あんこ事件、その1

現在更新してあるところは三年前の話になるのですが、現在起こっていることも記憶に新しいうちに書いておきたいなと思い、書き留めていくことにしました。カテゴリー99の「現在の状況」に入れておいて、更新が追いついてきたら時系列に入れようと思います。


この前、久しぶりに夫と喧嘩になった。

「喧嘩になった」というより、「喧嘩にした」という感じだ。

以前は言いたいことを抑えていたので、喧嘩にならなかった。でもそれが溜まって爆発する。だから「言いたいことが出てきたらその都度出すようにしないといけない」とカウンセリングでもやった。最初は言いたいことを押し込めていることにすら、気づけなかった。そのうち、言いたいことはあるのだけれどタイミングを伺って出せない自分を発見した。それからは、話の流れがおかしかろうがなんだろうが出す練習をしてきた。最初はうまく出すことができないけれど、そのうち上手に出せるようになってくる。カウンセラーにもそう言われた。

日本ではたいてい、言いたいことを言わずに相手に察してもらう努力をする。すると相手に察する能力が乏しい場合、言いたいことを押し込めるだけになる。夫のように愛着障害回避型は「人や自分の感情をスルーする」という問題があるため、そういう人が相手だと私の言いたいことは永遠に日の目を見ることができない。

私の場合、言いたいことが言えないのは、主に親から言いたいことを言える環境を用意してもらえず育ったからだ。なにを言っても否定されれば、人間はだんだんなにも言わないようになってくる。そして言わなければならないことが出てきたとき、否定されないようにはどうしたらいいかを考え、タイミングや言いかたをよく考えて実行に移す。それでも否定されるのだけれど、どんどん削られていく安心感とともに、どんどん用意周到に巧妙になっていってわけがわからなくなっていく。

また境界線が乏しく外部評価に頼っているので、相手がどういう反応を示すかに依存している。相手に否定されると、自分のすべてを否定されたように感じる。私の話に賛同するかどうか、人の感情や考えを強制することはできない。だから人の反応に自分の評価を頼っていたら生きていけないのだ。

相手の反応に関わらず、自分の言いたいことを言うこと。それは今でも私の中で大きな課題になっている。

この前は、それが久しぶりに浮き彫りになった。

イギリスには「Aduki Beans」という名前で小豆が売っている。私はそれでたまにあんこを大量に作って、小分けにして冷凍保存しておいて、好きなときにお汁粉を食べたりしている。ストックがなくなってきたので、また作ることにした。大量の小豆を何時間も煮てやっと完成し、冷ますためにお皿に移した。

お玉についたあんこを食べたらおいしかったので、もっと味見したいと思い、大きなスプーンに大量にすくって食べてみた。それを見た夫が、自分もとスプーンを出してきて味見をした。小さいスプーンだった。そんな小さいひと口で満足するかな、どうせもっとほしくなるのだから大きなスプーンでたくさんすくえばいいのに、まさかその使ったスプーンでまた味見をしたりしないだろうな、やりそうだな、でも同じことを何度も注意したことがあるし、やらないかもしれない、と思って見ていた。

やはり、やった

頭にきた。

私が何時間もかけて作った保存用のあんこに、馬鹿みたいに「うん、いいんじゃない?」とか言いながら口をつけたスプーンを突っ込んでいる夫に、猛烈に怒りが湧いた。

でもここで、怒りを出せなかった。笑いながら注意して、適当に済ませた自分がいた。馬鹿だ。

もうあんこを見たくなくて、食事の支度を始めた。それでも怒りがおさまらなかった。そこで初めて、自分の中の怒りに気づいた。「あ、怒りを押し込めている」と気づいた。ここまでこないとこんなことにも気づかないなんて、私もまだまだだなと思った。

この怒りをどうしようと思った。

「こんなことで怒るなんて大人げない」
「話は終わったのにまた持ち出すなんて」
「夫の冬休み最終日なのに喧嘩なんて」

そういう考えがぐるぐる頭の中をめぐった。どれも日本で、親のもとで、様々なところで植えつけられた「怒り=よくない、みっともない」という思い込みだ。「みっともない」と思い込ませれば、それを抑圧するようになるので、親や社会にとって都合がいい。そうやって周りからコントロールされてきたのだ。

そして子供の自分は、怒りを抑圧すれば親や社会から喜ばれて必要とされるので、これをサバイバルテクニックとして身につけた。本当に教えるべき、身につけるべきは、「上手な怒りの出しかた」だ。それができなかったのだ。

喉に問いかける」のセッションで、最後まで「怒り」が出てこなかったのもこれだ。

「怒り」も、立派な人間の感情の一つだ。無視していては現実が成り立たない。ネガティブな感情を無視し、ポジティブな感情だけ認めて過ごすのは、現実を無視している。実際にそこに存在するものを無視するのは、非現実。「こうあるべき」のバーチャル世界だ。

ネガティブもポジティブも、存在を認めて受け入れること。それが現実の世界を生きるということ。

世界は片方だけでできてはいない。陰陽の両方でできている。だから、ネガティブをざっくり無視していいことだけに注目するたぐいの「ポジティブ思考」は人を幸せにしない。明るいのだけれど、どこか空っぽで宙に浮いている。現実から目をそらし、非現実の世界を漂っているからだ。

ここで怒りをちゃんと出しておこう。自分の気持ちをちゃんと言っておこう。そう考えて実行した。

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3件のコメント

  1. こんにちは。いつも興味深いブログをありがとうございます。

    あんこ事件、どんなふうに喧嘩に持って行ったのか、持って行くべきなのか、このあとの顛末が気になります。

    この、「どうせこういうことするだろうな、でもいちいち口出しは良くないかな、あー、やった…」と先に全ての展開が読めてしまう気持ち、よく分かります。私も元夫とはいつもそうでした。彼が何かをする前に「どうせ考え無しにこういうことする→こういう失敗する→私怒る→雰囲気が険悪になる」まで完全に読めてしまって、それがあまりにいつもいつもなので、向こうは向こうで段々「どうせ俺は子供で、君は大人だよ」と(考え無しの行動を改善するでもなく)ただ拗ねるようになってしまいました。今でも、当時の場面場面を思い出しても”その時どうするのがベストorベターだったのか”というのは全く分かりません。

    (自分語りをしてしまいすみません。)

    ですので、このあんこ事件のお話は、まるで自分のことのように読みました。続きが知りたいです。

    *ところで、ひとつ質問させていただいてもよろしいでしょうか?英語で「自己肯定感」は何と言うのでしょうか?(日本語では新しい言葉みたいで、ネットで調べても対応する英語の言葉が分かりませんでした。)もし教えていただけましたら幸いです。よろしくお願い致します。

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  2. > Marikoさん

    こんにちは。同じような経験をされているのですね。お気持ちすごくわかります。私もカウセリング前はその繰り返しでした。カウンセリングでお互いの問題がどう絡み合っているかを分析して、やっとどう対応したらいいかがわかるようになってきました。その辺りを最初に書きたかったのですが…時系列が追いついてきたときにまた細かく書こうと思います。人によって問題が違うので私のことがそのままMarikoさんに当てはまることはないと思いますが、ヒントにはなるかもしれませんね。

    自己肯定感は「Self Esteem」だと思います。日本語でも「自尊心」とか「自信」とかいろいろな言いかたがあると思います。私はカウンセリングで習った「Self Esteem」がどんなものであるかと考えた結果、「自己肯定感」が一番よく表しているのではと感じたのでこちらを使っています。

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  3. kelokoさん、こんにちは。

    お返事ありがとうございます。

    「Self Esteem」ですか。人に話す時に何と言うのか分からなかったので、勉強になりました。ありがとうございます。

    カウンセリングも、やはりパートナーと同時に受けるのが効果的なのでしょうね。私はもう10年前に離婚しましたので今現在重大な問題があるわけではないのですが、結局自分の性質は変わらないので「もしまた同じ場面に直面したら?どうする?」と思うと、正解あるいはヒントだけでもあればぜひ知りたい、という気持ちになります。

    それでは、またkelokoさんのブログで勉強させていただきます。
    ありがとうございました。:)

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