興味のあることをやってみる

自己肯定感を育てる」で習った通り、好きなことをなんでもやってみることにした。すでに車の「マニュアル講習」をやってみてはいたけれど、他にもなにか探してみた。

このころちょうど近所の友人が家計簿のつけかたをみんなに教えてくれるというので、それに参加してみた。もともとデータ処理の仕事をしていた私は、家計簿ソフトなどを使わずに、Excelで自作してつけてみた。このころ夫がフリーランスで仕事をしていたので、税金の計算も含め、口座の管理をするのが楽しかった。のちのちこれは止めてしまうのだけれど、私たちの収入が毎月どれくらいマイナスになっているのかもはっきりとわかり、このときはとても役に立った。

また、ジョギングも始めてみた。以前はZumba(ズンバ)という、南米の音楽で楽しく踊るエアロビみたいなものを自宅でやっていたのだけれど、「突然の引っ越し」があってからは小さい部屋になり、家に十分なスペースがなくてできなくなった。本来は水泳が一番好きなのだけれど、施設へ行って着替えをして取り組まなければならないのが面倒だった。

ジョギングでは、Zumbaよりも圧倒的に汗をかけた。冬だったけれど、走ったあとはいつも顔が真っ赤になって汗だくになり、爽快感があった。運動をするということは酸素を体に取り入れることなので、ヨガの呼吸法と同様に、停滞しているエネルギーも流れてくる。それまでにも何度かジョギングに挑戦したことはあったけれど、苦痛でしかたがなく、すぐ止めてしまうことばかりだった。このときも数か月しか続かなかったものの、それでも数か月続いただけそれまでとはまったく違っていた。

またRunKeeperというアプリを携帯にインストールして、走った距離やスピードをつけられたのもおもしろかった。これをつけたいがために、あまり乗り気でない日も走りに出た。けっきょくはこの「データを集める」ことがおもしろくて、中身のないジョギングになってしまったけれど、今でもたまに気分転換のために走るようになった。

あとはマニアックなのだけれど、ヘブライ語の勉強を始めた。このころ家でネットで動画を見まくっていて、その中に「日ユ同祖論」というものがあった。その昔、ユダヤ人がイスラエルを離れたあとに、一団が渡来人として日本にたどり着いたという説だ。

日本人にはユダヤ人の歴史というのはあまり馴染みがないかもしれないけれど、私はカトリックの高校を出ていたので、聖書の知識があった。聖書には二種類あって、ユダヤ教徒の使う「旧約聖書」とキリスト教徒の使う「新約聖書」がある。日本に住んでいたころ、一時期英語の勉強でBible Study(聖書勉強会)に参加していたのだけれど、そこで新約聖書を読んだことがあった。それよりも古い、あの有名な「創世記」から始まる旧約聖書も読んでみたいと思っていた。

どこまで本当かわからないが、番組では元駐日本イスラエル大使が日本語とヘブライ語の共通点や神道とユダヤ教の共通点を挙げて話をしており、とてもおもしろかった。私はこういう、まったく異なると思われる文化の間の共通点を見つけたりすることがなぜか大好きだった。一神教の誕生以前には、日本の八百万の神、エジプトの神話、ギリシャ神話など、いろいろなところで自然信仰という共通点が見られること、またそれでも太陽神が女性のところと男性のところという違いがあったりして、それがどういうところから来ているのかというのを考えるのも好きだった。

また言語学も好きだった。昔から、ひとつの言語を追求するのではなく、いろいろな言語を勉強して共通点や違いを見ることが大好きだった。ロンドン近郊で生活する中で一番おもしろいのが、日常的に様々な言語を聞くということだ。とにかく家を一歩出ると、様々な種類の言語が流れてくる。それでも今だに、ロンドンの中心部を歩いていると「これなに語?!」という言語が聞こえてくることもあって、本当におもしろい。ハングルのラベルが貼られたかばんを持っているのに、話している言語がまったく韓国語に聞こえない一団だったり、本当にもう東か西かどの辺りにある国なのか検討もつかない言語もある。世界中の言語を勉強してみたいとよく思う。

こんなことは、まったくなんの役にも立たない。それでもおもしろい。おもしろいと思っている自分に気づいた。それまでは、自分がそういうことに対しておもしろいと思い、興味があるということにすら気づかなかったのだ。言語学は好きだった。でもペラペラになるように勉強するのでなければ意味もないし役に立たないから、スルーしていた。テレビだけ見て、人の話だけ聞いて「ふーん」で終わっていた。

だから日本語とヘブライ語が本当に似ているのかということを知るために、ヘブライ語を習ってみたいと思った。

ネットで探したところ、偶然歩いていけるところに先生が見つかった。普段はピアノの先生をしているのだけれど、ギリシア語に堪能で、ヘブライ語もわかるということで、レッスンを依頼した。ただこの先生はやはり語学を教えることが上手ではなかったことと、ヘブライ語のネイティブではないために発音などもよくわからないこと、またギリシャ語のほうが好きなのか、どうしても話がギリシャ語や発掘の話になってしまうので、2〜3回でレッスンを終わりにしてしまった。

それでも自分の興味のあることに挑戦してみたということは、いい一歩だった。お金にもなんにもならないことでも、自分が「好き」だからやってみる。自分の気持ちを肯定する。これだけのことが、今までの人生でまったく損なわれていたのだ。日本では家庭でこれを教わらなければ、学校でも社会でも教わることはできないだろう。

思い出すのは、夫と共通のイギリス人の友人と食事に行ったときのことだった。私はステーキが食べたかった。でもステーキは他の肉料理より数ポンド高かった。そこでものすごく時間をかけて迷った挙句、やはり他の肉料理にした。友人はそれを見て、「どうして食べたいものを食べないのか」と聞いてきた。私は「ステーキは高いから」と答えた。友人は信じられないという顔をしていた。

たしかにステーキは高かった。でもたかだか数ポンド(数百円)だ。せっかく外食に出たのに、数ポンドを控えて食べたくもないものを食べる理由はなんなのだろう。

日本では、いつでもどこでもなんに関しても、とりあえず節約し切り詰める、贅沢は敵だという考えがあると思う。そうなると、どんなレストランに行っても一番高いものは食べられない。同じ1,500円の料理でも、高いレストランで一番安い料理だったら頼めるけれど、ファミレスで一番高い料理だったら頼めない。たしかにおかしい。

もちろん明日の家賃が払えなくなるほどなら問題だけれど、そうでないなら食べたいものを食べるべきだ。食べたくもないものを食べるなら、お金を払って外食する意味がない。

以前の私は、旅行先でも少しでも安い店やレストランを探して歩き回ったりしていた。旅行先で、もう同じものは食べられないかもしれないところで、食べたいものを食べず、安いところを探してみなければならなかった。タクシーをケチって迷って大変なことになり、見たいものも見れずに終わることもあった。これは夫と旅行を重ねる中でだんだんと気づいていったことだけれど、私は本当にお金に関して変な洗脳があった。

これものちに理由がわかるようになるけれど、「就職活動を中止」したように、もう変なところに目を奪われるのではなく、もっと全体像を見るようにしていこうと思うようになっていった。

またここで、自分がどんなことが好きなのかということもわかってきた。違うものの中に共通点を見つけたり、異なる点を見つけたり、いろいろな視点から比較してみることだ。また、ひとつのものを追求するよりも、広くたくさんのものを見てみることが好きなこともわかった。

大学受験のころ、本当は考古学言語学がやりたかった。でも就職につぶしが効かないので、経済学部を選んだ。考古学や言語学を選んでいたら、どんな人生があったのだろうと今でも考える。でもあのときは「毒親から離れる」という最善の選択をした。あのころにやっていても、思いっきり楽しめなかったかもしれない。今からだってやってみればいいのだと思うことにした。

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4件のコメント

  1. >日本では、いつでもどこでもなんに関しても、とりあえず節約し切り詰める

    そうですね~
    そういう気持ちもありますけど、「周りに合わせる」という意識もあると私は感じます。

    例えば、職場の昼休みに仕事のメンバーでランチに行くときは
    上の役職より高いものは頼まない…とか

    数人のグループで行ったときに、出てくるタイミングや
    食事にかかる時間を考慮して、同じぐらいに合わせる…とか

    あとはよほど気ごころ知れた仲間であればいいのですが
    そうでない女性グループで行ったときは
    一人だけ高いものを頼むと懐具合を探られる可能性があるので
    無難に周りと合わせたものにするとか。

    こういう空気を読むことは社会に出て学習しましたね~

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    1. > ななみさん

      そういうのすごくありますね。私は幸いあまり気を使うような環境にはいたことがないのですが、お会計がしやすいようにと周りと同じものを頼んでいたのを思い出しました。周りを見て行動するのはいいことですけれど、周りだけで行動して自分がまったくないのはやはりよくないですよね。日本はそうならざるを得ないのがつらいです。

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  2. >お会計がしやすいようにと周りと同じものを頼んでいた

    そうなんですね。

    そもそも「自分が食べたい」ものは
    意見が通らない家庭で育ったら
    自分がないままに他人に合わせるのが当たりまえで
    自分が無意識に「食べたいもの」を抑えていることが
    わからないから、
    好きなものを頼む人を毛嫌いしてしまう
    (自分ができないことをしているから)

    自分の食べたいものを食べたいだけ食べることが
    できること家庭で育って
    自分自身を尊重できていたら

    その時の目的によって
    「自分はこれを食べたいけれども、
    今日の外食の目的がこうだから、これを食べる」
    という選択ができるということで

    同じように周りに合わせたかたちでも、
    質的に違うんでしょうね

    kelokoさんの記事を読み、
    こちらに書き込むことで考えがまとまりすっきりしました
    ありがとうございます

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    1. > ななみさん

      ズバリそれですよね。好きなものを頼む人、好きなことをしてる人が日本では「なってない」と叩かれる仕組みですよね。こちらこそコメントありがとうございます。考えさせられます。

      いいね

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