スピリチュアルカウンセリング3回目

以前お世話になったスピリチュアルカウンセリング(「ふたたびスピリチュアルカウンセリングへ」)へ、また行ってみた。

同じ月に、スピリチュアルのリーディングカウンセリングの二つを受けたことになる。さらに、このあと書くけれど、ヒプノセラピーも2回受けた。このときはもう、年始の実家でのことと、夫のことと、とにかくいろいろなことがありすぎて、どうしたらいいのかわからなくなっていた。

「息がしにくい」という感じがある。喉から胸の辺りがラクでなく、圧迫感があったり追われている感じがあって、自由がなく落ち着かない。はっきりしないことやもやもやしていること、プレッシャーに感じていることがあって、それが解かれれば全身で呼吸ができるようになって本来の自分に戻れる。

でもこれがほどけてくるとラクにはなるけれど、「怠惰になってしまうのではないか」という不安もある。小走りしているほうがいいような気もするんだけれど、そうすると他からの負荷がかかってきてしまって、自由でなく居心地が悪くなってしまうので、どうしたものかという感じ。

まさに夫の仕事のことだと思った。「夫の状況に不安」を覚えていた。なんで前の仕事を辞めさせてしまったのか、夫を応援してしまったのか、非常に後悔していた。

「一度外に出る」というその経験は、必要だったのだと思う。もしそうでなかったら、なんらかの理由が出てきて出れなくなっていたはず。私がどれだけ止めようと、経験すべきことだったら必ず起きる。だから、もう少し前でも先でも「その経験をする必要があった」ということ。

「これってどんな味なのかな」となんとなく味を想像することはできるけれど、外から見ているだけでは「こんな味かもしれない」「こうかもしれない」だけで終わってしまう。実際にそれを味わってみないと、現実を知ることはできない。

もし私がどうにかして止めてしまっていたら、夫ができるべきだった「発見」ができなかった。「どんな味なんだろう」と思っているところへ、私が「こういう味だよ」と言って「あ、そうなんだ」で終わってしまっていたら、夫がするべき経験を私が止めてしまうことになる。

「だから後悔する必要はない」とのことだった。たしかにこういう考えかたをすれば、後悔を引きずらず前へ進むことができる。

赤ちゃんが歩き始めたとき、うまく歩けなくて転んでしまったりするけれど、そこで「危ないから」といつまでも親が抱っこしたままでいたら、5歳になっても歩けるようにはならない。転んで怪我をしたり、疲れてしまったりするけれど、周りにいつも囲まれていたらするべき経験ができず、当たり前のことさえできない人間になってしまう。

小さいころは怪我をしたりもするけれど、だから「気をつけよう」と思うようになる。道に飛び出しそうになって、車が来てはっとするようなことを経験して初めて、「危ないんだ」ということを学ぶ。でもそれを学ぶ前になんでも止めてしまっていたら、なにも学べない。経験すべきことは、危険のない範囲で経験させてもらえるようになっている。

たしかに、これはそう思った。仕事を辞めさせないことは絶対に不可能だったけれど、もし辞めさせなかったとしたら、いつかきっと「あのとき辞めていたら」などと言われるだろうと思っていた。だったらまだ子供のいない今のうちにやらせてみたほうがいいのかもしれない、と思った。

ここに、二つの違う生きかたがある。夫の場合は、実際に経験して、見たり感じたりして、そこから「どうしようかな」と考える。私の場合は、最初にほぼ「こうしたらこうなるだろう、その場合はこうすればいいかな」ということをあらかた考えておいてから、実際に進む。

夫が「やってみないとわからない」のだというわけではなく、「当たってみる」「ぶつかってみる」という考えかただということ。料理でも、まったく味見をせずに最後まで作るより、味見をしながら作るほうがいい。

そこでうまくいかなかったとき、一生引きずるトラウマになってしまうような人もいる。でも夫の場合は「生きる力」が」あるので、「あーこれは違うかな」とだけ思って絶えず前に進んでいく。これは多くの人ができるようなことではない。

夫はあんまり考えてないから、失敗しても傷ついたり学んだりせずに「はい次」となるのだろうと思っていた。でも考えてみたらたしかにそれは「やってみて違ったら別の方法を試してみる」という別の生きかたなのかもしれない。

たしかに私は不安症で過剰な完璧主義だから、失敗が怖いし、失敗が許されない。だから前もっていろいろ考えておいて、だいたい考えていたような結果が出ることを期待する。そしてそれがうまくいかなかったときは、ものすごく落ちる。

失敗が怖くない人なら、とにかく思ったことをいろいろやってみて、「ひとつうまくいかなかったら別の方法」と動いていくことができる。逆にこの生きかたのほうが、失敗を怖がる必要もなく、生きやすいのではないか。

というより、そもそもそれは「失敗」ではなく、ただの「経験」ではないか。なんの経験もなく最初から正解を出すことは、どう考えても不可能だ。赤ちゃんが最初からきれいにさくさく歩いたりしないのと同じだ。

人はいろいろ経験してみて、そのときそのとき自分にとってなにがいいかを見い出していく。そしてそれは、いろいろ経験することでしかわからない。ただそれだけのことなのではないか。

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