14 どんどん落ちていく

ミラーマン

このころ会社から、1年の産休カバー契約のあとに、正社員として残るつもりがあるかどうかを聞かれた。産休中の人が戻ってくるかどうかはわからないらしいけれど、それを聞かれたということは、そのオプションがまったくないわけではないということだった。

友人たちは、私の頑張りが認められたのだと「おめでとう!」「よかったね!」と言ってくれた。それを聞いて私はびっくりした。なぜかというと、私はその話があったときに激しく落ち込んだからだ。

なぜ落ち込んだのかというと、傷つく場所に「残る」という選択肢ができてしまったからだった。夫の仕事がない今、私に正社員の仕事ができたら助かる。残ればいいことは誰にでもわかる。でも残りたくない、これ以上傷つきたくない。いっそのこと、そんなオプションを提示なんてしないでほしい。そこまで思っていた。

でもその気持ちは誰にも理解してもらえなかった。物理的なものが見えないバーチャルな人もいたし、説明してもわかってくれずに私が謙遜してるだけなのだとただひたすら思い込んでいる人もいた。ますます世の中が恐ろしくなった。

私に残ってほしい理由が、私の仕事ぶりを評価してくれたのだと思えたり、産休中の人が戻るまでのつなぎなのだと思ったりして、気持ちがアップダウンの連続だった。「人前で話す」業務もしなくてよくなり、そこまで契約延長を拒む理由もなくなってしまった。偉そうな同僚を見ては嫌になったり、できる同僚を見ては一緒に仕事をしたい気持ちが出たりした。とにかく心が落ち着く暇がなく、きつかった。

今これを読んだらすぐにわかることだけれど、このときの私には「自分」がまるでなかった。親から「自分」を育ててもらえなかったからだ。いつも親や周りを考えて、それに合わせて行動するように訓練されてきたため、「自分」がどうしたいのかを考えることをしなくなり、ついには「自分」を失った。

だから、会社が私の仕事ぶりを評価してくれたら気持ちが上がるし、そうでないと自分の価値がないような気がして気持ちが下がった。優越感を味わうために私を見下してくるような同僚がいると凹まされたり、びっくりするほど仕事ができる同僚がいると「この人に認めてもらわなければ」と思ったりした。

自分に対する評価が、すべて「外的要因」で作られてしまっていたのだ。

以前のカウンセリングで仕事について聞かれたとき、好きか嫌いかすぐ答えられなかったことがあった。人からほめられたら楽しいし、誤解されたりミスを指摘されたら楽しくなかったから、一様にどうであるか答えることはできなかったからだ。

「仕事そのもの」ではなく「人からどう思われているか」で、仕事が楽しいか楽しくないかが決まってしまっていた。自分がその仕事をどう思うか、好きなことなのか苦手なことなのか、やっていて楽しいのかつまらないのか、どういう作業はすきだけどどういうことは嫌いなのか、まったくわからなかったのだ。

自分がまったくなかった。空っぽだった。でも当時はなにが起こっているのかわからなかったし、なんでこんなにもつらいのか、なぜこんなにも少しのことでアップダウンしてしまうのか、なにもかもがわからなかった。

会社がどう言おうと「自分がどうしたいのか」があればいいことだった。残るオプションを提示されても、自分がどうしたいのかに合わなければ辞める、合わせてもらえるなら続ける、どこまで合わせてもらえるのか、どこは無理なのか。そうして決めればいいことだった。会社がどうかということで、いちいち凹む必要はないのだ。

今までは、そうやって自分の思うことを言えない人のことを「なんでちゃんと言わないの」と責めていた。でも言えない人には言えない原因がある。自分がわからない人、わかっていても口にできない人、みんなそれぞれ違うブロックがある。そこを紐解かずに「言わないとだめだよ」と言うだけでは問題は解決しない。このときそこだけは学ぶことができた。

ダイエットも同じだ。人間、食べなければ痩せる。運動をすれば痩せる。でもただ「食べるな」「運動しろ」と言ってもできない。それは食べてしまうメンタルな原因、心理的ブロックがあるからだ。これを解かないことにはダイエットできない。一時的にはできても元に戻る。だからダイエットはなにも物理的な体の話ではなく、むしろメンタルの問題なのだ。

夫は短期フリーランスの仕事が順調ではあったものの、他にもいくつか面接を受けていた。できれば私に正社員になってほしいけれど、無理なら辞めてもいいし、新しい仕事だって見つかるよと言ってくれていた。でも本当にそう思っているなんて信じられないし、そんなにも都合よく見つかるなど思えなかった。

誰になにを言われても信じられず、本当にしんどかった。ミラーマンのように、私という「箱」だけがただそこにあるだけで、中身は空っぽでなにもなく、外側は鏡になっていて誰からも見えないし誰からの言葉も反射してしまうようだった。箱がそこにあるだけで「本当の私はどこにいるのだろう」と感じていた。本当に怖かった。

mirror man

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わけもわからず傷つく毎日

毒親がだめだった私にとって、古い日本的な考えかたがだめなのは当然だった。今のこの日本社会を作ったのは、そのまま毒親の世代だからだ。

別に、なにも「古い」ことが悪いわけではない。悪いのは、実情に合わなくなってきているからだ。孝行するに値しない人物なのに「親孝行」を子供に押し付ける毒親たちは、海外に出ても日本の考えかたのまま仕事をしている人たちそのままだ。どちらも実情に合わず、バーチャルだ。だから現実とのギャップでひずみが出る。

そのひずみに気づけない人が「毒親」になる。そしてひずみの原因を、自分の子供や若い世代のせいにする。家族での毒親、社会での毒親。そういう人たちのなんと多いことだろう。

今、社会のひずみの原因がこの旧世代にあることに気づく人が増えている。今までは旧世代から言われたことを鵜呑みにしてきた謙虚な若い世代が、「それは違う」と気づき始めている。多くの人が気づくことによって、実情に則した暮らしやすい社会を作っていけるようになると私は思っている。

そこに行き着くまでは、旧世代のやりかたや考えかたをスルーし、押しつけられそうになった場合のみ意見を言って、変えられるところから変えていけばいい。会社で会う人がどうであれ、「自分は自分」としていればなんの問題もない。

でもそれができない。毒親育ちで旧世代のやりかたや考えかたがトラウマになってしまっているから、それに直面したときにどうしてもかわせず刺さってしまう。自分がないから「人と人との境界線」がなく、相手のやりかたや意見がそのまま自分の中に入ってきてしまう。

普通なら「自分はこう思うけど、相手はこう思っているみたいだ、じゃあこうしよう」と、自分の考えと相手の考えの二つを目の前に置いてみて、どうするか考える。どちらか一方を採用してもいいし、それぞれをどれくらいずつ混ぜたらいいか考えてもいい。
kangae futsuu
でも私の場合は「自分はこう思う」の部分がないため、「相手はこう思っているみたいだ、じゃあそうしよう」と相手の考えを自動的にそのまま取り入れることになる。
kangae watashi
でもそれにだんだんと違和感を覚え、傷つくようになってきた。「自分はこう思う」の部分が存在を主張し、見えるようになってきたからだ。なんだかわからないけれど、なんだか傷つく。なにかがそこにある。

そこでその違和感を無視せず見つめてみると、「自分はこう思う」を認識できるようになってくる。そうすると、「自分はこう思うのに相手の思う通りにやってしまっているから傷つくのだ」とわかるようになってくる。

すると当然「相手の思う通りにしたくない」と思うようになる。自分の思いを察してくれない相手を責めたり、イライラしたりするかもしれない。でもどうやって「自分はこう思うので」を相手に伝えたらいいのかわからない。最初はとにかく相手の考えを打ち消し自分の考えだけを残すことしかできなかったりして、相手をびっくりさせたり失礼になってしまうかもしれない。

でもそこであきらめてはいけない。自分の気持ちを見つめ続けていくことで、もっと早い段階から自分の気持ちに気づくことができるようになり、しだいに相手に失礼にもならずいいタイミングで自分の考えを上手に伝えることができるようになってくるはずだ。

でもこのときの私は、まだそんなところまで到達できていなかった。会社で自分の考えを伝えることもできず、日本的な考えかたをスルーすることもできずに、ただひたすら傷ついていた。なんでこんなにもただ会社で仕事をするだけのことができず、苦しいのかわからなかった。

日本的な会社が苦手な理由

一週間の自宅療養」中に、どうしてこうも日本的な会社がだめなのかを考えていた。だめだと思ったところは、以下のようなところだ。

1)なあなあ

先日夫が会社で面接をする側のトレーニングを受けてきたのだけれど、その中で「人を採用する上で判断に使用してはならない9か条」というのを習ってきた。

①Sex(性別)
②Sexuality(性的嗜好)
③Age(年齡)
④Religion(宗教)
⑤Nationality(国籍)
⑥Race(人種)
⑦Experience(経験)
⑧Marital Status(家族構成)
⑨Disability(身体障害)

私が当時の会社の面接を受けたとき、⑧の家族構成を聞かれた。たしかに日本の会社では平気で聞かれることだと思う。女性を雇う場合、独身だったら「結婚退職のリスク」、既婚だったら「産休リスク」、そして子供がいたら「育児リスク」を考えるのが当然だからだ。

イギリスの規則を知らないはずはないけれど、相手が日本人となるとなあなあで済ませられると思っているのではないか。面接を受ける立場では、質問に答えずにいることはできなかった。それが悲しかった。

2)5時28分

就業時間が朝9時〜夕方5時半だったのだけれど、イギリス人の同僚が5時25分にパソコンを落としたら、日本人の上司に「せめて28分まで待たなきゃだめだよ」と注意されたらしい。たった3分でなにが変わるのか意味がわからないと、同僚は気持ち悪がっていた。

現地の人たちはみな終業30分前にはもうそわそわし始めてるし、イギリス人の上司たちは自分のマグを片づけ始め、そのついでに部下たちに「最近どう?」「もうすぐ引っ越しだったよね?」などと話しかけたりして、仕事をしてる人などいない。そういうコミュニケーションもとても大事だし、日本人は部下に意味のないプレッシャーを与えるだけで、無駄なことをしているのではと感じた。

3)影武者

たった3分でなにが変わるのかもはなはだ疑問だけれど、人の行動をこんなにも見張ってるということを恥ずかしいとも思わず堂々と口にしてくるところが私は怖かった。「日本の会社」でも書いたけれど、とにかくいつも見張られているように感じて息がつけなかった。

偉い人が会議に入ってしまっていたときに、他の国のオフィスの人と電話で気楽に話していたら、私のすぐ近くで日本人が聞き耳を立てていて驚愕したことがあった。その人の席は遠かったのだけれど、会議から出てきたら私があやしい電話をしていると思って、わざわざ私の近くで作業をしながら話を聞いていたのかもしれない。私の電話が終わるのを見て、また会議に入っていった。気が休まらなかった。

4)同一視

会社のためにみんなで一体となって目を光らせているのは、なにかカルト的なものを思わせた。1年で辞めた人がいたのだけれど、それに対して「でもまだ1年でしょ?」と、「1年ぐらいでこの会社のなにがわかるっていうんだよ!」という気持ちがあるようだった。まさに「1年つき合ったぐらいで俺のなにがわかるっていうんだよ!」と同じような。

これを聞いたときに、背筋がゾワッとなった。会社のことなのに、個人的にとってしまう。会社がほめられれば嬉しいし、けなされると悔しい。たしかに自分の好きなものをけなされたら気分はよくない。でも会社は単なる契約で結ばれた関係の、単なる生活に必要なお金を得るための、単なる仕事をする場所だ。それを自分のことのように思っているのが、とても怖かった。

5)パワハラ

「日本人は始業時間には厳しいけど終業時間を守らない」というのを読んだけれど、本当にうまい表現だと思う。終業時間後に現地のスタッフに仕事を頼んだりする。「え、今?!」などと言われても、「うん」とやらせてしまう。こちらでは終業時間30分前に仕事を頼んでくる人はいないし、そんなことをしたら嫌われる。

別に今でなくても明日の朝一番でもいいわけなのだけれど、翌日の朝に日本が開くときには片づけてあると自分の株も上がるのか、今日できることはやってしまってスッキリして帰りたいのか、詳しいところはわからない。その程度のこととスタッフのモチベーションを下げることの、どちらが重要かがあまりわかっていないような気がした。

6)「風邪?」

欠勤の連絡を入れると必ず理由を聞かれた。「病欠」だと言っているのに、風邪なのか、病院へは行ったのかなどと、まるで親でもあるかのような個人的な質問をされる。体調は社員それぞれが自己管理しているものであって、長期の病欠でもしない限りは会社に相談をしたり報告をしたりする義務はない。そして「自己管理」とは「絶対病気にならない」ということではない。

ぼろぼろの体」のところでも書いたけれど、イギリスでは朝具合が悪くなっても、その日のうちに医者に会えることはまずない。しかも誰も風邪くらいで医者に行ったりはしない。症状を止めたって風邪は治らないし、医者に行っても薬はもらえないからだ。風邪ならみんなゆっくり休んで治すので、すぐ復帰しなければいけないプレッシャーもない。

…というように、会社の日本的なところがどんどん目につくようになって、どんどん苦手だと思うようになっていった。もともと日本にいたときから日本的な会社ではないところで働いていたのと、渡英してからも日本の会社の名前はついているけれどほとんど中身は現地の会社というようなところで働いてきたため、ここでのカルチャーショックが大きく、苦手意識もその分大きかったのだと思う。

でもそれ以上に、胸が苦しくなるような気持ちと、上記のようなものを目にしたときの恐怖はとても大きく、これは異常だった。自分は現地採用なのだし、日本から来ている駐在の人たちと同じようなことを強いられることは絶対になかった。こちらでの常識をきちんとわかっている駐在員もいたし、現地の人にはそれなりの対応をしている人もいた。客観的に見れば、その辺りの住み分けはかなりできている環境だったと思う。

だから、「自分は日本人ではあるけれど別なのだ」と、関係ないと思っていればそれでよかったはずだ。いくら見張られていようとも、気にせず自分の思う通りに仕事をしていればよかった。でもそうスルーすることができず、自分の中に深く刺さってしまっていた。

なぜだか考えたとき、これはすべて毒親を思い起こさせるからなのだと気づいた。

1)自分のことは都合のいいように済ませ、こちらの都合は同じようには聞いてもらえない。
2)「時間」や「お金」などの物質的なものでしかものごとを推し量ることができず、非現実的。
3)なにか少しでもミスがあるとすぐ突っ込まれるために、安心していられない。
4)「家」や「親」と同一視されて、「私個人」が消される。
5)自分のために私の考えや都合を無視することは、「親孝行」などの「常識」とされる。
6)私の「自己管理」を尊重しない。

すべてが、毒親からされてきたトラウマだった。だからこんなにも痛かったのだ。