人と人の境界線

私には、一定の間隔で見る悪夢がある。

両親か妹が出てきて、私にちょっかいをかけてくる。最初は私も笑いつつ対処してるんだけど、それがだんだん度を超えてくる。もう笑うことはなく、全力でやめるように言うんだけど、向こうは笑っているばかりで通じない。怖くなってきて、全力で叫び、殴り、蹴り、刺したりするんだけど、向こうはまだ笑っていて、全然私の力が効かない。恐怖Maxで、全身の力を振り絞ってやっつけようとするんだけど、まったく効かないのだ。そのうちに私の声が出なくなり、腕や足に力が入らなくなっていって、恐怖に泣き叫びながら沈み込んでいく。

ついでに話すと、もうひとつ「試験に間に合わない」という悪夢もある。大学の入試や、卒論提出、入社面接などにどうしても間に合わなくて、卒業できなかったり、仕事を見つけられなかったりして、実家から逃れられないという夢だ。「あそこを出たような気がしていたのに、すべてが夢だったのだ、私は永遠にこの人たちから逃れられないのだ」という恐怖と絶望に落ちていく。

両方とも、最終的に汗びっしょりになって飛び起きる。そしてすぐ、隣で寝てるを触って、「あれは夢だ、自分はもうあそこを出ている、大丈夫なんだ」と現実を確認する。

自分の存在が無視される環境で育ったために、自分でも自分がちゃんと存在していることが認識できない。きちんと自分が存在していて、世界に声が通って、力が及んでいるということが実感できない。だから、人から自分の存在(=感情)を無視されると、自分がまるごとなくなってしまうかのような異常な恐怖を感じる。誰も自分を信じてくれず、誰の目にも見えず聞こえない、そして世界から切り離され消えてしまう。この恐怖がとてつもなく強い。まさにそれが夢に出ている形だ。

自分の存在があやふやだということは、人と自分の間の心理的な境界線がないということでもある。これは心理学の考えかたで、「Personal Boundaries」と言う。

例えば、自分は「りんご」なんだけど、相手が自分のことを「みかん」だと言っているとする。

boundary 1

上記のように、境界線(Boundary)がしっかりあると、相手になんと言われようと「自分はりんごだ」という認識には揺らぎがないし、相手が理解してくれなくても、自分がりんごであることに関してなんの危機感も問題もなく生きていられる。自分と人は「違う人間だ」とわかっているからだ。相手に理解してほしければ、「自分は赤いし、オレンジ色じゃないし、りんごなんだよ」と主張したりもできる。そしてそれを相手が理解しなかったとしても、「おかしなやつ」と放置できる。

boundary 2

一方で、境界線がなかったり曖昧な場合、相手に「あなたはみかんだ」と言われてしまうと、「自分はもしかしてみかんなのか?」と思ってしまう。「赤だと思ってたんだけど、オレンジ色だったのか?」「みかんに見えるのかもしれない」「みかんに見えるみたいだから、みかんにならなきゃいけない」と、みかんになろうとしてしまったりもする。

境界線なし 「みかんだ」(表面的には違和感なし)
↓  「みかんだと言われて、違和感がある」(違和感はあるがなにかはわからない)
↓  「りんごだと思ってたのに、みかんだと言われるなんて変だ」(問題認識あり)
↓  「自分はりんごなのに、なんでわかってもらえないんだろう…」(つらい)
境界線あり 「いや、りんごですから」(正常)

私は現在、正常の一段階前の、つらい段階。そのうえ「自分がりんごである」という認識が薄いため、「あなたはみかんだ」と言われてもなにか違うと感じるのに、なにが違うのかわらない。なぜ違うかが説明できないから違うともはっきり言えず、なにか違うと感じているにもかかわらず、相手の言う通りみかんになるしかできない。これで精神を崩す。

これが、私が夫や人の言動に傷つくようになってきた原因だった。以前はまったく平気だったことが、だんだんと違和感を感じるようになり、ひどく傷つくようになったのだ。人のことを自分のように考えるのに、人は自分のことを同じように考えてはくれない。そうすると、のことを考えてくれる人がこの世に誰もいないことになり、自分の存在が消えてしまう恐怖にかられる。

それでもまだ、「なにか違う」と感じるようになってきただけ大きな進歩だ。今はつらいけど、今後、自分の構築と認識ができるようになってくれば、よくなっていくはずだ。

また、境界線がない人は、相手の影響を受けすぎてしまうため、みかんだと言う人にはみかん、バナナだと言う人にはバナナとなり、相対する人によって毎回違うフルーツになってしまう。どれも本当の自分ではないから、いつもバーチャルな人間関係になる。そして、そのうち本当の自分がわからなくなる。

相手がどんどん入ってきて、自分がどんどんなくなっていくので、いつも相手の都合や相手の希望ばかりを考えるようになってしまうから、ハラスメントにも遭いやすい。

私の家族には、境界線がほとんどない。それぞれがそれぞれと交わりあって生きている。妹に宛てた電報のお礼を母親がしてくるというのなどはその典型だ。「私宛ての郵便物がもし実家に届いても開けるな」と言ってあるにもかかわらず、毎回開ける。私がなにを言っても、通じない。私は「自分の一部」だと思っているから、私がなにを言おうとも、自分の頭がやりたいと言うことをやるだけなのだ。右手が「右に行きたい」と言っても、自分が左に行きたかったら、左に行くのと同じだ。

毒親や毒親育ちが、人の言っていることを理解しようとせず、自分の頭の中にこだわり続けるのは、このメカニズムがある。

生まれてからずっとこういう環境で育つと、もちろん自分がなくなる。自分の存在を認めてもらったことがないからだ。ひどいと、常に親の言うことばかりをこなすだけの人間になってしまう。自分を取り戻すことで、自分を認識し、相手と自分は違う別々の人間であることを認識する。すると人との間に境界線ができ、「人といるとどうして疲れてしまうのか」に書いたような「I」か「You」かが明確になり、思うようなコミュニケーションができるようになっていくのだ。

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2件のコメント

  1. 私も多分、今、この、
    リンゴの”つらい”の感じです。

    先日 親子カウンセリングをして、
    “やっぱりダメだった”とか
    “弱くなってる?”とか
    思っていたのですが、
    進んでいたんだって思えました。
    “気づかないほうが楽だった”とも感じました。
    相手のことを自分のことのように考えます
    (それはそれで失礼なようにも思いますが)
    でもむこうはなんで私の身になれないの??
    って、怒っていました
    (ああ、主語がないですね… 主語が行き来してしまいます)

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    1. > AKARUさん

      親子でカウンセリングに行かれたのですね。すごいご経験ですね。私も親とカウンセリングに行ったらどうなるのだろう?と思いました。でも確かに親と行ったら行ったで、最初は傷つくことも出てきそうですね。「なんで私の身になれないの?」と言う人に対しては、ではあなたは私の身になれるのですか?と言いたいです。けっきょくは誰しも完全に人の身になるということは不可能だと思います。「これがこの人の身になるということだ」と自分が思っているだけで、それが本当にその人に身になっているかどうかはわからないですよね。そういうところがわかり合えるといいですよね。

      主語がわからなくなること、私もそうでした。今だにそういうところがあります。こちらの記事のように英語で考えるとわかるのですが。日本語は言語の特性からしても境界線を意識する練習が難しいですよね。

      人といるとなぜ疲れてしまうのか
      https://gedokunosusume.com/2014/05/28/reason-being-exhausted-by-people/

      いいね

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