Authenticな人生の始まり

でも考えてみたら、「Authenticに生きる」ということはすでに私の中で始まっていた。

「Authenticに生きた」結果、「大騒動の前夜」にSNSに自分の言いたいことを書き、「大騒動の襲来」があっても自分を通して謝ったりしなかった。ここにはっきり書いてある。「どれだけ悪く思われてもいい」と。筋の通ることだと思っていても、謝ることだけはできなかった。Authenticに通したのだ。

「従妹に「夫の悪口を書いて騒動になった」と言ったら、「行って謝って来い」と言われた。でも、どうあってもそれだけはできなかった。それが筋が通ることだとわかっていても、できなかった。夫と電話で話したときも、「Kelokoが来て謝るのが一番いい」と言われたけれど、それだけは嫌だった。どれだけ悪く思われてもいい。なぜかそれだけはしたくなかった。」

その結果、「大どんでん返し」で「大騒動から見えてきたこと」があり、夫の家族に「毒親の予感」が出てきて、夫の問題が表面化してきて紐解かれていくこととなった。

私が黙っていたら、お姉さんの言うがまま夫の実家に行って謝っていたら、なにもわからなかったことだ。

前の会社でも、日本人が残業をする中で「私は定時で帰りますよ」という態度を出してたら、「Kelokoさんはイギリス人と同じく定時で帰る人」という認識が定着して、必ず定時で帰れていた。「仕事に熱心じゃない」と思う人もいたかもしれないけど、いなかったかもしれない。いたとしても、別にどうでもいいことだ。定時で帰ってゆっくりできることが、私の人生にとっては重要だった。

考えてみると、他の様々なところでもすでにそれが始まっていたことに気づいた。

この一〜二年前くらいから、だめだと思う人、一緒にいて自分が傷つくと感じる人がどんどん出てきた。その人たちとは無理をして付き合うことができなくなり、相手にどう思われるか考える余裕もなく、連絡を断ったりフェードアウトしていくしかなかった。自分がみんなと仲良くできないダメ人間のような気がして、とても苦しかった。

でも、そんなことはなかったのだ。

自分が傷ついてまで一緒にいなければならない、仲良くしなければならない人など、いないのだ。そういう人とは離れていいし、「私はあなたによって傷ついてます」と言っていい。普通なら、理解して対応してくれるはず。万が一理解してもらえないことがあったら、それまでだ。

というのも、「それをすると痛いからやめてくれ」と言ったときに、それでもやめない人、「そんなことが痛いわけがないだろう」「それを痛いと思うことが間違っている」などと言ってくる人がいたら、その人は現実を把握できず妄想に生きているという相当致命的な問題を抱えている。が痛いかどうかは、世界中で私だけが知っていることだ。

相手にとっても妄想に乗ってあげない私と仲良くすることはつまらないだろうし、私にとっても害があるので、必要以上に接しなくていい。そもそも全人類と仲良くすることは不可能だ。

このころネットで、以下のような文を読んだ。

世界中の二割の人は、あなたがどんな行動をとってもあなたの事を嫌いになる。
六割の人は、あなたの行動によって好き嫌いが分かれる。
でも残りの2割の人は、あなたがどんなヘマをしてもあなたの事を好いてくれる。
世界はそういう比率でできてるらしい。

なるほど、と思った。どれだけ頑張っても私のことを嫌いな人もいるし、どんだけヘマしても好いてくれる人もいる。とすると、別に自分を押し殺してまで頑張る必要など、最初からどこにもない。「大騒動で学んだこと」のように、「落ち着かないから嫌だ」と言っていいのだ。

私の場合、まず「自分がどう感じてるかがわかっていない」という問題があったので、そこから取り組む必要があった。自分がどういう気持ちなのかを把握する、ということ。これができると判断しやすい。それには、

①なにか違和感があったら、それを無視せずにまずそこで立ち止まる
②なぜ違和感があるのかというところを、掘っていく。
③それで自分の気持がわかったら、それを出す。

この練習だった。カウンセラーいわく、最初は時間がかかるし、だめだと感じる人に対しては突然連絡を断ったりなどうまく対応できないけど、できるようになってくるとどんどん加速していくしうまく対処できるようになっていくから、大丈夫だとのことだった。そして、本当にその通りになっていった。

広告

4件のコメント

  1. 新しい記事の方を両方読ませていだたきました。

    自分のバックボーンが何でできているかだんだん進んできたんですね。私も「痛いわけないだろう」の人間でした。自分の本来の可能不可能を無視して生きてきたんだなってつくづく思います。それって良くも悪くも自分の中の「相対主義(?)」が原因で、それだけは自由で良いだろ!と合理化して生きてましたね・・・
    どうしてもバックボーンが変わらないとそれにすら気づけない、最悪正当化できてしまう。そう思います。

    いいね

    1. > マーゴットさん

      コメントありがとうございます。私も同じくでした。人に対しても、自分に対しても。毒親でもなんでも、すべての問題はこの「現実を正しく把握できない」から来ていると最近気づきました。相対化も合理化も正当化もする必要ないのですよね。それに気づけたことがよかったと思います。

      いいね

  2. > mimiさん

    お久しぶりです。私も前の記事から一か月がたっていてびっくりしました。
    許せばラクだから許したほうがいいというのは確かだと思いますが、でもだからといって「はい許す」とはならないのが人間なんですよね。メリットがわかっていてもできないならそこに必ず理由がある。今は許せないのか、なにかが変われば許せるのか、時間がたてば許せるのか。なにかはわからないけど、今すぐには許せない。「自分は人間である」ということを受け入れるってことですよね。
    なんでもポジティブポジティブというのが流行っていましたが、世の中も人間もポジティブだけでできてないんですよね。ネガティブもポジティブも両方あるという「現実」を受け入れたときに、そういうことかと思いました。
    「③それを出す」は、やっぱり最初は難しかったです。出せなくて凹んだり、出しかたが悪くて問題を起こしたりしました。でもそのうち「カウンセラーだったらなんて言うだろう」と考えればいいのだということに気づいて、そうするようになっていったらうまくできてきています。場数は大いにあると思います。
    私は親ともう何年も連絡をとっていないので、会ったらどうなるのだろうと考えることがあります。愚痴ぐらいで済むようになったら万々歳だと思います。

    いいね

  3. > mimiさん

    コメントありがとうございます。きっと多くの人が、許すことは忘れることだと思って生きていて、そして忘れることができなくてもがいていることと思います。自分は忘れてポジティブに生きていると思っているほうが、実際はネガティブがたまっていくんですよね。多くの人にもっとこれを知ってもらいたいと切に思います。

    いいね

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください