08 スピリチュアルカウンセリング

子供について

スピリチュアルカウンセリングの、最後。

月並みだけれど、「子供」について聞いてみた。でも、聞く前にもう、セラピストは私がこれを言い出すことをわかっていたような感じだった。

子どもや動物とともに存在するのは、私にとってとてもプラス。子供も、一緒に遊ぶ中でお互いにプラスになっていく。「一生懸命教育しないと」と考えると、よくない。自分の子供を含めて、他の子供や動物、友達でも、「純粋な人」や「楽しい人」は交流しやすい。なぜかというと、彼らもクリエイティブだからだ。

まずここで、風向きを変えて自分を取り戻し、元気な私に戻る。と同時に、一般に合わせようとしなくていいんだなと気づき、「そうだ、人生は楽しくていいんだ」となり、「一緒に遊ぶ友達がやってくればいいんだ」となったら、子供を持つ時期かなと思う。

このときは、やはりここで新しいことを始めて、本来の元気な自分を取り戻して、それで子供を持とうと思うんだろうな、ということだと思った。でも、違っていた。このとき考えていたよりも、もっともっと長い時間がかかるのだ。

子どもに日本語を教えるということも、やりたければやってもいい。でもどちらかといえば、一緒に「屈託なく遊ぶ」という感じ。教えてほしいという人がいたら、それもまた道具が使えるチャンスかもしれないので、やってみていいと思う。それで試してみて、私もその時間が楽しくて充実していたら、そこの窓口は置いておける。

「自分は子供もいないし扱い方がわからないから」ではなく、だからこそ逆に、「子供と関わると自分はどういう風に感じるのかな」という発見や、練習ができるかもしれない。自分の子供ではないから、少し距離を置いたり、感情的にあまり動かなくても交流できるし。

だから、機会がやってきたらやってみてもいいと思う。やってくるものは試してみて、好きだったら続けていって。それもまた、道具を使ってみて、「この使い勝手をもうちょっとこうしたほうがいいかな」「次はこうしてみようかな」という作業。そうるすと、誰がというより、「私が」一番嬉しいと思う。

あまり心配せずに、機会があったらやってみればいいのかもしれないと思った。

言葉にして「生き生きしていたい」とか「感動していたい」というと、「熱い人」みたいに聞こえるかもしれないけれど、でもそう言ってみると、そういうエネルギーが体の中で生き生きと動く。そうすると、気持ちよくお腹も空いて、充実して夜もよく眠れる。

私にとっては、今回の人生の中で「私」が一番大事。だから自分を十分に活かして、この持っているエネルギーを十分に用いて、地上においていろいろな人と関わる。

それにはまず第一に、家の中から。夫と楽しく過ごして、そして自分を楽しむ。夫を楽しむ自分を楽しむ、というように。その時間を大切にして、そして、よく食べよく寝る、好きなものを見に行く、目に入れる、五感で感じる、というようなことをしていく。それが趣味であり、いろいろな意味で、道具に栄養を与えてあげるということ。

スピリチュアルカウンセリングは、これで終了。

子供が「そんなことやっちゃだめ!」と叱られてもわからないように、問題だけを教えてもらっても、解決にはつながらない。「自分を大切にしなさい」と言われても、「どうやら自分は自分を大切にできていない」ということはわかっても、もちろんそれがわかっただけでも大きな一歩ではあるけれど、でもそれを言われ続けたからといって、解決できるようにはならない。

どういうところが自分を大切にできていないのか、どうして大切にできていないのか、それはどうしたら大切にできるようになるのか。これがないと、解決はできない。もちろん、言われ続けることで「そうかも…?」と感化されて解決に向かっていく人もいるとは思うけれど、簡単なことならそれもあり得るだろうけれど、経験のないことだったら不可能に近い。

それを、具体的に、しかもわかりやすく喩えを用いて教えてくれて、しかも「こういうことだから、なかなか大切にできてなかったんだと思います」「こういうことがあると、なかなか大切にできないですよね」と共感を示してくれて、その上で「じゃあこうしてみたらどうでしょう」とやりかたを提案してくれる。それでまたその提案が私に沿っているからすんなり納得できて、動き始めることができるようになる。このセラピストに出会えたことは、本当に幸運だったと思う。

もちろん私の場合は、カウンセリングで発見したことがあったからこそ、よりいっそう大きな理解が得られたということもある。その上で、このスピリチュアルカウンセリングによって全体像も見えて、やっと謎が解けた。当時、もう半年ほど本当に出口もない奈落の底でどうしようかと思っていたけれど、すごくいい経験になった。

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過去の失敗を忘れるには

スピリチュアルカウンセリングの続き。

最後に質問はと聞かれたので、「過去の失敗を忘れるにはどうしたらいいか」を聞いてみた。これは私にとって非常に難しいことで、もう何年も前の失敗をたびたび思い出しては眠れなくなることがざらにあったからだ。これがとてもつらかった。

今思えば、これは毒親育ちにある「過剰な完璧主義」ということだった。これもカウンセリングでもやったことだったけれど、そのときはまだ「満足できない」のところで書いた通り、「自分にダメ出しをしている」という話だったので、この時点ではまだ「過去の失敗を忘れられない」と「自分にダメ出し」が結びついていなかった。

なにかを言ってしまった後で、「あー、ああ言えばよかったのにー」とか、レッスンで「ああ教えればよかったのにー」と思うことは、話のすぐ後やレッスン中にでも、すでに「クリエイティビティが働いている」ということ。

この回答は、今思えば単なる逃げ道だった感じもあるけれど、この考えかたを教えてもらったことで、このときは確かに本当に救われた。

たとえば、「素晴らしいナイフ」があったとする。使い方によっては大変な間違いをしてしまったりするけれど、使い方によっては素晴らしいものが作れる。このように、自分が持っている道具(言葉やエネルギー)を、どういう風に使うのかと考えてやってみて、後になって「あー、ああいう風に使えばよかったんだー」と「発見」しているということ。

道具というのは、「これはよい道具なんですよ」ともらっても、最初はなかなか使いこなせなかったりする。でも使っているうちに、だんだん自分の道具になっていって、自分とその道具がお互いに交流し合っていくうちに、そのうち目を閉じていても使えるように馴染んでくる。なので、「失敗」ではなく、うまく使えるようになっていく作業の「途中」ということ。

「道具は持っている、でも持っていると言われてもそれがなんだかわからなかった、使ってみたら間違ってしまった、じゃあこの次はこういう風に使えばいいんだ」、もしくは、「道具箱を開けたけれど、なにが入っているかわからなくて、とりあえず使ったけれど、これじゃなくてこっちを使えばよかったんだ」というような。「工夫をしようとしていたんだな」と思えばいい。

でもやはり、使えなかった場合はフラストレーションを感じたり、自信がなくなってしまったりする。「それが原因でレッスンがキャンセルになっちゃったのかなー」とも思ってしまうと、またそれでさらに自信がなくなってしまったりする。

でも、ただ「なにを持っているんだろう」「どうやって使ったらいいんだろう」ということに気づきましょう、ということ。振り返ってみて、「そうか、あのときあんなにショックだったのは、私はこの道具を持っていたにもかかわらず、こっちを使ったからだったんだー」というような。すると、「じゃあこの次からはこれを使えばいいんだ」としていけばいい。こういうことが、教えることや日々の会話の中でも、少しずつあたためられていたんだろう。

この、「持っていたけれど使えなかった」というところに、衝撃を受けた。

今までは、「ああすればよかったのに」というのは、後から「外的な要因で気づいたのが悔しかったのだ」と思ってたのだけれど、「自分で持っていたのに、別のものを出してしまった悔しさ」だと思うと、すごく納得できた。

「気づいた」というのは、持っていたから気づいたわけで、最初から持っていなければ気づかない正しい道具も持っていた、でもこのときは判断が少し違っただけで、次からは正しいのを使えばいいと。

そう思うと、ほっとした。この考えかたは、画期的だった。今までいろいろな解決方法を模索してみたけれど、これだけ納得がいって、解決の光が見えた考えかたはなかった。

ここからは、勇気を持って、道具箱を開けてみる。「うわーこんなのもあった」「あ、知らなかったけどこんなのもあったんだ」というように、「自分の持っているエネルギー」に気づき、それを少しずつ使っていきながら「あ、そうかそうか」と、なににでもそれを用いていって、練習していくうちにだんだん上手になっていく。

子供のころは、はさみを与えられても、手が上手に動かなくてうまく切れなかったりする。大人の人が切ってくれるのを見て、「なんで私はああいう風にできないんだろう」と思ったりする。でも使っているうちに、だんだん手も大きくなってくるし、うまく使えるようにもなってくる。

これと同じく、まず「なにを持っているか」に気がつくこと。「あ、これを持っているんだ」「じゃあこれを上手に使ってあげよう」と。そのうちにいろいろな人に会ったりすると、当然いろんな道具を使うようになり、関わる作業も多様になる。その中で道具の使いかたを身につけながら、毎日毎日夜には「ありがとう」と道具箱を閉めて、ゆっくり休む。道具も休んで、次の日に備える。

だから、寝ることは私にとってとても大事。また次の日にその道具を十分に使えるように、十分に休むということ。食べることも大事で、これは道具に必要な油をさしたり磨いてあげたりするということ。

たとえが本当に上手で、とてもわかりやすく、本当にありがたかった。

自分を見つける

スピリチュアルカウンセリングの続き。

目標みたいなものがあるとやりやすいなら、「毎日充実していたい」や「自分の存在を気づいていたい」と自分に言い聞かせることがいい。そう思っていると、目には見えなくても、あちこにそれが向かっていって、自ずとそうなっていく。たとえば「こうしたい」と強く思っている人の隣にいると、見えないけれど熱気が伝わってくるように感じるのと同じで、そういうエネルギーが出ると、なぜか友人や身近なところで、目に見えたり耳に聞こえたりすることが自分に向かってきてくれる。

でも、気持ちはあっても、疲れているときとかフツフツしてるときに「思え」と言われても思えないこともある。そういうときにこのように環境が変わる(引っ越しなど)ということで変化を投げ込み、人生がちゃんと手伝ってくれる。

あとは、「よく寝てよく食べて笑うこと」。

「充実していたい」と口に出して言うのだろうか、と疑問に思った。すると、「生き生きしていたい」とか「今日もいい日でいたいな」「楽しい日にしよう」とか、そういう言葉でもいいかもしれません、と言われた。 なるほど。そういう気持ちを口に出すことで、いいエネルギーを出していくと。

今ここで変化があって、「新しい人生」が始まる。そこに存在しているのは、私と夫。そのうちの私が、「これがあって私がいる」ではなく、「私がいてこれがある」という、その「これ」を見つける。これが今起こっていること。

「今日なんか見つけた気がする」「うん、今日もなんか発見があったような気がする」となっていくと、体の中が動いてくる。細胞がチクチクチクと動き始めるように。もちろん頭で考えているだけでも動いてはいくけれど、私たちは肉体があるから、体を動かして、誰かに会ったり話をしたりすると、また発見が必ずある。それで「毎日発見していたいな」と思うと、「そうだ私ってこうだ」と自分の発見に拍車がかかってくる。

趣味についても聞いてみた。仕事の息抜きには、日本語教師ではなくて、趣味のほうがもっとリラックスできていいのではないかと思ったからだ。趣味がある人を見ていると、仕事をガッツリして、趣味もガッツリして、充実しているような感じがするからだ。

睡眠を取ることが、大事なような感じがする。私の場合、私の存在が①で、なにをしていてもそれが②になるので、「え、それが趣味ですか?」ということでも、たとえば笑ったり寝ていたりも、私が「そのときしたいこと」が趣味になる。「趣味は私」というような感覚。私はなにかしら探すので、けして時間があって困ることはない。なにか目に入ってくるもの、アートなども好きかもしれない。なにか好きなものを見に行ったりとか、聞いたりとか、そんなこともなんでも趣味。私を語ることの中の、ひとつ。

わかるような気もしたけれど、難しいなと思った。やはり「これです」とひとことで言えるような、はっきりしているものならわかりやすいのに。でも、そうじゃないのが私なのだ。はっきりしている人がいるなら、もちろんしていない人もいる。これを受け入れて伸ばしていくことが必要だった。

食べることについても、聞いてみた。食べることも好きで、よく食べ過ぎてしまうこと。特にこの時期は、食べても食べても満腹にならず、ひたすら食べてしまってしかたがなく、不安に思っていたのだ。

なにも考えられなくて食べていたら問題だけれど、「おいしい」と、思わずにっこり笑ってしまうのであれば大丈夫。私はよく食べよく寝るができなくなったら、自分のエネルギーを使えなくなってしまう。よく食べよく寝ることで、クリエイティブなエネルギーがよりいっそう回ってくる。

私の場合、そのときそのときで変わってはいくけれど、好きな食べ物もあるし、本来暴走して食べることはできないから大丈夫。食べたいものを、食べたいときに、食べたいだけ、食べること。風向きが変わってきて、不安定だった気持ちが変わり動いたりしてくれば、お腹も空いてきて、食べることを楽しくできるようになってくる。食べることも趣味で、大事。自分で作ったりもする。

この「食べたいものを食べたいときに食べたいだけ」というところが、重要だと思った。食べたいかどうかではなく、「今ここでなければ食べられないもの」を食べていることが多く、だから「食べられるだけ食べなきゃ」となってしまう。自分が食べたいかどうか、どれくらい食べたいか、で食べるようにならなければ。

私の場合は「これが私です」「これをするのが私です」というものがない。バラエティというか、そのときによって違うし、定義がない。「この時期はお家にこもっていろんなことがしたい」という時期もある。今はそういう時期みたい。とはいえ、それが過ぎて急に興味がなくなり、違うことを始めるかもしれない。

頭のどこかで「人生とはこう」とか、「生きかたはこう」「一般的には」「人はみな趣味があって」「みんな仕事がひとつあってそこをまっすぐに歩いている」という考えがあるんだけれど、でも自分には当てはまらず混乱する。でも、クリエイティブな人にとっては道は広く、ときにはこれをしてるかもしれないししてないかもしれない、ときにはこれが好きかもしれないけど嫌いかもしれないと、説明をしようとしてもまとまらない。でも多重人格といわけではなく、ただクリエイティブなだけ。それを止めてしまったら本当につかえてしまって暗くなって、自分ではなくなってしまうので、「私の人生を生きよう」を標語に。

これからいろいろな人に出会っていくと「なんか似た人がいる!」ということも出てくるし、「そうか、だから私はこうなんだ」と自分に気づいていく。今日すでに話しをしてる中でも、私の中でムクムクと「そうだそうだ」と出てきているし、具体的な例を聞く中でいくつか気がついていることがあるので、「いいんだ私で」と自信が出てくると思う。

要するに、自分の生きかたに自信を持ってやっていけばいい、ということだった。だからといって、別に社会をまったく無視したようなことはしないとも言われた。

ただ、私のような毒親育ちには、これが一番難しいことだった。「自分はどうか」を求められることがなく育っているからだ。常に「周りはどうか」を考えてきたため、自分がどうかなんて知らない。それが問題だった。お皿の中にあるだけのものを食べるのではなく、お皿の中にどれだけ入っていようと、自分はどのくらい食べたいのか。このレベルのことから自分を発見していくという作業を考えると、気が遠くなりそうだった。

でも、やらなければならない。ラクに生きられるようになるために、絶対に必要なことだった。