頭のおかしい夫

電車の中で泣く私に、夫は「大丈夫か」などと今度は声をかけてくれていた。それまでもさんざん泣いていたので、さすがに無視はされなかった。あれだけの気持ちを爆発させたのだから、やっと気づき始めてくれたのだと思っていた。

でも、私の涙を拭きながら「泣いてたら美容師さんに失礼だよ」とケラケラ笑い始めた。

世界が暗転した。

自分の「妻」が自殺しようとして、今もまだ泣いている。電車の中で他に人がいるというのに、泣いている。どう考えても異常な事態だ。そこで冗談を言って笑える神経。隣にいるこの「夫」とされているものは、果たして人間だろうか。

極度の恐怖に襲われた。私の涙を拭いてくる指が怖かった。無垢で優しそうな笑顔の下に、なにか触れただけで死ぬような毒が詰まっている感じがした。恐怖で身動きが取れなかった。

駅に着いてから、どうにか動けるようになった。駅では周りに人もいるし、なにがあっても走って逃れられるので、少し安心した。そしてやっと、この場で笑える神経を批判した。お前がそんなだから私の頭がおかしくなるのだ、そうやって私の気持ちを、私の存在を無視してきたことを「絶対に許さない」と言った。

するとあんなに優しそうに涙を拭いていた夫は、急に目を吊り上げて気が狂ったように激怒した。大変なことがあってやっと落ち着いたのに、また急に問題を巻き起こされた、そう言っていた。

そんなに怒ることでもなんでもない。私は声を荒げることもなく、自分の主張をしただけだ。しかも妥当な主張をした。なのにこんな顔をして怒るのはどう考えてもおかしかった。たとえナイフで刺されたとしてもこんな顔はしないだろう。常人の顔ではなかった。

「頭がおかしいのはこいつだ」とわかった。

私がおかしくなるのは、私のせいではない。こいつの頭がおかしいから、私がおかしくなるのだ。

もちろん、このときまだ私も問題を抱えていた。境界線はやっと薄っすらできてきたところで、まだまだ自分がしっかりとはなく、夫や周りの声に支配されていた。

でも、明らかに夫もおかしかった。というより、夫のほうが異常だった。初めてそこに気づいた。

それまでは、なんとも思わなかった。いや、表面上はなんとも思っていなかっただけで、潜在的に傷はついていた。でも認識はまだなかった。それが私がだんだんと自分を持ち始めるようになって、だんだんと夫に違和感が出てくるようになり、表面化して認識できるようになってきた。

そこから自分がもっとしっかりしてくるようになって、夫の言動にはっきりと傷つくようになってきた。それがこの段階だ。ここからさらに自分がしっかりして境界線ができた今現在は、もう夫の言動に傷つくことはない。でもこのときはその手前で、一番つらいときだった。

ここを乗り越えるのは、容易ではない。しかもこのときは、まだ「なにがおかしいのか」もわかっていなかった。ただ夫がひどい人間で、その言動に傷つくのだ、ということだけしかわからなかった。

夫は「慰めるために冗談を言ったのに」と目をむき出して怒っていた。完全に頭がおかしかった。

それまでだったら、たとえ違和感を感じていても、自分が傷ついていても、夫の気持ちを自動的に汲んで、自分のことはスルーして黙っていただろう。夫からなにも言われなくても、「きっと私を慰めるために冗談を言ったのだ」と思って自分の違和感を押し込めていただろう。

でももうそれができなくなっていた。

だって、私のだ。私が自分の命を消そうとした、それさえも無視されるとなると、どう考えてもスルーできなかった。他のことなら百歩譲ってまだいいとしても、私の命がかかっても夫を尊重しなければならないのはおかしい。

妻の命を尊重できない夫とはなんなのだ。そこまでして譲ってやらなければならない「」とは?

誰から見ても優しそうな風貌の薄皮一枚の下は、人には理解できない恐ろしいもので埋め尽くされているように感じた。もうだめだと思って、逃げた。大きな駅の中を逃げまわり、捕まってしまったところでもうどうにもならなくて床に崩れ落ちてしまった。

実家にいたころ、救急車を呼ぼうとしたことを思い出した。誰かに助けてほしかった。救急車は「急」を「救う」車なのだから、助けてくれないだろうかと思った。あのときも絶望的だった。でも誰も助けてくれなかった。

周りに人はたくさんいた。床に崩れ落ちてる私を見て、たくさんの人がこちらを見ていた。でも誰も助けてはくれなかった。

夫が起こしてくれた。駅の隅は夜に人が吐いたりするから「汚い」とのことだった。私の気持ちを理解したのでも、自分がおかしいことを反省したのでもなかった。本当に、物理的なものしかその目にも頭にも耳にも届かないのだった。

夫は人間ではなかった。人間の体を持った機械だった。

このころ友人から「アスペルガー症候群」について聞いたので、夫はこれではないのかと思った。夫にこれを言ってみたけれど、夫はただただ否定するばかりだった。

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

w

%s と連携中

This site uses Akismet to reduce spam. Learn how your comment data is processed.