カウンセリング(英人)

進歩を実感

オステオパシーの施術を受けたとき、一つ素晴らしい進歩に気づいた。

このセッションの目的は、「歯ぎしりの治療」と「リラックス」だった。ところが施術前の問診票には、具合が悪い身体の部分にもチェックを入れるようになっていたので、腰や首、背中などにもチェックを入れた。

すると、それを見た先生が「それでは足から始めて、腰をやりますね」と言ったのだ。

今回の目的は、歯ぎしりとリラックスだ。腰痛ではない。

そう思った瞬間、「腰ではなくて、リラックスを焦点に置きたいんです」と私はとっさに言った。

そう、とっさに言えたのだ。

たぶん以前だったら、ここで「腰を中心にやります」と言われても、そのままお願いしていただろう。「専門家が言うのだからそれでいいのだ」と自分に言い聞かせたり、「腰ではなくてリラックスをしにきたのに」と思っても言い出せなかったりした。それでもやもやしながら施術を受けて、最終的に偶然にも自分の満足いく結果が出ればいいのだけれど、そうでなかったときは「言えばよかった」と後悔しまくり、落ち込むのが常だった。

カウンセラーにこの話をすると、以前はそもそも「自分はリラックスをやりたいのだ」というところにも気づかなかったのではと。「腰をやりますね」と言われて、なんだかわからない不安感を抱えて始まり、結果がよければよくて、悪かったときは落ち込むと、そういうことだったのではないかと言われた。

たしかにそうだ。ここには、

①「自分はこれをしたいのだ」とわかること
②相手にそれを伝えることができること

二段階がある。以前は①ができていなかったので、②もできなかったのだろう。たぶん、最初から①ができていれば、②もできていた可能性がある。だからまず問題なのは①、以前は「自分がなにを求めているか」がわからなかったのだ。

①ができていなかった原因はもちろん、親にそうされてきたからだ。親(人、相手)がしたいことを優先させてきたために、自分がなにをしたいのか、なにを求めているのかがまったくわからなくなっていた。「人といるとなぜ疲れてしまうのか」でも書いた通り、人と自分のどちらの主語で話しているのかわからなくなっていた状態だ。

人間だれしも最初は、ちゃんと「こうしたい」というのがある。でもそれを無視され続ける環境にいると、いずれ自らそれをすることをやめ、ついにはそれがあったことすら忘れる。さらにそれが進むと、自ら自分の気持ちを無視されることを期待して行動するようになる。そういう環境を自ら求めていくようになるらしい。

これが、ついこのころまでの私だった。

自分では気づけていなかったけれど、だれでも「自分の気持ち」はどこかにきちんと存在している。でもその存在に気づかないようになってしまっていたから、「相手の気持ち」の存在しか認識できず、それに沿う行動をとる。結果的に、「自分の気持ち」を無視していることになる。「わけもわからず傷つく毎日」で書いた通りだ。

「相手の気持ち」と「自分の気持ち」がたまたま合致しているときは問題ないのだけれど、そうではない場合、「なんだかわからないけれどもやもやする」というような状態になる。自覚なく「自分で自分を無視している」状態になっており、「よくわからないのだけれど落ち込む」ことになる。これが悪化すると、身体に出る。いわゆる「ストレスがたまって身体に出る」というやつだ。

たぶん、これがいわゆる「うつ」なのではないだろうか。「自分の気持ち」と「頭」と「言動」が一致していない不調和状態で出る、ガンのようなもの。

また、①ができていても、②をしない場合もある。

カウンセラーいわく、②の「自分の気持ちを相手に伝える」ができない場合というのは、「自分の気持ちは重要ではない」「自分はその場にEntitleされていない(エントリーされていない=権利がない)」と思い込んでいる場合に起きると。

父方の祖父母のところへ」行ったときの免許証事件のように、それまでずっと私の気持ちは親から無視されてきており、場をコントロールする権限が一切なかった。人権がなく、人として尊重されていなかったのだ。だから私は、嫌でも免許を親に貸さなければならなかった。私の免許証なのに、だ。

でも、もうそうではない。今は、子供のころとは違う。大人になった今、親にすがらなくても自分で生きていけているわけで、彼らの理不尽な要求を突き返しても、命に別状はない

解毒には、これを心の底から体感する必要があった。そうでないと、似たような状況になると同じ結果を招いてしまう。

親でなくとも、親のように自分に対して権威がある相手=先生や上司などを相手にしたときに、自動的に「子供の自分」が出てきてしまい、昔と同じ心理状態に陥り、同じことになってしまう。自分はその場で発言する権限がないと感じ、自分の気持ちを無視し、(相手が本当にそれを求めているかどうかは関係なく)相手がこれを求めていると思い込んでいることをやってしまう。それにより気持ちと頭が分離し、身体に影響が出る。

この癖から脱出するためには、まずこの仕組みを理解する必要があった。

子供のころはどんな理不尽なことでも、親に従わなければ生き残れなかった。親に従い親から好かれることが、生き延びるためにもっとも重要なことだったからだ。そういう環境から身についた癖が、「サバイバルテクニック」と言われる。だがもう時代は変わり、自分は大人に成長し、そういう昔のテクニックは必要がなくなった。しかも、昔は自分を生き延びさせたそのテクニックも、今では逆に自分の人生を生きにくくしてしまっている。

ここに気づくことが、スタートになる。

夫との間に起こっていたことは、まさにこれだったのだ。「自分はEntitleされていない」と思い込んでいるから、自分の気持ちを言えない。夫が自ら気づいてくれないと、怒りになる。自分の気持ちを汲んでくれないことを「無視されている」と感じて、自分を消したくなってしまう。というよりもまず、そもそも自分の気持ちがわかっていなかった。だから伝えることもできなかったのだ。

たぶんこれが、日本のように「お互いの都合を常に推測し合う」ことが前提とされている社会であれば、まあまあうまく回って生きていくことができていたのだろうと思う。でもそうではない社会に来れば、もちろん生きてはいけない。

というよりもたぶん、日本でももううまく回ってなどいないのだと思う。高度成長期のときのように、みんながうまくいっていてみんなが同じ生活をして同じ人生を目指し「こういうものだ」で生きていたときは、相手の意図をまだ把握しやすかったのだろうと思う。違っていたとしても「これが正解」と押しつけることもできただろう。みんながそう生きるものだという前提があったからだ。

だが経済も落ち込み、人々の生活も多様化してきた今では、自分と違う人間のことなどわかるわけもないし、「こういうもの」と押しつけられることも受け入れられない。「人と自分は違う」という前提で、お互いに口に出して伝える必要がある社会にどんどんなっている。というか、これからはそうしていかないと回らなくなっていくだろう。

カウンセリングでこの話をしたとき、夫も「そうそうそう!!」と激しくうなづいていだ。

たとえば、レストランに入る。私は、なにが食べたいのかわからない。でも、なにかいいものが食べたい。どれを頼むか、ものすごく迷う。いろいろ頭で考えて、「お店はこれが有名だ」とか、「ここに来たらこれを食べなければ」とかで、とりあえず絞って決める。出てきたものがたまたまそのときの私の気持ちに合っていれば大丈夫なのだけれど、そうでなかった場合はものすごくがっかりする。

同様に、なんらかのサービスを頼んでも、「自分はこうしたい」ということがわかっていないので、とりあえず基本的なものを頼んで、不安を抱えたまま最後まで待つ。でもやってきたものがまったく違ったりして、がっかりする。

この「最後まで待つ」というところが、ポイントだった。「出てきたものを見てみないと、それが自分が求めていたものかどうかわからない」から、最後まで待たなければならないのだ。自分がなを欲しているかが、わかっていないからだ。

だからこのとき先生にこう伝えられたのは、すごい進歩だった。「今日はリラックスをやりにきたのだ」「腰の治療なら鍼灸でやってもらえるから、オステオパシーではリラックスをやるのだ」ということがきちんとわかっていたのは、ものすごい快挙だった。症状をまとめて準備をしたのは、本当によかったと思った。

自分でもこのとき「ちょっと成長した」と思ったけれど、カウンセラーと話をしてみて、それがどれだけ快挙だったかがよくわかった。①自分の気持ちがわかっていて、 ②それをきちんと相手に伝えられた。心配を抱えたまま最後まで待ち続けて結果にがっかりするのではなく、最初から自分の心配を口にして、不安を解消することができた。これがまさに、「自分が状況をコントロールする」ということだった。

少しずつだけれど、確実に進んでいる。

「いつ終わるのだろう」
「本当に落ち着いた人生を生きられるようになるのだろうか」
「そんな日は本当にくるのだろうか」

と、どこまでも落ちっぱなしになることばかりだった。でもこうして進んでることが目に見えてくると、きっと落ちることも少なくなっていくのかもしれない。もしかしたら、本当に歯ぎしりも治って普通に生きられるような日がくるのかもしれない。

なんだか泣けてきた。希望が出てきたのだ。

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風船イメージ法

携帯の話のように、確保したにもかかわらず、ずっと頭から離れなくて不安でたまらないときの対処法。

①ヘリウムの入った風船をイメージして、そこにイメージで「携帯」と書くか、携帯の見た目を風船に描く。

②それを手放すところをイメージする。

これだけ。これだけ?と思うけれど、カウンセラーいわく、これがけっこう効くとのこと。なにか手放さなければいけない思念にはまってしまっているときに、今でも使ったりしている。

アダルト・チルドレン癒やしのワークブック」の中に出てきた「新しい過去を作るワーク」でもやったけれど、人のイメージの力というのは強い。人のメンタルというものは、意外にも単純なものだったりする。

他にも不安症のワークショップで習った「不安になってしまったら」のまとめや、カウンセラーから教わった「転換点を作るV音」もある。

一番簡単なのは「不安症対策の呼吸法」。深呼吸のやりかたなのだけれど、これでやるとゆっくり呼吸ができて深くなる。「心が開いた」でも書いたけれど、焦っているときというのは呼吸が浅くなっているので、呼吸を深くするだけでも全然違う。

カウンセラーに言われたことだけれど、落ち込んでいるときにはヨガなど体を動かすのがいい。でも体も動かせないほど落ち込むこともある。私も、ベッドの上で空を見上げていることしかできないこともあった。うつで何年も寝込んでいる人もいるだろう。そういうときでも、呼吸ならまだできる。「ヨガ開始」のころに習った「Bee Breath」など、ヨガにも様々な呼吸法があって、これもヨガの一つ。寝床でヨガもできるのだ。

のちのちヨガの「Ujjayi Breath(ウジャイ・ブレス)」というのを習って、今ではこれを一番よく使うようになった。自分に合ったものを用意しておいて、はまってしまったときに使う。最初のころはなかなか思いつかないのだけれど、やっているうちに「こういうときはこれ!」とすぐ思い出せるようになってくる。最初は壁に貼っておいてもいいかもしれない。そうやって対策を用意しておくことも、焦っても大丈夫なのだと安心につながっていった。

自分を許せない

人が言うことを信用できない」に続いて、自分に対しても問題を抱えていた。

カーシェアリングの車で旅行に出かけたときのこと。帰ってきて元の駐車場に止め、荷物を下ろし、帰宅。荷物をほどいてシャワーを浴びたりし、寝る前にアラームをセットしようとして、携帯がないことに気づいた。家の中を見てみるも、ない。

車に忘れたんだ!!!となり、パニックに。降りる前に一度見た。でもそこでいろいろやっていて、そのときどこかに置いてきたような気もする。それでそのまま持って出なかったのではないだろうか。

サーっと血の気が引く。

夫と携帯でロケーションシェアをしていたので、それで私の携帯がどこにあるか見てもらった。ばっちり駐車場にあることが表示されたので、すぐに取りに行って確保し、事なきを得た。

なのに、気持ちがまったく晴れていかない

駐車場にあることがわかったときに、夫はもうほっとしていた。なのに私は、本当に駐車場にあるのかこの目で見るまでまったく落ち着かなかった。さらには確保したあとでも、まだズドーンと落ち込んでいたのだ。

そんな馬鹿なことをした自分が許せなかった。一人で行くこともできず、夫に「申し訳ないけれど一緒に行ってもらってもいい?」と謝って一緒に来てもらった。夫ももうパジャマだったのに、自分もシャワー浴びたあとなのに、また着替えて出なくてはならないのが凹むし、本当に馬鹿なことをしたと許せなかった。

カウンセリングでこの話をしたところ、この「携帯の場所がわかってもまだ落ち込んでいた」というところが引っかかると言われた。夫いわく、ロケーションを調べたときに、それが道をどんどん遠ざかって動いていたら心配しただろうけれど、じっと動かずに駐車場を指していたから大丈夫だと思ったと。

でも私はそれでも心配で、早く取りに行かないとと思っていたし、確保できてからも落ちていた。これは確かにおかしい

私が心配していたのは、たぶん以下の4つになる。

1.携帯を、どこかわからないところに置いてきてしまったのかもしれない
(なんとなく車に置き忘れたことは覚えていたにもかかわらず)

2.もしかしたら、誰かがもう拾ってしまったのかもしれない
(駐車場を指してるけど、駐車場にいる誰かの手の中にあるのかもしれない)

3.車を開けたら、レンタル時間を延長されるのかもしれない
(あとで連絡を入れて事情を説明するということもできるはずだけど)

4.もう寝るところだったのに、着替えて出なきゃいけないなんて申し訳ない
(徒歩2分の駐車場に行くだけだけど)

4つとも、こうして書き出してみれば、別に心配する必要などどこにもないことだった。1や2のように現実的ではない心配をしたり、3のようにあとから補完できそうなことを心配したり、4のようにそんなに大ごとでもないことを申し訳なく思ったり。確かに自分でこう書き出してみても、必要のない心配だということは理解できた。

カウンセラーは、「では携帯をなくしたらどうなると思う?」と聞いてきた。情報を盗まれるとか、また買わなければならないとか、セッティングをしなければいけないなどと答えてみたけれど、どれも別に死ぬようなことではなかった。そう、死ぬようなことではなかったのだ。

そういうことを生死がかかっているがごとく心配してしまうのは、やはり安心感がないからなのだと思った。けっきょくのところ、「人が言うことを信用できない」と同じ原因だ。

普段でもそうだった。豆腐を落として床にぶちまけたり、胡椒の蓋がとれて調理中のフライパンに全胡椒をぶちまけたりすると、自分が終わったようにショックで動けなくなる。「大丈夫だよ」「掃除すればいいんだよ」と夫に言われても、立ち直れない。掃除しても豆腐を買い直してもショックが消えないということは、片付けるのが大変とか物理的な要因がショックになっているわけではない。そんなことをしてしまった自分にショックを受けているのだ。

カウンセラーが言うには、「子供の自分と大人の自分」でやったように、「大人の自分」はこんなことをしても大丈夫だということが頭でわかっているのだけれど、子供のころと同じ状況に出くわすと、私の中にいる「子供の自分」が出てきてしまって、自動的に当時の絶望的な気持ちになってしまうのだということだった。

これにはまず、今の自分はもう大人であり、どんな状況でも自分で対処できるから、不安に思うことなどないのだと認識するところからとのこと。「掃除をすれば大丈夫」「また作り直せば大丈夫」「この世の終わりではない」と。

私がパニックになってしまうのは、

「なにか大変なことが起こった」という昔に見知った状況に陥る
    ↓
自分の中にいる当時の「子供の自分」が出てきてしまう
    ↓
「子供の自分」は状況に対応できない
    ↓
パニックに陥る

というメカニズムだった。

今はもう大人であり、携帯をなくしたくらいで死ぬことはない。プロバイダに連絡を入れて、使えなくしてもらえばいい。出費は痛いけれど、新しいのを買えばいい。大人なのだから、なんでもできる。この世の終わりではないのだ。子供のころはなにもできなかったことだけれど、今はもう子供ではない。そう理解できれば、パニックになることもない。

カウンセラーいわく、不安な気持ちが出てきたときには、

①まずは、不安な気持ちが出てきていることに気づく
②この気持ちはなんなのか、不安なのか、怒りなのか、落ち込みなのか
③どうしてそう感じているのか

これを観察してみるといいと教えてくれた。私の場合はたぶん、行き着く先はどれも「安心感を持てない」になるのだろうけれど、それを認識することが重要だった。最初は気づくまでに時間がかかるだろうけれど、何回かやっているとすぐ理解できてきて不安感が払拭されるようになってくると。それでも払拭できなかったときの対処法も、合わせて教えてもらった。

こういうことがあってから、夫は私のこういう特性を学んで、私がこういうミスをするたびに「大丈夫」「片付ければ大丈夫」とことさら言い聞かせてくれるようになっていった。この問題に関して夫は自分のトラウマを刺激されることはなかったので、積極的にサポートしてくれた。もちろんトラウマが刺激される問題については、そんな簡単にはいかない。でもできるところからやってもらうのは、本当に助かった。