなんだかわからなくなったときにふり返って読んでみれば、そこに原因がたくさん書いてあるようになる。

今回のことでも、正社員の話をもらったときに「ありがとうございます」と言ったけれど、それは好意を示してもらったのだからとても正しい。でも自分の中で「続けたくない」とか「続けられるかわからない」と思ったり、また友達から「よかったね!」と言われたけれどわかってもらえなくて「悲しかった」などがあったら、正直に思ったことを書き留めておく。

正直ノート」だ。

今回、頭と気持ちが離れてしまっていたから、それが体に出て、しばらく体調がよくわからなかったのだと思う。頭と心と体の三人が「自分」という家に帰ってきて、休みながらまとまって、正直なところを言い合う。「会社や社会ではこう言っていたけれど、気持ちはこう思っていたのだ」と言う。すると、体も心も「わかってくれたんだ!」と安心する。

気持ちを切り離さなきゃいけない(Disconnect)のではなく、分離しておく(Detached)。気持ちはちゃんとあって、バッグに入れて持っている。バッグは体からは離れているけれど、ちゃんと自分とともにある。家に帰ってきたら、バッグから出して身につけることもできる。

以前のカウンセリングでもやったけれど、自分がなく、人と自分の間に「人と人の境界線」が引けていなかった。人からなにか言われると、それが自分の意見になってしまっていた。そこにつながった。

でも、今回は会社の考えかたになってしまってはいなかった。はっきりとはわかっていなかったけれど、会社の考えかたとは違う気持ちが自分の中にあることにちゃんと気づいていて、だから苦しかったのだ。それでも、

①自分は「こう」思う
②でも会社では「こう」言う

この二つをまだ明確に分けることができず、ごちゃごちゃになってしまっていた。だから体や気持ちが納得していなかったのだ。

それプラス、契約があと残り数か月だということで大きな不安もあって、疲れてしまっていたのだろうと思う。頭も心も体も、みんな戻ってきて、休みながら今後のことを考える。今回は、ここでしっかり三者が戻ってくることが大事。

これからのことを不安に思っていても、具体的に方法を見つけてあげられたらとても健康的。「じゃあこれをしてあげようかな、どう思う?」と三者に聞く。「わかんないけど、それでいいんじゃない?」と言われたら、それでやってみる。実際に動いてみたときに嬉しくなったら、「心は喜んでいるんだな」ということで、よかったのだということがわかる。

そうしながら「これでいいのかな」と常に三者で話し合いながら、できる範囲で自分に少しずつ道を作っていってあげる。

まずは「休んでいいんだ」というところから始めてみましょうか、と言われた。本当にその通りだった。

ネゴシエーションの練習

スピリチュアルカウンセリングの続き。

仕事を満了後も延長してもらったほうが絶対いいのはわかっていたけれど、当時の精神状態では会社がどうしても合わなかった。でも、ずっと働きたい会社なら難しいかもしれないけれど、そうでないなら交渉してみたらどうかと言われた。確かに、あとから「交渉しておけばよかった」と思うのは残念だ。

交渉の前に、「こういうのだったらいいな」というのをリストにしておく。漠然として話をすると、あとで「こう言えばよかった」となってしまうので、自分の中で「希望」をまとめておく。この作業は今後においても役立つそうです。

今後これが役立つときがやってくるから、そのために今これを学んでおく時期ということなのだろうと思った。確かに、どうしても残りたい会社では交渉もしづらいだろう。そういうプレッシャーのないところで練習をするチャンスを与えられたのかもしれない。それでも境界線のない私にとってはとても難しいから、いい練習になるだろうことは間違いなかった。

ぼんやりしていると、やってくるものがあっても「うーん、行ってみようかなあ」「でもここに行くんだったら行きたくないなー」で終わってしまう。「あっちのほうに行きたい」「はっきりはわからないけど、あのあたり」というのを認識していれば、そこへ行くボートに乗れる。「この状況でこのままならいたくない」というのだから、「どう変わったら続けられるか?」を考える。

というように、自分の中である程度の条件をまとめておく。そうしないと「会社としてはどうしてくれるんですか?」と受動的になってしまう。

まさに、いつもの私がそうだった。

会社がどうなのか、人がどうなのか。相手をベースに「こうなったらこうする」「ああなったらこうする」と自分の選択肢を考えていた。会社や人がどうなのかわからないと自分のことも決められないから、相手のことを探るばかりでいつまでも落ち着かず、不安でいっぱいになってしまっていた。自分のことなのに、まったく主体的になれていなかった。

でも、だとするとどうやって考えたらいいかわからなかった。「自分を主体で」とは言っても、それができないからこういうことになっているのだ。

そうしたら「親友だったらどう言ってあげるか?」を考えるといい。「Kelokoさんはこう思っているから、じゃあKelokoさんのためにこう言ってあげよう」と。親友だったら、マネージャーだったら、自分の代わりに会社にどう言ってあげるかを考える。

これはとってもわかりやすかった。私も、人のことだったら順序立てて上手に考えることができる。

条件をリストにしておいて、話し合いのときに言ってみる。「◯◯って可能ですか?」と聞いてみて、「無理です」と言われるかもしれない。でも「今は難しいけど、将来的に考慮することはできます」と言われるかもしれない。どちらにしろ、可能性が「ある」のか「まったくない」のかを知ることができる。

「わかるけど、それは会社の中ではこうなんです」と言われるかもしれないし、「それは今までなかったけど、調べておきます」と言われるかもしれない。自分でも「これは言ってみるもんだな」という新しい発見もあるかもしれない。聞いてみないとわからない。

「こんなことを言ったら軽蔑しますよね?」と自分が思わないこと。思いにはエネルギーがあるので、そういう思いがあると伝わってしまって「今さらそんなことを言われても」と返ってきてしまう。心配だから難しいかもしれないけれど、そういうのをわざわざ流さないこと。

私はいつもそうだった。相手に都合を聞くだけのことを、勝手に「悪いな」と思ってしまっていた。または「自分は客観視ができている」というのを表すために、「難しいということはわかっているけど、念のため聞いてみたいんです」というスタンスで聞いてしまう。だから相手からは「期待」通りの「難しいです」という回答をもらってしまう。

特別難しいことでなくても、そういうスタンスで聞かれると人間は「難しい」と答えてしまうのだ。私が「それは難しい」という空気を、わざわざ自分から作ってしまっているからだった。わかってはいたのだけれど、どうしたらいいかわからなかった。

自分の都合を言って、相手の都合を聞くだけのことに、別に「客観視」なんてなくていいのだ。そもそも、生きていく上で「自分を客観視する」なんて、本来まったく必要のないことだった。これも、旧世代のバーチャルな考えかただ。「外から見て自分がどうなのか」ではなく、「自分がどう思っているのか」をきちんと把握して行動することが、人間には必要なのだ。

これもまた、毒親の元で育ったときにできてしまっただった。「私はわかっている」ということを、常に知らせておかないとならないと思っていた。でもそうやってきても毒親には私が「わかっている」のだということが理解されることはなかったし、私がラクになることはなかった。だったらやりかたを変えていかなければならない。

漠然と心配しているよりも、

 ①紙に具体的に条件を書き出す。
 ②今後の計画(今からここまでは聞いてみて判断する、納得できなかったらここで辞める、など)を決める。

「いつもしっかりしていなきゃ」ではなく、「足を進める前にやること」を練習する。これができると、「ある程度事前に決めておいてよかったな」となり、自信につながる経験にもなる。次からなにか話すことがあっても、ぼんやりではなくちゃんとフォーカスして話せるようになる。

確かに、これがうまくできるようになったら自信になるし、コツもつかめてだんだんと自然にできるようになってくるかもしれない。