人が言うことを信用できない

このころわかってきたことだったけれど、私には人を信用できないという問題があった。

それを認識し始めたのは、まだ日本にいたころ。あるとき職場の仲が良かった先輩に、「お前は人の話を聞かない」と言われた。それまでそんな認識はまったくなかったし、どちらかといえば自分は人の話ばかり聞いていて自分の話をしない人間という意識があった。だから、そんなことを言われて違和感を覚えた。それが始まりだった。

結果的に、この先輩の言ったことは当たっていた。「人の話を聞かない」のではなく、「人の言うことを信用できない」のだった。

人の話は、聞いている。でもそれをそのまま鵜呑みにすることができなかった。それがいいか悪いか自分で確認をとらないと、本当のところはわからないと思っていた。人を信用していないのだ。でも口では「そうなんだ」と言っている。それがよくなかった。納得したように見せておいて、言われたこととは違うことをやったりする。これが、周りから見れば人の話を聞いていないように見えていた。

マニュアル講習」でも、あった。先生が「アクセル踏んで!」と言っても、踏まずにワタワタしていた。英語で言われることに対してすぐにピンとこないという、言葉上の問題も確かにあった。本当にアクセルを踏んでいい状況なのか自分で確認できていないから、踏めない。それで後ろの車にピー!っと鳴らされる。

ただこれは、長所でもあったりする。テレビやメディアの言うことを鵜呑みにしない。必ず「どういうことか」と考える。生きていく上で必要な作業が身についているということは、悪いことばかりではない。

でもこれに関して、一時期かなり悩んだことがあった。もしかして自分は、親と同じ問題を抱えているのではないかと思い、それが本当に恐ろしかったのだ。毒親育ちが親と同じ問題を抱えるのは当然だし、「私の気づき」もそこからで、「気づいてからの衝撃」も大変だった。あのときの底知れぬ恐怖が蘇ってきた。

両親は、本当に人の話を聞かない。「毒親炸裂の報」でも書いたけれど、自分のやりたいことが暴走してしまって、人の声が頭に届かない。

しかし私と両親とでは、起きている現象は同じでも、原因はまったく違っていた。私の場合は不安から、「人が言うことは本当なのか確認しなければならない」と思っているところから来ている。両親の場合は自分の欲求が暴走した末の、「人がなにを言おうと自分のやりたいことをやる」になる。

これはまったく違う。とりあえずここは安心していいと、自分を落ち着かせた。

私は夫のことも、信用できなかった。夫が「大丈夫」と言っても、本当に大丈夫か自分で確認しないと、大丈夫とは思えなかった。イギリス人は特に、日本人と違って「正確な情報を出さなければいけない」という気持ちが抜けている。道を聞いても、正確な情報が一発で返ってくることはほとんどない。イベントに「行く」と言っても来なかったり、開始時間にもルーズだ。

なにか用事があって夫に仕事を休んでもらうとき、夫が「休める」と言っても、信用できない。本当に休めるのか、上司はなんと言っているのか、プロジェクトの状況はどうなのか、そういうのを根掘り葉掘り聞いても、「大丈夫かもしれない」とは思うけれど、その日が来るまで心配し続ける。つらい。

そんな自分に気づいたとき、これはどうしてなのかと思えば、親が信用できなかったからに尽きた。「完璧を求め続ける原因」で書いた通り、親の言うことを信用していたら、今度は妹ではなく自分が階段から転げ落ちて死ぬかもしれなかったのだ。親に頼らなければ生きられない存在が、親を信用できない。常に周りでなにが起こっているか、完璧であるか、どこかに漏れはないだろうかと自分で確認し、死の恐怖を抱えながら毎日を生きていかなければならない。

親すら信用できない子供が、他の誰を信用できるというのか。カウンセラーにはそう言われた。確かにそうだ。

そうやって今まで、常に周りに神経を張り巡らせて生きてきたのだ。これはけっこうな病気だ。そういえば小さいころから「Kelokoは神経質だ」と親に言われてきた。汚いものやじめじめしたものが嫌いで、手をよく洗ったり拭いたりし、塗り絵はけしてはみ出さず、線を引くときは必ずものさしを使う。その理由がようやくわかった。

そりゃあ歯軋りだってするし、眠りも浅いし、リラックスもしたことがないだろう。そしてそんな私が「いい加減」なイギリス人に囲まれて「いい加減」なイギリス人の夫と生活することになれば、悪化の一途を辿るに決っている。人と一緒に暮らし始めれば、その人の分まですべて確認して生きていかないといけなくなる。自分のことも確認しつつ。そりゃあ病気にもなる。

個人カウンセリング用まとめ」や「大騒動から学んだこと」で書いた通り、「二人で乗っている船を一人で漕いでいる」という表現をよくしていた。これがそうだった。「夫の変化」が出てきたように、どんどん変えてきたい。ラクに生きられるようにしたい。

そのためには、どうしたらいいか。

1)大丈夫でなくても、死ぬことはない

まず理解することは、これだった。子供のころは親に頼らないと生きていけなかったし、その親が頼れない人間であれば生死に関わる状態だった。でも今は、自分で生きていける。そんな危険なやつに頼る必要はなくなった。大人になってきちんと判断を下せる「自分」という存在を頼りに生きていけるのだ。

しかも、私の生死に関わるようなレベルの信用できない人間は、そんなにいない。そこまでおかしければ、明らかに「それは違う」と自分で判断できるに決まっていた。

さらに、人の言っていることがちょっとおかしかったとしても、死ぬほどのレベルではない。夫が休みを取れなかったとしても、また別の日に調整すればいい。夫だって、そんな私の生死に関わるようなことに対して、おかしな判断を下したりしないはず。そういう人は、なのだ。私はたまたまそういう人を親に持って人生が始まってしまったから、世の中はそんな人ばかりだという洗脳をかぶってしまったけれど、きちんと考えればそうではない。たぶん世の中のほとんどの人はそんなことはないのだ。

2)ただ、人は適当なことを言うこともある

そして、次にこれも理解する必要があった。夫を含め、イギリス人全般そうだけれど、人が言っていることにそれほど注意を払っていなかったり、適当な返事をすることもある。でも、それでいいのだと。

そういうときは心配な気持ちを放置せず、注意を促せばいい。相手が私の言ったことを理解していなかったり、適当に返していると感じた場合、「I don’t think you heard me(ちゃんと聞いてもらえたか不安です)」や「I don’t think you understood me(理解してもらえたか不安です)」などと言えばいいのだと、カウンセラーに言われた。そうすれば、相手はきちんと注意を払ってくれるはずだと。

夫も、自分がやっていることに集中してしまう人なので、他のことは適当になってしまいがちなところがあった。大事なときはこう言って、注意を促せばいい。

こういうときに不安な気持ちを抱えたままにしてしまうのは、これもまた自分が「Entitle(権利が与えられている)」されていないという前提があるからだろうと言われた。だから不安に思っても、確認ができない。でも、心配に思ったら確認していいのだ。声に出していいのだ。というか、そうする必要があるのだ。「大騒動から学んだこと」だった。

確認されたところで、普通の人は「なに言ってんだ!」「私を信用していないのか!」と怒ったりなどしない。親はそうだったかもしれないけれど、この世の大多数の人は普通の人であり、普通の人はそんなことをしない。聞こえていれば「聞こえましたよ」と言うだろうし、聞こえていなければ「すみません、聞いてませんでした」ともう一度言うように言ってくれるだろう。

3)どこから始めていくか

カウンセラーいわく、いつもの自分がやらないようなことを少しずつやっていくのがいいとのことだった。

いつもなら、夫の言うことは信用しないで心配し続ける。「金曜日は5時くらいからオフィスでみんな飲み始めるから、Kelokoもロンドンにいるとき遊びにくれば」と言われた。そんなことを言われても、周りはすべて私の知らない人で、本当にそんなところに行っても大丈夫なのか不安になる。なんだかんだとはぐらかし続け、夫には不審に思われる。

①こういうところで、「私が行っても大丈夫なのか心配だ」と伝えること。夫が「大丈夫だよ」と言ってもまだ不安だったら、「でも不安だから、30分だけにしようかな」「30分以内でも、私が帰りたいと思ったら帰るね」と伝えておく。そうすることによって、自分が状況をコントロールできることがわかっているので、不安でいなくてもよくなると。

②行ってみたあとは、実際どうだったかを考察する。普通だったかもしれないし、やはりあまり居心地がよくなかったかもしれないし、思ったより楽しかったかもしれない。この結果のバラエティがわかることが重要とのこと。

いつも最悪の結果を想像してしまい、少しでもより安心な選択肢を取らざるを得ない。そうしていないと死ぬかもしれなかったからだ。でもものごとというのはいつも、最悪の結果の可能性もあり、最高の結果の可能性もあるのだ。そして、その二つの間に無数のバラエティがある。

仕事は見つからないかもしれないし、見つかるかもしれない。変な仕事しか見つからないかもしれないし、想像をはるかに超えるいい仕事があるかもしれない。このようにバランスのいい予想ができるようになることで、常に心配ばかりしていなければならない人生とも離れられる。

ここまでですでにもう、最初に「ヨガの師匠のカウンセリング」を始めたときには思いもよらなかったことが、たくさんわかってきた。これがカウンセリングかと思った。

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