「毒になる親」第五章抜粋から

前記事で抜粋した部分について、自分のことと合わせて考えてみた。

 親の言葉は「内面化」する

毒親の問題でもっとも恐ろしいものが、この「毒の内面化」だと思う。多くの人はきっと、毒親のもとを「脱出」した時点で大丈夫だと安心すると思う。でも実際はここからが始まりだったりする。もう大丈夫になったのに、自分がなんだかとても生きづらいことに気づいていく。そこまでは多くの人が進めたとしても、それが親の影響だとわかって解毒に進める人というのは、とても少ないのではないだろうか。

私も最初はただただ親が悪かっただけで、自分は大丈夫なのだと思っていた。でも後から後から自分の中に染みこんでしまっている毒を発見し、鳥肌が立つ。

小学生のころ、お葬式があって親戚の家に行った。なぜか両親はそこにはおらず、周りに知らないおばさんたちがいる中で、妹と二人でその家に残っていた。そこにお寿司が到着した。妹はまだ小さかったので、おばさんたちに「私と妹はひとつ(一人前)でいいです」と当たり前に言ったところ、おばさんたちがびっくりして「こんな小さいのになんてしっかりしてるの!」と大騒ぎされた。

私は「???」状態だった。「え、私がしっかり?」と思った。

毒になる親」でも書いた通り、私は親から「だらしのない女」と言われ続けて育った。だから人からそれとは違うことを言われたときに、すぐ理解できなかったのだ。

それまでも「部屋が汚いだけだ」というようなことは思っていた。でもこのことがあってからさらに、やはり自分はすべてにおいてだらしがない人間なわけではないと思うようになっていった。それでも妹が「お姉ちゃんがしっかりしてるってみんなじゅうに言われてた」と母親に報告したときは、「そんなこと言わなくていい!」と思った。経験がなかったから、「いいこと」を言われたときにどうしたらいいかわからなかったのだ。

だから、母親がそれをほめもせず「ふーん」と流したことに対して、ほっとまでした。なんだか寂しいような気はしたものの、ほめられるよりはましだった。子供としておかしい。親の「だらしがない」という言葉を、すっかり内在化してしまっていた。

日本人の中には「それのどこが悪いのか」と言う人もいると思う。謙虚でいいではないかと。少しくらい「自分はできない」と思っていたほうが、努力するようになるのではないかと。でもそうはならない。

親の言葉を内在化して、子供は自分が「だらしがない人間だ」と言語上は認識しているとする。でも子供のはきちんと「そうではない」とわかっているのだ。だから無意識に「本当の自分」とはまったく異なる「親から言われる自分」とのギャップに苦しむことになる。小さなことでイライラしたり、悪いことしても謝れなかったり、たまっていくストレスを出そうと躍起になると思う。

 完全でないと許さない親

子供は「多少の失敗をしてもそれがこの世の終わりではないこと」を身につけなければならない。でも私は失敗をすると「そらきた」と取り上げられて血祭りに上げられるから、自分の失敗を受け入れられるようにならず、「満足できない」でも書いた通り、常に完璧を目指して動き続け、一度もほっと安心することができずにいた。

これがあるとどうなるかというと、仕事などでも人から少し指摘されたり直されるだけで「いや私はわかっています」と全身全霊でカバーしようとする。大したことではなく、ただのタイプミスのような「気づいたから言うけど」ということであっても、いちいち心臓がぎゅーっとなって「ただのタイプミスです、馬鹿じゃないんです」「いつもはちゃんとできてます」と全力でカバーしようとする。

これは本当に大変だ。

それと同じく、の少しのミスや改善点も見逃せない。だから小さなことでもいちいち指摘して人に嫌な思いをさせたり、親として子供に対しては安心させてやることができなかったりする。いつも人をキリキリさせる、なんだか一緒にいて疲れる人になってしまう。

私も気づいてからは、いろいろと努力をしてみた。上司から修正を入れられても、

「上司はこの書類を見る人のためによりよくしようとしているだけで、足りないところがある私を責めているわけではない」
「これはこの書類をよくするための『会議』で、二人分の知恵を出し合って二人で作り上げているところなのだ」
「時間のある私が書類にしたことでボスも助かっているわけで、私だけがおぶさっているわけではない」

などと念じまくった。より「二人で作り上げているのだ」感を出すために、なにかを言われてもすぐ「わかりました」ではなく、「なるほど」を入れるようにした。これだと「自分が馬鹿で直されている」というよりは、「意見を出し合った」という感じが出る。

なにより、上司に気を使わせたり、周りから扱いづらい人間と思われるのが嫌だった。なんでも気軽に言ってもらって、私も気軽になんでも言えて、自分がラクになるために気軽にコミュニケーションがとれる人になりたかった。

「お前のために言ってるんだ」という口実

これはすべての毒親に当てはまるのではないかと思う。

ねじ曲がった劣等感を抱えてる人は、それを隠すために他人をけなして自分の優位性を示そうとするけど、それに自分の子供を使っている人=毒親なんだと思う。毒親自身がその親からサポートされて育っていないため、自己肯定感を育むことができず、ぽっかりが空いている。そこで「自分の子供」を使ってそれを埋めようとするのだ。

父親はかなり年の離れた兄弟の末っ子で生まれたため、いつも子供扱いされていて、それが大変気に食わない様子だった。だから、言うことを聞いて自分を持ち上げてくれる、学歴のない母親が居心地がよかったのだろう。母親は母親で、自分より「頭がよくて」「なんでもできる」父親に全面的に尽くすことで、自分の自己肯定感を埋めようとしていたのだ。

そこに、私が生まれた。母親の自己肯定感を埋める役がになり、父親は「かわいいかわいい言うくせに、おむつを変えたことがない」などと母親から言われるようになって、妻によって自己肯定感を埋めることができなくなっていったのかもしれない。

でも、そもそもそうやってを使って自己肯定感を埋めようとすることが間違っているのだ。

生育過程で親から身につけさせてもらえなかった自己肯定感は、人やものを使って身につけることはできない。「自分」というものを自分で肯定できるように、自分でなるしかないのだ。というのは、他者と比較して得られる評価は永久ではなく常に変化していってしまうものであり、しかも必ず本当の自分と完全にマッチしていることはないからだ。

母親が私を「だらしがない」と注意することで、「自分はしっかりしている」と自己肯定感を埋められたとする。でも私が成長して「しっかり」するようになったとすると、とたんに自己肯定感が欠如してきてしまう。小さいころだらしがなかった子供でも大人になってしっかりするということは、どこにでもあることだ。

それでも母親のために、私は「だらしがない女」でい続けなければならない。それでないと母親が自分を保てないからだ。これが、母親が「毒母」となるメカニズムのひとつだと思う。

また母親が自分を「しっかりしている」と位置づけていても、部屋の掃除以外では私のほうが「しっかりしている」部分があったりする。そうすると、自分が「しっかりしている」ということに対して疑問が出てきてしまう。それを打ち消すために、よりいっそう私の「だらしがない」部分をつつかなければいけなくなったりする。

だから、自分で自分の中で「私はこれとこれができるくらいしっかりしているな」と評価して、それが「100%しっかりしてる」でなかったとしても「これが私」と受け入れることが重要だ。

生まれたときからなにをやっても親に受け入れられたきた人はそれができるから、自分がひとつできなくても困ったり嘆いたりはしない。「次は頑張ればいい」と思える。自己肯定感がきちんとあり、自分の存在に対する安心感があるので、前向きに生きていける。

逆に小さいころから親に受け入れてもらってこなかった子供は、「条件を満たさないと存在してはならない」という洗脳があるため、自己肯定感と安心感を持って生きていくことができない。100%しっかりしないといけないし、「自分は100%だらしがなくて、親は100%しっかりしている」という白か黒かの両極端な考えという縛りを抱えてしまう。

このころはそこまでは理解できておらず、ただただ毒親に対する怒りにあふれていた。でも人間には段階があるので、それぞれのペースで解毒していけばいいのだ。

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2件のコメント

  1. 私はだらしないとも言われましたが、幼少期から”とろい”と言われて育てられてきたため、類似表現のおっとり、だとか、遅いと言った言葉に異常に反応していました。病気やケガをすると怒られていたので、他人に優しくされると涙が出そうで辛いのを我慢したりしてました。小さい頃から大人びた態度や発言をしていた点も同じです。私は大人びた態度をすることで、しっかりした子と褒められるのが、嬉しくて演じていた気がします。先日ですが、小さい子を見た母が、もう一度若い頃に戻り、もっと子供を産んでもっと厳しく育てたいと言ったのです。何かに取り憑かれてるのではないかと怖くなりました。

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  2. > さくらさん

    怖いですね…お母様が若返ることができなくてよかったです。人の優しさに涙が出る気持ちわかります。自分がどういうものに反応してしまうのかなど、日常生活の中でどんどん気づくようになっていくと思います。そこを掘るといろいろなことがわかってきますよ。私はそういうことを話せる友人との出会いによって、お互いにそういう話をして気づきを増やし、回復に向けてもっと前進していけるようになりました。カウンセリングでもできますが、いろいろな人と話すことでまた違った気づきができたりします。こうして人の話を読んだりすることでもできますよね。

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