判断してはいけない

また、「前世療法の対面セッション」で出てきた幽霊が気になったので、その意味をセラピストに聞いてみた。

セ「幽霊は、心理的には内側からくるもの外側からくるものの2つに分かれます。どっちだと思いますか?」
私「うーん…やっぱり内側なんですかね。」
セ「じゃあ内側だったら、どうだと思いますか?」
私「うーん…幽霊は、私とお父さんのことを『いい家族だなあ』と思ってついて来ていて、『そんな自分はみっともないなあ』って思ったんです。こんなところで『いいなあ』なんて思っていないで、早く自分の家族のところに帰ればいいのにって。私も、人のことを羨ましいって思うことよくあるから。でもそれはみっともないから、そういうことはするなっていう意味ですかね。」

と言ったら、ものすごい勢いで止められた

セ「自分を『判断』しちゃだめです。『みっともない』って思っちゃだめですよ。」
私「え?じゃあ、どうしたらいいんですか?」
セ「『観察』してください。」

これが、まったくわからなかった。「観察」とは、いったいどういうことだろう。

セ「たとえば、常に隣にがくっついていて、その人が、あなたのやること全てをいちいち隣で判断して、『ああだこうだ』と言ってきたら嫌でしょう?」
私「ええ、まあ…」
セ「それと同じです。嫌でしょう?」
私「…どうなんでしょうか。それって、変なんでしょうか」

確かにからいちいち判断されれば嫌だろうけれど、でもそれが自分自身だった場合、それほど嫌だろうか。

でも、ここが私の問題の原点なのかもしれないと思った。日本語レッスンの後に、「つまんないと思われなかっただろうか」「ああも言えたな、こうも言えたな」「こうしてあげたらよかったのに」と、自分に対してものすごい「ダメ出し」をするけれど、同様のことを人と話した後にもやる。

でも考えてみたら、これは相手のことを考えてのダメ出しではなく、自分がよく思われたいためのダメ出しではないだろうか。もちろん、反省点があるときもある。でも別に、「あんた最低!」などと人から言われたわけでもない。自分の中で勝手に、あーでもないこーでもないとぐるぐる考えてしまうのだ。

私「じゃあ、どうしたらいいんでしょうか…」
セ「判断する前に、ストップすることです。でなくとも、『みっともない』と思っても、『あー判断しちゃだめだ』って、そこでストップすることです」

最初はできなくても、「判断したらだめなんだ」ということを知っていたら、次に判断し始めたときには止められる。すぐ止められるようにはならなくても、判断し始めて半ばくらいで「あ」となる。それを繰り返すうちに、だんだんと判断し始めてすぐ「またやってる」と気づけるようになり、そのうち判断する前に「判断とかしないよーん」となれる。

だから、気づきは大きな一歩だ。

自分で自分を判断してはいけない」。これは、私にとって衝撃の考えかただった。日本人なら誰しも、「人からどう見られているか」を考えて行動するように教育を受けていると思う。それは、正しい。でもきっと、私のような育ちかたをした自己肯定の低い人間にやらせると、果てしなく自分を責めていくスパイラルに陥ってしまうのだろう。

今ならそう理解できるけれど、このとき理解できたことは、「自分がダメ出ししなくても、人からダメ出しされることだってある。だったら、自分くらい自分を判断しないでやってもいいということではないか。」だった。でも、それでも一歩だった。

セラピストには、この前世療法で見えたことも、分析したりしないで観察するようにと言われた。見たことをノートにでも書いて、後で「あーそういえばこんなことがあったなー」と思ったりしていればそれでいいらしかった。すぐ考えて分析したがる私には難しいことだったけれど、分析はせずに観察というのは、「どう思ったか」「どう感じたか」を重点的に記録しておくということだろうと、あとになってわかった。

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