11 大災害の後遺症と気づき

仕事が順調に

会社勤めに復帰」してから半年ほどして、ようやく新しい生活に慣れてきた。

職場の人にも慣れてきて、少しは力を抜いて話せるようにもなってきた。なんで自分がこんなにも緊張するのか、本当に驚いていた。昔はこんな感じではなかった。大学のころにも一人で海外へ行ったり、社会人になってからも平気で営業に出ていたりしていたのに、いつの間にか知らない人と話をすることがこんなにもできなくなっていた。

ふたたび指圧へ」でも書いた通り、私の腰痛は脚の緊張からきている。脚だけでなく、歯を噛みしめていたり、こめかみがギュっとしていたり、首を縮めていたりする。仕事をしているときでも、ただ歩いているときでも、気づくと全身のいろいろなところにが入ってしまっているのだ。

中でも、以前別の先生にも指摘された通り、いつも顎が出ていて、首の後ろが落ち込んでいる形になっている。母親のように、首と背骨を伸ばすために毎週病院へ通い、しまいには腰の大切開手術を受けたりするようなことになどなりたくない。

首を伸ばして、背筋を伸ばす。でも、これが長続きしない。首と背筋を伸ばすには腹筋を使わなければならないけれど、整体の先生に「腹筋が異常に少ない」と指摘されたことがあった通り、お腹の筋力が少なくて、伸ばした体勢をなかなか保持できなかった。気づくたびに、背筋を伸ばして椅子に座るようにした。

仕事のほうも、ひと通り毎月の流れも把握でき、残業もせず計画的に流していけるようになってきた。

人前で話す」で書いた新人研修の業務については、研修を行うのではなく、内容をパワーポイントにわかりやすくまとめる作業を与えられた。私はマニュアル作りが得意だったため、こうしてもらえたことは本当にありがたかった。

ヨーロッパの他の支部へ、出張も行くようになった。私が入社してから、ヨーロッパ全体が一度に忙しくなったため、それを手伝いに、上司について出かけて行った。ただの手伝いだったけれど、仕事を覚えて、自分にもできることができてきて、プレッシャーもあったけれど、いい経験にもなった。

1年の契約は、あと半分。どうにか持ちそうな気もしてきた。

この少し前までは、本当につらくて、毎朝辞めたいと言っていた。でも自分にもできることがあって、各国の支部の人たちも私がいて助かると言ってくれて、嬉しかった。数字を扱う仕事もあったため、「満足できない」で書いた完璧主義がとても役に立った。私が入ってから数字の間違いがなくなったと、みんなに言ってもらえた。ちゃんと仕事をしてみたら、みんないい人たちだった。

しかし、今思うと、これはあまり喜ばしくないことだった。低い自己肯定を、自分の力ではなく、周りの評価で埋めようとしていたのだ。自分の評価を、自分でコントロールができない「周りの意見」に頼ってしまうことは、非常に危険だ。このときは、まだそこには気づいていなかった。

仕事を始めたばかりのころは、周りに教わることばかりで、自分にできることなどなにもなく、だから自己有用感が持てず、必要以上に苦しかったのだ。「ノンネイティブと話す」で書いた通り、「教わる」という立場に立たされたとき、必要もないのに、相手の意見を受け入れてしまい、つらくなる。

自分だって、それまでいろいろな会社で仕事をしてきたわけだ。この会社では「教わる」という立場からのスタートだけれど、なにもまったくなんの役にも立たないわけではない。だからそんなに自分を過小評価して、苦しむ必要もない。しかし、毒親育ちで自己肯定感が低いと、周りの評価が自分のすべてになってしまう。仕事を覚えるまでがあんなにもつらく、覚えてできるようになったとたん安定してきたのは、これが原因だった。

スピリチュアルカウンセリングで言われた「クリエイティビティ」(「向いていること」参照)については、確信を得た。

新しい仕事を始めて、最初はそれを覚える。引き継ぎのときにメモしたやりかたを見ながら、それにどんどん必要なことをつけ加えていく。慣れてきたら、それをまとめてマニュアルを作ってみる。もっと慣れてきたら、流れの中で工夫できることをどんどん取り入れて、新しい作業手順を作り、新しいマニュアルを作り上げる。

どこの会社でもこういうことをやってきたけれど、今まではこれがどういうことなのかはあまり自分でもわかっていなかった。「クリエイティビティ」という言葉を使うことで、今までやってきたことに一連のつながりができた。

またさらに、「数字を扱う仕事」が好きだということもわかった。新人研修のような人前で話をする仕事ではなく、コツコツと数字を集め、必要なデータを出したり、分析したり、そういう暗くて寂しい仕事が好きだった。前の会社でもそういう仕事が好きだと思ったけれど、今回ここでもうひとつ違う種類の仕事も一緒に担当してみて、はっきりわかった。

そして、やはりいろいろな人たちと協力して仕事をするのが好きだと思った。前の会社でも、いろいろな国の担当者がいて、その人たちと協力し合いながら仕事をするのがとても楽しかった。この会社でも、オフィスはほぼイギリス人ばかりだけれど、各国に支部があって、そこの人たちと連携を取りながら仕事をするのがとても楽しかった。

①クリエイティビティ
②数字
③各国と協力

これが、今後の仕事探しの上でのヒントになると思った。

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呪いの首飾り

夫が書いてくれた手紙」を出そうかどうしようかと迷っていたとき、父親からもらったオープンハートの金のネックレスと、母親からもらった真珠のネックレスがあることを思い出した。

これも一緒に送り返そうかと考えた。

とりあえず、家にあると気持ち悪いから、どうにかしたいと思った。

①そのままブツのみ送り返す
②夫の手紙をつけて送り返す
③売る

どれがいいだろうと、考えた。

もともとどちらも、私の意思とは関係なく勝手に贈られたものだった。

金のネックレスのほうは、12歳のときに誕生日でもなんでもないのに突然父親が買ってきた。私は金が好きではなかったので、「高いものだ」と言われても特に重要視していなかった。なくしてだいぶ経ったころに洗濯機の排水口から出てきて、母親が「お父さんにひどいよ」と言ってきたけれど、勝手に寄こしておいて大事にしろと要求されても、ペットに自分のやりたいものを勝手にやっても感謝されないのと同じで、大事になどするわけがなかった。

真珠のネックレスのほうは、結婚の前に母親から押しつけられた。アコヤ真珠で、鑑定書付きだった。あとで知った話、日本ではお葬式のときに黒いワンピースと真珠のネックレスが定番らしく、大人はみんな真珠を持っているらしい。でも、社会人になったころに冠婚葬祭用に一生着れる黒いパンツスーツを買った私には、使えないしろものだった。結婚の写真を撮ったときに一度使ったけれど、あとはずっとしまいっぱなしだった。

二人とも、まさに「ペットに好きなものをやる」感覚だ。私の好みやほしいもの、必要なものは、一切関係がない。自分が買ってやりたいものを勝手にやって、大事にされないと勝手に文句を言う。私は、動く着せ替え人形だった。

とにかくもう二人のことが気持ち悪くてしかたがなかったので、この二人からもらった呪われたものを持っていることが気持ち悪く、どうにかしたかった。

チャリティショップへ持って行こうかとも思ったけれど、近所でこの呪いの首飾りが出回ると思うと安心できなかった。夫の母へ贈ろうかとも思ったけれど、呪いが自分の身近に居続けられるのも怖かった。③の「売る」だと、売って入ってきたお金も呪われていそうで嫌だなと思った。なので、最初は①か②で迷っていた。

でも、時間をかけていろいろと悩んだ末に、「フェードアウトが一番かもしれない」という結論に達した。

従妹とも相談した結果、こちらがなんの反応も返さないことが、毒親に一番ダメージを与えるだろうと思った。実家でも、私が黙っていたらビクビクして機嫌を取ろうとしてきたけれど、私が怒りを抑えられずになにかを言い始めれば、思い出すだけで鉄パイプで殴りつけたくなるような、私の人権を無視した行動を取っていたのは、「父方の祖母のところへ」でも書いた通りだ。

それよりもなによりも、もう「不可能だ」という感覚が強かった。あの完全にコミュニケーションが図れない人たちをどうにかすることは、もう完全に不可能なのだと。私ができることは、もう二度と関わらないことだった。

さっそくロンドンの貴金属街を調べて出かけたところ、喪服に真珠というのは日本独特の風習なので、まるで需要がないようだった。真珠を扱う店自体も少なく、何軒も回ったけれどだめだった。ようやく、貴金属ではなくこういった石を専門に扱ったお店があったので、そこで聞いてみたところ、売った場合は300ポンド(約5万円)くらいだろうとのことだった。

ネットで見たところ、日本ではだいたい15〜20万円するようだった。馬鹿だと思った。

週末は真珠担当の人が店にいないとのことで、金のネックレスのほうだけ売った。60ポンド(約1万円)だった。後日また真珠のネックレスを持っていったところ、ストックがありすぎて買い取れないとのことだった。

60ポンドは、その帰り道に、レ・ミゼラブルの映画を無駄に一番高い席で観ることで使った。なにか残るものや、口に入るものを買うより、その場ですぐなくなるものがいいと思った。

このネックレスを売った日は、本当にひどかった。

ロンドンを歩いていて、何度も人にぶつかられ、足を踏まれたりした。普通に町を歩いていて足を踏まれるとは、いったいどういうことだろうと思った。さらには映画館でも、後ろの席の人が途中で立ち上がり、出て行く際にコートのボタンで頭を強打された。その後、週明けから喉が痛くなってきて、夜には熱が出始め、熱が二日も続き、会社を休んだ。

完全に呪いだと思った。私がネックレスを売ることを許さない、毒親の怨念だと思った。

一刻も早く、残った10ポンドも使ってしまわなければと思った。お昼代にでもしようか、いやでもお腹に入るのは怖いと、悩みに悩んでいたところ、福島出身の友人が声をかけてくれて、震災へ寄付させてもらえた。呪われたお金が、なんだか浄化されたような気持ちになって、このときは心底ほっとした。

真珠のほうは残ったけれど、また日本へ行くときに日本で売ろうということになった。怨念は身に受けたものの、とりいそぎ片方だけでも処理することができて、少しほっとした。

夫が書いてくれた手紙

つらい日々」で書いた通り、イギリスに帰ってきてからもずっと苦しんでいた。

最初は、一緒に泣いてくれたりした夫に感謝の気持ちがあったけれど、「大きな一歩」で書いた通り、夫の言動に引っかかるところがあって、だんだんと夫に対しても悲しみが湧いてきた。

正直なところを、夫に話してみた。私にひどいことをする人たちとにこやかに話をしていて、とても傷ついたと。私のためになにもしてくれなくて、一緒にいるはずなのに一人ぼっちでつらいと。

すると夫は、「実家に一緒に来てくれてよかったと言ってくれてたじゃないか」と言い返してきた。「あまり知らない義理の両親に、なにか言ったりできるわけがない」と。

なにかがおかしかった。

当時はなにがおかしいのかわからなかったけれど、今ならよくわかる。「あまり話したことがない相手だからなにも言わずに流す」というのは、受けた被害がどうでもいいもので、かつ相手が自分に関係のない通りすがりの人だった場合だ。自分の妻血縁痛めつけられていて、それでも「あまり相手を知らないから」となにもせずにいるというのはおかしい。

これがもし、「財布を盗まれた」という目に見える物理的な被害だったら、なにも言わずにヘラヘラしていたりなど絶対にしないはずだ。

典型的な、バーチャル人間だった。

それでも話し合いをすると、このときは理解してくれた。なにもできなかったことを謝ってくれて、親に抗議の手紙を書くと言ってくれた。英語だったけれど、読まれなかったとしても構わないと思った。誰かが私のためになにかをしてくれる、このことだけが生きようと思う力になった。

見せてくれた手紙の下書きには、祖母と一緒に過ごせることを楽しみにしていたのに、それを阻害され、好きなようにされたことに対する批判と、今後私に直接連絡をしてくることを禁止するという内容が書かれていた。

やっと、味方ができたような感じが少しだけ得られた。