突然の引っ越し

そんな右にも左にも行けない苦しい停滞した毎日を送っていたある日、一通の手紙が届いた。なんと、当時の町に越してから1年後の更新時期に、大家が退去通知を出してきたのだ。

「今日こそなにか変化がないともう死ぬ」と思っていたところに、本当に変化がやってきた。こんなことがあるのかと心底驚いた。

大家はまず、更新の3か月前に突然連絡を取ってきて、内見したいと言ってきた。こんなことは、今まで住んだどこのアパートでも一度もなかった。もちろん契約書にも、「1週間前にテナントに連絡をすれば、大家が内見できる」となっていたし、特に断る理由もなかったので、来てもらった。全部の部屋を見せて、普通に帰っていった。と思ったのに。

不動産屋いわく、大家は「改装したいから」という理由で、退去願いを出してきたとのことだった。でも、なにが本当の理由だったのかは、今だにわからない。いろいろ考えたけれど、改装期間もなくすぐにネット上で「即入居可能」の募集広告が出たから、とにかく私たちのなにかが気に入らなかったから追い出したかったのか、テナント入れ替えで手軽に賃上げしたかったんだと思う。

それは全部あとから知った話になるわけだけど、とにかく、ある日突然、ポストに物件管理会社からの手紙が入っていた。更新の連絡だろうと思った私は、それをきちんと読まずに、帰宅した夫にただ渡した。

それを読んだ夫は固まり、うんともすんとも言わずただ手紙を見つめた。

なんなんだろうと思っていると、「これはすごく重要だ」と、手紙の内容を話し始めた。いわく、契約書の条件に則り、手紙を受け取った時点から2か月内に退去しなければならないとのことだった。

日本では考えられないことだろうけど、イギリスでは普通にある。大家とテナントは単なる契約で結ばれた関係で、通常2か月前の通知を持って、退去退去願いもできる。人に家を貸して海外に住んでいた大家が、ロンドンオリンピックを見るためにこの年だけ帰国したいからと退去願いを出してきたという話も聞いたことがある。それくらい賃貸というのは軽いものなので、みんな自分の家を持ちたがる。

しかも、テナントが退去したい場合は、2か月前に知らせ、その2か月の間家賃を払って退去しなければならないが、大家が退去してほしい場合は、2か月前に退去願いを出し、それより早くテナントが出たとしても、その2か月分は家賃をもらえるという仕組みだ。これは納得ができない。貧富の差が激しく、金持ちが自分たちの利益のために法律を作るこの国では、大家のほうが守られている。日本も最近は似たような社会になってきているので、こうならないように気をつけるべきだと思う。

とにかく、こうして突然の引っ越しが決まった。

最初は呆然としてしまったが、私はこの引っ越しが大歓迎だった。周りは「大変だね」「かわいそうに」という同情的な人が多かったが、私自身はまったく苦労だとは思わなかった。確かに大家のその「にこにこと会いに来ておいて実は追い出す」という、庶民を虫けら同然に扱う態度には腹が立ったが、退去自体に関しては大歓迎だったのだ。

それまでの鬱々とした毎日を、大きく打ち破るための引っ越しだと思った。長年続いた曇り空の間から突然光がこぼれ、それがさーーーーっと広がっていく感じがした。これで、いろんな停滞していたものが大きく動き出すような感じがしたのだ。その手紙こそが、変化の光だった。

でも、これをわかってくれた人は本当に少なかった。周りはみんな「ひどいね」「かわいそう」と誤解していた。ちゃんと説明すればわかってくれた人もいたが、「無理して前向きに捉えようとしている」と決めつけた人が圧倒的に多かった。これにも傷ついた。みんな私に「お前はかわいそうなんだよ」と言っているように聞こえた。人というのはそんなものかと、いらないところで失望した。毒親育ちの境界線のない、「人は人」と思うことができない私だった。

それでも、この引っ越しは「チャンス」だと思った。ダムやが決壊するように、停滞していたものが地響きを立てて流れ出すように感じた。

そして、思った通りに、引っ越し先がすぐ決まったのだ。

当時住んでいた町はきれいではあるんだけど、古い町で、家も古いものばかりだった。古い建物は寒く、暖房費がかさむので、新しくて断熱性の高い家がよかった。夫が電車通勤をしなければならなくなるけれど、隣の新しい町を見てみると、ちょうどズバリ私たちが引っ越さなければならないときに、新しくできたマンションが完成し、部屋がいくつか賃貸で出始めていたのだ。

かなり狭くはなるものの、家賃もかなり安くなり、新築の大きいマンションなので壁が厚く保温性は限りなく高く、駅から徒歩5分、しかも8階の最上階真南を向き、一階には小さいスーパーが入っていて、毎日朝の6時から夜の11時まで開いているという、本当に便利なところだった。

イギリスを知らない人にはわからないかもしれないが、この国では日曜日はお店が夕方にすべて閉まる。そんな国で、日本と変わらぬ生活を手に入れたのだ。これはすごいことだった。このときこれ以上の理想があるかという部屋だった。こんなにいいタイミングで、ドンピシャの物件が出てきていたのは、もう本当に引っ越すべくして引っ越すことになったのだと、今でも思う。

下見をして、即決。すぐ査定に入ってもらい、すぐ決まった。通知の2か月より、1か月も早く出れることになってしまったので、残りの1か月は住まないのに家賃を払うことになりそうだったが、「自分から出て行けと言っておいて、こっちの都合で出ることが許されないのはおかしい、早く出て行けるんだから、その分家賃を二重に払わないで済むように早く契約を切らせろ」と言ったところ、管理会社が話をつけてくれて、了承してもらった。金持ちの大家からすれば、たかだか1か月分の家賃くらいでいらぬ問題をかわせるなら万々歳だろう。このように融通が効くところも、この国の特徴ではある。

こうして、新しい家での生活が始まった。季節はちょうど、だった。

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